Culture
2020.07.10

豊臣秀吉は子を溺愛したって?親バカすぎて神様にまで文句を言った破天荒ぶり!

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父親愛。そう聞いて、私が思い出すのは「アルマゲドン」のラストシーン(何気に古くて申し訳ない)。接近する小惑星から地球を救うため、自分の身を犠牲にすることを決意。最後の任務に就くブルース・ウィルス演じる父親。ラストに娘と交信するところで、エアロスミスのクセのある声がバックでシーンを盛り上げる。もう、涙、涙、涙。

ちなみに、娘役のリブ・タイラーは、エアロスミスのボーカルであるスティーブン・タイラーの実娘。娘役を演じている最中に、実父の歌声が流れるという不思議なシーンで話題にもなった。

さて、子どもの為なら犠牲も厭わない。
親の愛情とは、そういうものなのだろう。それは、古今東西変わらず。さりとて、愛情表現の仕方は十人十色。戦国時代には多くの手紙や遺言、家訓が残されたが、じつに様々な父親愛をうかがい知ることができる。

そして、今回、取り上げるのは、独特な父親愛を発揮した人物。
天下人でお馴染みの「豊臣秀吉」である。

秀吉には、実子のほかに養子も何人かいた。彼らを可愛がる秀吉の新たな一面を、早速ご紹介しよう。

秀頼の女中へのお仕置きが恐ろしすぎる!

豊臣秀吉にまつわる資料を読めば読むほど、非常に厄介な男だと感じるのは、私だけだろうか。もちろん、後世に歪曲して伝わった可能性だってある。なんなら、創作された疑いも。

いずれにせよ。非常に人間くさい人物だったことは分かる。高潔とはほど遠い、人間の欲や煩悩をそのまま体現した、そんな感じ。そのせいか、敵方になれば厄介でも、いったん庇護下に入れば、怖いものなし。愛情を傾けた相手には、これでもかというほどに尽くす秀吉には驚かされる。

さて、その愛情の矛先が集中したのは、言わずもがな「子」である。
秀吉の「子」ほど、無敵となる立場はなかっただろう。教育上、何が良いかは別にして、秀吉の父性はずば抜けていたのだから。

おっと。失礼。例外があった。甥の豊臣秀次(ひでつぐ)を忘れていた。養子となり関白昇進まで実現しながら、謀反の疑いで失脚させられた人物だ。しかし、これも別の見方をすれば、実子の豊臣秀頼(ひでより)に愛情が移ったまでのこと。

この豊臣秀頼。生母は淀殿である。淀殿は、亡き主君、織田信長の姪。秀吉からの寵愛を受けた側室でもある。家督まで譲った秀次を排除するに至ったのは、秀頼への愛情が他に比べて抜きん出ていたからだ。その理由は他でもない。出自と生まれたタイミングがダブルで重なったのである。

北野恒富-「淀君」

じつは、意外にも、秀吉は多くの養子を迎えている。一向に実子ができなかったのがその理由。好色なのか後継ぎ欲しさなのかは別にして。秀吉が召し抱えた側室の数は、数えきれないほど。来日していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスの言葉を借りれば「宮殿を一大遊郭に化けせしめた」くらいだとか。

ただ、側室の数が多くとも、正室のおね(北政所、高台院)をはじめ、彼女らは子に恵まれず。運よくできたとしても、早世するなど、後継ぎ候補となる人物がいなかったのだ。そんな状況下で、半ば諦めかけていた矢先、淀殿に子ができる。

ちょうど、甥の秀次に家督を継がせた約1年半後。
文禄2(1593)年8月に、淀殿は無事に出産。それも、誕生したのは、亡き主君の血筋を引く男の子。幼名は「お拾(ひろ)」。のちの豊臣秀頼である。秀吉の喜びようは尋常ではなかったのも、仕方あるまい。

その常軌を逸した愛情が分かる豊臣秀吉の手紙が残っている。
日付は、慶長元(1596)年1月2日。秀頼が数えで4歳になる頃だとか。秀吉は、そんな幼子に対して手紙をしたためている。

「とても慕わしく思われるので、ただちにそちらへと参りまして、口を吸いたく思いますぞ。また、予が留守の間に、他人にその愛らしい口を吸わせていなさるのかと思い、残念でならぬ」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

何かの罰ゲームかと思いきや、至って、秀吉は真剣そのもの。本当に、自身の留守を悔やんでいる様子である。ちなみに、口を吸うとは、幼子にチュッチュッする感じだろうか。言葉、いや文字に起こせば、余計にその異様さが際立つ。

ただ、ここまでこき下ろしてなんだが。彼らの愛情表現を、他人がとやかく言うべきではない。一切、こちらには迷惑がかからないのだから。好き勝手やってくれたまえと、言いたいところ。

けれど、次の手紙を見れば、言葉を失ってしまう。
ああ、愛情の方向って大事なんだと実感する書状である。コチラは秀頼の女中に対しての処分が書かれたもの。

/豊原国周作『風俗錦絵雑帖ーきがあふか女中のなかよし』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

日付は慶長3(1598)年4月~7月の間と推測される。というのも、秀頼宛ではあるが、宛名が「中納言様」となっているからだ。なお、同年に秀吉は死去しているため、判断能力に欠けている時期だと推測される。

「さて、きつ・かめ・やす・つしについて、あなたの気に背いたとうけたまわりました。もってのほかのことで、母様に申し付けなさって、四人を一つ縄で縛り、父様がそちらへ行くまで置いておいてください。予がじかに参上してことごとく叩き殺してあげるよ。決して赦してはいけない」
(同上より一部抜粋)

正気の沙汰とは思えない。一方的過ぎる決めつけである。秀吉が現代に生まれていれば、間違いなくモンスターペアレンツになっているはずだろう。それにしても、気の毒な女中たち。どのような事情があるにしろ。たかだか4歳の子に、自分の命が握られているなんて。本当にひどい世の中だと嘆かずにはいられない。

このほかにも、異常さが際立つ手紙が残っている。例えば、「逆らうものがあればこき殺すほどに叩いてやれば逆らう者もいなくなる」など。秀吉の帝王学は残虐性を帯びたものとなっている。

秀吉の父親としての教えが、また違うものとなっていれば。ひょっとすると、その後の秀頼の人生は大きく変わったのだろうか。淀殿と共に大坂城で命尽きる、そんな未来ではなく、大名家の1つとして生き残れたのかも。そう思わずにはいられない秀吉の手紙であった。

豪姫可愛さに、稲荷大社へ狐狩りの予告?

豊臣秀吉の子への愛情は、こんなものではとどまらない。人間を成敗するなどは、まだ可愛い範疇。なんせ、今度の相手は「神様」ときたもんだ。

じつは、秀吉には、実子の他にも養子が何人かいる。
なかでも、特に可愛がったのが「豪姫(ごうひめ)」。

豪姫は、前田利家の四女。わずか2歳のときに、秀吉とおね夫婦の養女となっている。ちなみに、秀吉と利家は織田信長の家臣として共に支え合った仲。そんな信頼できる友の子であったから、可愛さはなおさらだろう。そんな出自も関係してのことだが、それだけではない。なんと、この豪姫、生まれつき病弱だったのである。

人間に備わった本能とでもいおうか。自分が守らねばという気持ちが強く働いたのだろう。豪姫に対する秀吉の愛情はことさら深いものがあった。加えて、豪姫は、同じく秀吉の養子である宇喜多秀家(うきたひでいえ)に嫁ぐことに。この宇喜多秀家も、養子の中では可愛がられた方である。

兄弟のように育った2人が夫婦となり、子をなす。秀吉からすれば喜びもひとしおだろう。しかし、そんな2人に不幸が襲う。豪姫が大病を患うのである。

そこで、養父、秀吉のご登場である。
キターーーーーー!
さてさて。世紀の決めつけ大王は、今度は何をやらかすのやら。

秀吉の対決相手。それは、京都の伏見稲荷大社。

えっ。なんで?
ああ、伏見稲荷大社に願掛けね。豪姫をどうか治して頂きたいみたいな。大がかりな祈祷かな。なんて、そんな生ぬるいものではない。

まずは、こちらの手紙を見て頂こう。『名将言行録』に記録されている内容である。日付は天正19(1591)年4月13日(諸説あり)。

「備前宰相(宇喜多秀家)の妻についている物の怪をみた。これは狐の所為である。なんのためにこのようなことをするのか。実にけしからんことと思ったが、このたびだけは免す」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

なぜか、秀吉、狐の仕業と断言。だって、手紙に「見た」って書いているからね。見たんだろうね。狐。

こうして、豪姫の容体が良くならないのは、狐の仕業だと。秀吉は勝手に思い込み、怒りに駆られて手紙をしたためる。それも、狐を神の使いとする稲荷神社の総本宮、あの千本鳥居で有名な京都の伏見稲荷大社に、恐れ多くも書状を出したのである。

それだけではない。内容がじつにいかがわしい。お願いではなく、ズバリ、脅迫である。それが次の文面から分かる。

「もしこの旨にそむき、少しも反省の色なきときは、日本国中に毎年、狐狩りを仰せつける。天下のありとあらゆるものども、この旨を慎みうけたまわるがよい。さあ、すみやかに、除去せよ」
(同上より一部抜粋)

どこまでも神様より上から目線の男である。それにしても、狐狩りって。なんだか、冗談で済まされないのが、秀吉の恐ろしさ。とっとと、全国にそんな発令を出している姿が目に浮かぶ。

ちなみに、『名将言行録』には、この手紙により豪姫の奇怪な病は治癒したと記されている。ただ、別の文献では、結果的に治らず。前田家の三種の神器である太刀の「大典太光世(おおでんたみつよ)」の力で快方に向かったとされている。

豪姫可愛さに、神様にまで脅迫する始末。
秀吉の父親愛は暴走しっぱなし。溢れ出る父性は最期まで枯れることはなかったのである。

それにしても、本当に豪姫の病状が回復しなかったら。
そんなことを、つい想像した。

徳川綱吉(つなよし)の生類憐みの令の真逆。
豊臣秀吉の「狐狩令(きつねがりれい)」が出ていたかも。

そうなれば、日本史も当然、変わる。
受験生たちは「豊臣秀吉、刀狩令、狐狩令」と覚えるワケである。で、案の定、彼らに散々文句を言われるワケだ。

「なんで、狐狩ってんの?」
「この人、ヤバくない?」

大丈夫。
だって「人間だもの」。いえいえ、「秀吉だもの」。

参考文献
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

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