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読み物
Culture
2020.07.16

小早川秀秋が養父秀吉に言われた苦情とは?なぜ関ヶ原の戦いで裏切ったかの理由も分かるかも!?

この記事を書いた人

「小早川秀秋(こばやかわひであき)」といえば、関ヶ原の戦いの「裏切り者」というイメージが強い。

そんな彼の幼少期をご存知だろうか。
一言でいえば「だらしない」。ちなみに、「だらしない」とは、きちんとしていない。整っていない。節度がない。そんな意味を全て持つ。

この言葉、もともとは「しだらない」。金髪を「パツキン」、六本木を「ギロッポン」というように、倒置されて使われ、現在に至るのだとか(諸説あり)。

さて、だらしない、いや、しだらない。どちらでもよいが、そんな小早川秀秋に対して苦言を呈したのが、こちらのお方。養父の豊臣秀吉である。

当時、秀秋は11歳前後。今でいえば、小学校高学年になったばかりだろう。大いに傷ついたことが予想される。

今回は、秀吉から出されたこの「訓戒状」をご紹介しよう。関ヶ原の戦いで東軍側についた心情が、ひょっとしたら理解できるかも。

是非とも、先入観を持たずに読んで頂きたい。
※この記事では、時代にかかわらず「小早川秀秋」の名で表記しています。
※冒頭の画像は、栗原信充画『肖像集8.小早川秀秋・真田信之』出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります。

小早川秀秋って、秀吉の甥っ子なの?

裏切り者として「明智光秀」ほどではないが、その足元くらいに及ぶのが「小早川秀秋」。有難くない意味で、日本の歴史上、燦然と輝く名である。ただ、後世では「小早川」と伝えられているのだが。じつは、秀秋の本来の姓は「木下」。一体、この「木下」とは誰なのか。

まず、辿るべき血筋は、豊臣秀吉の正室の「おね」側。
「おね」には「北政所(きたのまんどころ)」や「高台院(こうだいいん)」などの呼び名があるが、本名は全く別。「杉原定利(すぎはらさだとし)の娘」である。彼女は、のちに浅野長勝の養女となって、秀吉に嫁ぐのである。

「おね」を正室に迎えた豊臣秀吉だが、結婚当時の名は「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」。未だ「羽柴(はしば)」姓も名乗っていなかった頃の話である。しかし、織田信長に見出され、あれよあれよという間に大出世。

おねには、実兄がいたのだが、秀吉の立身に添う形で家臣となり、同じ「姓」の「木下」を名乗った。その名も「木下家定(いえさだ)」。家定は子に恵まれ、7人もの男子を授かっていた。

一方で妹夫婦である、秀吉とおねには、子がいなかった。そればかりか、秀吉はあれほど多くの側室を抱えながら、なかなか子宝に恵まれず。そのため、兄の子のうちの1人を養子にという話になる。

当初は、おねが推した三男の木下延俊(のぶとし)を養子に迎えるはずだったのだが。天正10(1582)年に五男である秀秋(幼名は辰之助、その後は秀俊)が生まれると、秀吉はことのほか可愛がった。そのため、この五男が秀吉の養子となったのである。これが、のちの小早川秀秋である。

小早川秀秋の養父であった豊臣秀吉像

天正12(1584)年(諸説あり)。2歳の秀秋は、秀吉とおね夫婦の養子となる。とにかく秀吉は可愛がった。もう、溺愛レベルである。だって、おねからすれば甥っ子。秀吉からしても、妻の兄の子なのである。全く他人というワケではないのだから、当然か。それにしても、大層な寵愛ぶりだったとか。

なんだか、背筋がゾクゾクと。この雰囲気、怪しすぎる。だって、どこかで聞いたことのあるような流れなんだもの。

そういえば、秀吉には実子が少なかったため、秀秋の他にも養子がいたはず。例えば、豊臣秀次(ひでつぐ)。彼も、確か甥っ子だったのではなかったか。秀吉の実姉である「とも」の子だった。それを秀吉が養子に迎え、後継者として関白にまで就任させたのである。

しかし、秀次といえば、悲劇の主人公でもある。一瞬にして、秀吉に手のひらを返されてしまったのだから。全ての事件の根源は、文禄2(1593)年、秀吉の側室である淀殿が子を生んだことにある。秀吉にとっては、待望の実子。それも男の子であったから、彼の「お世継ぎ計画」もリセットに。この嫡男「秀頼(ひでより)」の誕生で、多くの養子の人生が変わってしまうのだ。

そして、その中の1人。秀秋も同じ。
既に、秀頼のことしか頭になかった秀吉は、なんと、秀秋との養子縁組を解消することに。もう、秀吉の愛情は一気に冷めていたのである。

ここで登場するのが、秀吉の側に仕えていた軍師、黒田孝高(よしたか)。通称「官兵衛」である。この秀秋を他家の養子に出すことを考える。その白羽の矢が当たったのが、実子のいない毛利輝元(もうりてるもと)。毛利家の養子に秀秋をどうかという話になったのである。

一方で、この話に待ったをかけた人物がいた。毛利家の両川(りょうせん)と呼ばれた毛利元就(もうりもとなり)の三男、小早川隆景(たかかげ)である。毛利家にとって時限爆弾のような存在になるかもしれない秀秋。毛利本家よりも、自身の「小早川家」の養子にと申し出る。これには、秀吉も行き先が決まって喜んだとか。

こうして、文禄3(1594)年。秀頼が生まれた翌年のこと。秀秋は秀吉の養子から小早川家の養子へと鞍替え。ここに「小早川秀秋」という人物が、出来上がったのである。

キビシー!秀吉からの訓戒状

さて、秀秋が小早川家の養子となった経緯は、これまで見てきた通り。だが、果たして「秀頼」の誕生のみが、その理由といえるのか。

というのも、秀秋の人生には多種多様の「乱行」説がつきまとう。実際の死因だって定かではない。秀秋の様々な言動は、ただの徳川方が作った悪評なのか。それとも真実か。しかし、ここにきて、その謎を解くヒントがあった。

それが、秀吉の手紙。
じつは、秀頼が生まれる前のこと。天正20(1592)年10月12日の日付で、秀吉は1通の書状を秀秋に出している。それも、ただの手紙ではない。「訓戒状(くんかいじょう)」である。

「訓戒」とは、物事の理非・善悪を教えて諭し、戒めるコト。当時10歳前後の秀秋に、秀吉は戒めの言葉を送っているのである。その内容がコチラ。

「覚え
 一、学問に精を出すこと。
 一、鷹狩りは無用である。
 一、行水は目立つ所ではなく、局方でせよ。
 一、お歯黒は二日に一度ずつつけること。
 一、五日に一度、爪を切れ。
   付け足し。近場で召し使う者どもも身持ちを綺麗にするよう申し付けよ。
 一、小袖は美しい物を、衣紋を正しく着ること。
 一、細々としたことは山口の意見に従うこと。」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

まあ、最初の「学問に精を出す」はいいとしよう。「鷹狩り」もまあいい。どちらにせよ、自分の今の立場をしっかりと認識して、やるべきことをやりなさいという感じなのだろうか。

ただ、そこから、えらく「身だしなみ」関連の内容が多い。
突っ込みたい1番目は「行水(ぎょうずい)」の仕方。「行水」とは、たらいに湯や水を入れ、体を洗い流すコト。この訓戒状を見る限り、秀秋は目立つ所で行っていたのだろうか。全くもって理解し難いことである。

さらに、身だしなみ編は続く。
お歯黒、爪など、細かい内容まで訓戒状に含まれているのには、驚く。そこまで、具体的な指示が必要なほど、秀秋はだらしなかったのだろうか。

やはり、お歯黒のイメージは……。「今川義元」でしょう。歌川国芳-「太平記英勇伝-稲川治部太夫源義基-今川義元」

また、秀秋のみならず、その周囲の者に対しても、秀吉の言葉は及ぶ。それにしても、この訓戒状を見る限り、決して秀秋はデキの良いタイプではなかっただろうと、容易に想像がつく。

ただ、ここまで秀吉が細かい内容も含めて指摘したのは、愛情の裏返しとも取れなくもない。誰にだって経験があるだろう。口うるさい親、教師、先輩、上司。ただイジメるだけのためものなのか、愛情あってのあえての厳しい言葉なのか。それは、当の本人が一番身に染みて分かること。

秀吉だって、ひょっとしたらそんな思いを持っていたかもしれない。可愛い秀秋よ。正しく育って欲しい。立派な人物になって欲しい。そんな期待があったからの厳しい言葉。愛情があったからのことではないのか。

しかし、じつは。
この訓戒状には続きがある。最後の締めの文で、秀吉の真意が読み取れる。

「これらの条々に背くならば、予は仲良くしてやらぬぞ。よくよく分別するように」
(同上より一部抜粋)

おっと。
……。
思いのほか、ただの秀吉の「恫喝」ではないか。

この訓戒を守らなければ、秀秋と仲違いする。つまり、秀吉の養子という立場もなくなるとの意味合いに取れなくもない。一体、これを見た秀秋はどう思ったことだろう。こんな脅迫まがいのやり口で、秀秋は本当に改心しようと考えるだろうか。

厳しい言葉も指導も。自分のことを思ってくれるからこそ。自分への愛情が分かるから、人は、その思いにできる限り応えたいと思うのだ。ただの脅迫では、相手の心になど到底響かない。

そして。
それは、のちの秀秋の行動を見れば分かるのではないだろうか。この手紙のみが要因ではないが。「関ヶ原の戦い」で取った行動をみれば、やっぱりねと思わずにはいられない。

なお、この訓戒状は、のちの秀吉の行動の予言ともなる。
この翌年の文禄2(1593)年に秀頼誕生。そして、文禄3(1594)年、秀秋は小早川家の養子となる。

何かを予兆するかのような「訓戒状」。なんとも、切ない手紙であった。

最後に。
秀秋が小早川家の養子となった翌年。文禄4(1595)年。謀反の疑いにより、もう一人の養子であった豊臣秀次は、高野山で切腹。秀次のみならず、一族、幼子まで処刑という惨劇であった。

そういう意味では、秀秋にはまだ愛情があったのかも。
ただ、そんな秀秋も短命だ。
慶長7(1602)年。「関ヶ原の戦い」の2年後に死去。享年21歳。

短い人生だったが、天国も地獄も経験した秀秋であった。

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参考文献
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。