世間を騒がす大きな事件ほど、その顛末はあまり知られていない。
例えば、薩英戦争のきっかけとなった「生麦事件」。
大名行列に割り込んでしまった英国人ら4人を、薩摩藩士が襲撃した事件である。事件は有名だが、その後の顛末は……。
じつは、薩摩藩はどうすることもできず。苦肉の策として、架空の浪人をでっち上げた。そんな実在しない人物が、あろうことか1人でしでかしたと幕府に説明。なんなら、現在は逃走して行方が分からないとまで。
まあまあ強引なお茶の濁し方に、驚愕するばかり。
しかし、そんなグレーゾーンでの対応に、幕府も慣れたもの。つまりは、持ちつ持たれつの間柄ゆえのことか。
さて、歴史上に名を残すような大事件には、驚くような裏側が存在する。そんな世間からひっそりと隠れた「その後の顛末」を紹介するのが、今回の企画。
今回、取り上げる大事件となるのが、当時、世間をあっと言わせた「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」。
大老、井伊直弼(いいなおすけ)が斬り殺された前代未聞の大事件。コチラの顛末を、早速ご紹介しよう。
壮絶な現場となった「桜田門外の変」
日本史の教科書には必ず登場する「桜田門外の変」。
じつは、その時期には珍しく、大雪が降った日に起きた事件だったという。
安政7(1860)年3月3日。
江戸幕府大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)は、外桜田の彦根藩邸を出発。ちょうど、江戸城へと向かうところであった。
大老とは、江戸幕府の中で、老中の上におかれる臨時職。政務を総理する幕府最高の職であり、権限も非常に強い。そんな大老ともなれば、もちろん、行列の際に付き従う者も多い。井伊直弼も、数人で江戸城へと向かったワケではないのである。記録では、徒士(かち)26名、そのほか、足軽や籠担ぎなど総勢60名をも超える大集団だったという。
一方、この行列を急襲したのは、たった18名。水戸浪士17名と薩摩浪士1名。3倍もの人数相手に、血気盛んな浪士たちは、瞬時に斬りまくったとされている。
後に判明するのだが、井伊直政の首を取られた一番の理由は、油断。大雪が降り、付き従っていた供廻りらは、刀に柄袋(つかぶくろ)をかけていた。雪に濡れるのを避けるためである。しかし、コレがまずかった。水を吸収し、柄袋のひもは余計にほどけにくくなったのだ。
当然、刀を抜くことができず、対応が遅れる。この僅かな差が被害を甚大にした。たった数分で井伊直弼の首は斬られたとも。それだけではない。直弼の供廻りも4名が即死、重軽傷者も多数。終わってみれば、ひどい有様だったのである。
さて、今回の惨劇だが。
どうして「桜田門外の変」が起こったのか。
それは、当時、目指す方向性が大きく二分されたからだろう。鎖国中の日本に、「黒船(くろふね)」といわれる外国船が来航したのは嘉永6(1853)年。開国を迫られつつも、江戸幕府は進むべき道を模索する。奇しくも、この開国論は、13代将軍、徳川家定(いえさだ)の後継者問題と絡み合い、複雑化していく。
今回の襲撃の大半は水戸浪士。もともと水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)はバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい)派。「尊王攘夷」という考えは、王権復古、天皇を尊び政治の中心とする「尊王」と、外国を追い払う「攘夷」とが結びついたもの。
徳川斉昭は、14代将軍候補として推された「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」の父である。一方、彦根藩主の井伊直弼は、開国推進派であり、紀州の徳川慶福(よしとみ)を推す「南紀派」。
議論渦巻く中、大老となった井伊直弼は、一気に終結させるべく、強気な姿勢で施策を進める。まずは、一橋慶喜を推す「一橋派」の官僚を幕府内部から更迭。そして、安政5(1858)年6月19日、日米修好通商条約を締結。これは、天皇の許可を得ない無勅許(ちょっきょ)条約であった。
その6日後。
次期将軍を発表。14代将軍に南紀派の徳川慶福(よしとみ)が決定。さらには、井伊直弼の強引な進め方に批判した者たちを、徹底的に弾圧した。特にその対象となったのが「一橋派」。水戸藩主の徳川斉昭らが蟄居(ちっきょ、自宅や一定の場所での謹慎)となり、大名、公卿(くぎょう)、幕臣、諸藩士ら多数が弾圧された。これが、世にいう「安政の大獄(あんせいのたいごく)」である。
この復讐を果たさんと、一橋派からは自然と憎悪が積もる一方。憎むべきは「井伊直弼」。そんな目的を掲げ、いよいよ彼らは行動起こすのである。
こうして、大老、井伊直弼は桜田門外で急襲を受け、命を落とすのであった。
一体、井伊直弼の首はいずこへ?
襲撃が終われば、即時解散とばかりに、水戸浪士らは現場から逃走。ただ、1名は即死。残り17名のうち12名は、傷が原因での死亡、自決、自訴して斬刑に処せられるなど様々な末路を辿る。血気盛んな彼らを待ち受けていたものは、どうやら「死」だったようだ。
なお、井伊直弼の首を斬った薩摩浪士、有村次左衛門(じざえもん)はというと。近江国(滋賀県)三上藩主の遠藤但馬守(えんどうたじまのかみ)の屋敷前まで逃げたのだが、そこで力尽きてしまった。
井伊直弼の首を横に置いたまま、自決。
唯一の薩摩浪士であった有村の最期であった。
さて、困ったのは、井伊直弼の首が置かれた三上藩主の屋敷。とりあえず、藩主である遠藤但馬守が引き取ることに。じつは、この三上藩、滋賀県の琵琶湖の右岸を領地にしており、井伊直弼の彦根藩とはご近所という立地関係。じゃあ、とっとと、彦根藩に首を返せばいいじゃないと思うのだが。
まさかの、意地悪?
なんと、彼らは首を返さないのである。
三上藩は1万2,000石。一方、彦根藩は大老、井伊直弼が藩主で、25万石の領地を誇る。やっかみがあったのかなかったのか。
それは、さておき。
もちろん、もっと困ったのは彦根藩の方だろう。
主君である井伊直弼の胴体は彦根藩邸に戻ってきたのだが、いかんせん、首がない。聞けば、あの三上藩主の屋敷にあるというではないか。なんとしても、首を取り返さなければならない。なんなら、もう力ずくでもと言いたいところ。
というのも、その時の彦根藩内部は確実にパニックに陥っていたという。
だって、主君、井伊直弼は襲撃され死亡。そんでもって、まさか死など予期していなかった直弼は、嫡男さえも決めていない有様。
現代の感覚ならば、そりゃ仕方ないと思うだろう。主君の突然の死。しかも、襲撃した相手が100%悪い。井伊直弼は完全な被害者である。しかし、当時の感覚であれば、襲撃を許した井伊直弼側にも不備があったという認識。だって、不覚にも主君たる者が「横死(殺害、災禍により死ぬこと。不慮の死)」という結果なのだから。
当時、武士の「横死」は藩の命運を左右するもの。場合によってはお家断絶、所領没収も「あるある」な時代。彦根藩にしてみれば、とっとと、主君の首を返してもらって、なんとか横死ではないと装いたい算段。
こうして、彦根藩は急遽使者を出して、遠藤家の屋敷に急行。首と殺害犯の引き渡しを要求したのだが、三上藩は拒否。どうやら、実情を確認するための検使待ちを理由に、断ったという。これには彦根藩も大困り。要職についた者を使者として再度要求しても、三上藩は相変わらずの塩対応だったとか。
なんとも、井伊直弼からすれば、本当に「死に損」の時代だったのである。
ええっ。受取書の「加田九郎太」って誰?
ようやく、待ちに待った日がやってきた。
遂に検視も終わり、井伊直弼の首は、やっとこさ、彦根藩に戻ることに。
さて、ここで。
三上藩は、彦根藩に対して首を返す代わりに、その受取書を要求する。
その名も「加田九郎太(かだくろうた)」の首の受取書。
……?
加田九郎太って、一体誰よ?
井伊直弼って別の名があったの?
じつは、加田九郎太は、供廻りのうちの1人。簡単にいえば、井伊直弼の従者という身分。
ええっ?
殺されたのって、てっきり井伊直弼だと思っていたけど、別人?
いや、首を斬られたのは、彦根藩主の井伊直弼、その人である。
だったら、結局、加田九郎太って誰なのよとなるワケで。堂々巡りである。
事の真相はというと。
加田九郎太という人物の名は、彦根藩にない。というか、世界中のどこを探しても、そんな人物はいない。存在しないのである。つまり、加田九郎太は架空の人物。
主君、井伊直弼が横死となれば、お家断絶の危険があったのは御存知の通り。そのため、今回襲撃されて死んだ人物も、井伊直弼ではなかったと。架空の「加田九郎太」なる者が、井伊直弼の代わりに斬られたのだと。こう、彦根藩は捻りに捻って考えたのである。もう事実が一回転どころか三回転どころかしての着地パターン。
そして、彦根藩の言い分をそのまま額面通りに受け取った三上藩。分かりましたと。加田九郎太ですね、と。だったら、受取書も「加田九郎太」と書きなはれ的な返し。こうして、無事に井伊直弼の首は彦根藩に戻り、早速、胴体と繋ぎ合わされることに。既に死んでいるのだが、奥の間に寝かされて。いやいや、うちの主君は寝込んでいるだけで、ピンピン生きてまっせという茶番劇。
彦根藩としては、井伊直弼は只今、病気療養中。その間に、側室の子である愛慶麿(よしまろ、のちの直憲)を嫡子として届け出る。これを受けて幕府も、井伊直弼が暗殺されたと知りながら、存命中だと。彦根藩の発表を全面的に信じた体にしたのである。なんといっても、井伊家は、徳川四天王の井伊直政の血脈が受け継がれている家系。簡単にお家断絶などできないという裏側の事情。
結果、紆余曲折があったものの。
幕府は、無事に、井伊直弼の大老職を解く。実は死んでいるにもかかわらず、存命中と言い張る井伊直弼であった。
それから1か月後。
彦根藩より、正式な発表がなされる。
主君、井伊直弼の死去。享年46歳。
ようやく、この日をもって、井伊直弼は死ぬことを許されたのであった。
遺体は招き猫で有名な豪徳寺(ごうとくじ)に埋葬されているのだとか。なお、命日は襲撃の当日、3月3日ではない。もっと後の日付が刻まれているという。
結局。
いつの時代も、架空の人物を仕立て上げ、難を逃れようとするのは同じこと。ちなみに、生麦事件の架空の人物の名は「岡野新助(おかのしんすけ)」だとか。揃いも揃ってありそうな名前である。
架空の人物を作り出す。
それって、「漁夫の利」の……逆バージョンでもないし。
責任を転嫁させる「スケープゴート」……でも、彼らは実在しないし。
要は、ブラックボックスの人物版。「ブラックパーソン」を作り出すということか。
頭がいいのか悪いのか。
この結果。
彦根藩は、難易度の高いウルトラCの大技を、見事成功させたのであった。
参考文献
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月
『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月
『100年前の三面記事』 大沢悠里のゆうゆうワイド選 株式会社角川 2016年1月