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2020.07.24

平和が訪れた江戸時代、戦国武将はどうしてた?猛将・福島正則が引き際に見せた男の意地とは

この記事を書いた人

「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」で有名な漫画家、手塚治虫氏は、こんな名言を残している。

「人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ」。

我が苦境を嘆くのではなく、見方そのものを変える。それだけで、ネガティブな感覚が小さくなるのかもしれない。逆境の中であっても、ある種の潔さを感じるこの言葉。やはり、最後は「覚悟」がモノをいうのだろうか。

さて、時代は、戦乱の世から江戸時代の幕開けへ。これまで戦いに明け暮れていた戦国武将たちにも、大きな変化が訪れる。

それが「忍耐」と「覚悟」。

今回は、戦国時代の終焉と共に、あっぱれな覚悟で男の意地を見せた「福島正則(まさのり)」の引き際をご紹介したい。何かにつけ「酒」にまつわる逸話が多く、単なる「大酒飲み」のイメージが強い戦国武将なのだが。じつは、子どものように素直で、一本筋の通ったところも。

果たして、そんな福島正則の見せた「覚悟」とは?
江戸時代に入り、不遇の人生を歩むこととなった彼の最期をご紹介しよう。

逸話に困らない福島正則という男。

まあ、それにしても福島正則の逸話を探せば、出るわ出るわで。ただの酒飲み、短気で勘違いも甚だしいという一面もあれば。情に厚く、こうと決めれば頑固一徹、変にこだわる一面も。

歌川国芳-「太平記英勇伝-吹嶋政守-福島正則」

例えば、天下分け目の戦いといわれた「関ヶ原の戦い」。
福島正則は、豊臣恩顧の大名ではあったが、徳川家康のいる東軍へと味方した。石田三成憎しと、加藤清正ら秀吉子飼衆(こがいしゅう)も、こぞって東軍に。慶長5(1600)年9月15日のことである。

当日。予想に反して「関ヶ原の戦い」は、1日で決着がつく。蓋を開けてみれば、総崩れとなった西軍が一気に敗走。そんななかで戦場に取り残された一軍がいた。九州の島津義弘である。周りが伊吹山へと敗走するなか、島津隊だけが、まさかの東軍の真ん中を突っ切って、正面突破を図ることに。

鬼気迫る島津隊は、主君である義弘を生きて戦場から出さんと、捨て身の戦法に出る。『名将言行録』によれば、このときの福島正則は、そんな島津隊に攻めかからんと、単騎で駆けだしそうになっていたという。

関ヶ原古戦場(撮影:大村健太)

「武士の墓場は戦場」と豪語する福島正則。これに対して、家臣らは鞍や馬にとりついて、必死で正則を止めたのだとか。もはや、島津勢の恐ろしさは、朝鮮出兵時の攻防戦で証明済み。そんな島津勢が本気の本気。マジモードで目前を駆けていくのである。中途半端に関わって痛い目を見るくらいなら、ここは見て見ぬふりくらいがちょうどいい。追撃は不要。家臣らはそんな計算をしたのだろう。

大勢が正則の馬に取りついて、強引に引き戻したという。それでも、後ろ髪を引かれる思いの福島正則。結果、歯ぎしりをしながら、馬上で体をねじって我慢。正則曰く、敵に後ろは見せたくないからと。そんな無理な姿勢で戻ってきたのである。

これぞ福島正則。
そんな話が、なぜだか彼の周辺にはゴロゴロと転がっている。その性格からか、逸話として残りやすいのか。武功ももちろんだが、失敗談も多い。えてして、逸話には事欠かない男なのである。

えっ⁈台風による被害で修復したのに?

「関ヶ原の戦い」の功により、福島正則は大きく躍進。徳川家康より、安芸(広島県西部)と備後(同東部)、合わせて49万8,000石を与えられる。これでめでたしめでたしと、江戸時代をくぐり抜けられれば良かったのだが。

そう甘くはなかったようだ。

幼少より豊臣秀吉に仕え、秀吉恩顧の大名でありながら、秀吉死後は徳川家康に与する。ただ、秀吉の嫡男であった秀頼(ひでより)に対する忠義や、豊臣家再興への思いは未だ捨てきれず。福島正則に対して、そんな評価が徳川側から下されていたのではないだろうか。

だからだろう。
50万石ほどの所領を維持するには、あまりにも無防備だった福島正則。人を信じ過ぎた結果が災いした。ちょうど、徳川家康が死した2年後の元和4(1618)年4月。江戸城からの呼び出しで、正則は、幕府に無許可で行った広島城の修繕を咎められることに。

広島城

当時の法律「武家諸法度」により、江戸幕府に無断で、諸大名らが城の修繕を行うことは禁止されていた。幕府に届け出をし、その許可が下りなければ、いかに台風で崩れようとも修繕することができなかったのである。それを福島正則は無断で行ったというのだ。

ただ、じつは、江戸幕府が怒ったのにもワケがある。
もともと、江戸幕府は大名の軍事力を削ぐため、「一国一城令」により、居城以外の城の破却を命じていた。にもかかわらず、福島正則は築城を行い、ちょうど毛利家からの報告で、その事実が幕府側に発覚したばかり。

城の破却を命じられたところで、またもや福島側より、城の修繕の申し出が。正則からすれば、一応は届け出を出していたようである。ただ、この申し出は2ヶ月もの間、宙に浮いたまま。逆をいえば、この申し出に対して、幕府から正式な許可が下りなかったのである。

結果、台風の被害にやむを得ず、正則は修繕を行うことに。一説には、2代将軍徳川秀忠の側近、本多正純(ほんだまさずみ)から、口頭で「問題ない」との返答を受けていたとも。それを信じたのが運の尽き。正則が行った修繕は「無断」修繕に当たるとして、「武家諸法度違反」に問われたのである。

再度、幕府に謝罪し、なんとか修繕した部分の破却を条件に、お咎めなしで収まることに。しかし、福島正則は強気だった。「本丸以外の修繕部分を破却」との条件に対して、「本丸の修繕部分のみの破却」で済ましたのである。

元和5(1619)年6月。
福島正則の一連の言動に対して、江戸幕府は厳しい処分を下す。なんと安芸、備後の所領は没収。これに代わって、津軽(青森県)の4万5,000石が与えられることに。北の果て。それも49万8,000石から約1/10の所領に減封されたのである。

「平和の弓」といった福島正則の本音

無念にもほどがある。
そう、福島正則は後悔しただろうか。

場所もさることながら、強烈な減封である。
この処分を受けて、正則はふと考えただろうか。
これまでの人生を振り返って、どの選択が誤っていたのかと。

豊臣恩顧の大名であるにもかかわらず、「関ヶ原の戦い」で東軍側へと味方した時か。はたまた、大坂の陣で江戸居留守役を命じられ、従軍できなかった時だろうか。徳川家康に対して恩を売ったと思い上がっていた自分は間違っていた。そう確信しても、時既に遅し。

福島正則像(摸本)東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

だからこそ。
こんな厳しい処分であるにもかかわらず、福島正則は静かに受け止めたのだろう。

一方、周囲からは、この処分に福島正則が反発すると推測されたようだ。反乱の可能性がある。そんな恐れから、2代将軍、徳川秀忠が不在の際、幕府は、江戸にある福島の3つの屋敷にそれぞれ1万人の兵を置いたのだとか。

だが、周囲の予想は大きく外れる。
『名将言行録』によれば、正則はこのように返したとう。

「正則はその旨をうけたまわって、しばらくしてから、『大御所(家康)がご在中であれば、申し上げたいこともありましょう。当代(秀忠)になられてからは、もはやなにも申し上げることはありません。とにかく仰せにしたがいましょう』」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

居城広島城でも、明け渡しはスムーズだったという。家臣らは、城内をくまなく掃除し、書類や目録を揃えて提出し、城をあとにした。

こうして、恭順な態度で処分を受け止めた福島正則に対し、江戸幕府側も折れることに。津軽ではなく、越後魚沼(新潟県)に2万5,000石と信濃川中島(長野県)に2万石に変更。安芸と備後に代わり、2つの地に合計4万5,000石の所領が与えられたのである。

かつて猛将と恐れられた多くの戦国武将たち。
それも、平和が訪れた時代では、逆行する存在になったということか。特に、豊臣恩顧の大名らは、余計にそう思われたのかもしれない。単なる偶然か。福島正則だけではない。彼らは、のちに改易などの憂き目にことごとく遭っている。

それでも、そんな時代を真正面から受け止めて。
正則は信州の地で、穏やかに過ごす。

寛永元(1624)年7月13日。福島正則死去。享年64歳。
なお、幕府から遣わされた検使が到着する前に、正則の死体は家臣の手で荼毘(だび)に付されたという。一説には自刃との噂もあるが、真偽は定かでない。

ただ、幕府からすれば、正則の死体を確認できず。再度お咎めに。既に次男、忠勝(ただかつ)の死で、魚沼の2万5,000石は返上していたため、残りの川中島の2万石が没収。さすがに目も当てられない惨状である。

のちに、幕府からは「関ヶ原の戦い」の武功が考慮され、正則の四男、正利(まさとし)に3,000石が与えられる。福島家は、旗本寄合席(よりあいせき)として復活するのであった。

最後に。
福島正則という人物は、かつて数多くの武功を上げ、豊臣秀吉、徳川家康と2人の天下人に認められたほど。そんな戦国武将が、江戸幕府の一方的な処分に従わねばならない現実。家臣としては辛くて悔しかったに違いない。このとき、家臣が福島正則に向って、このような処分とは幕府も一体どういうつもりなのでしょうと、問うたことがある。

これに対して、正則はこんな言葉を残している。

「弓をみてみよ。敵があるときはこのうえもなく重宝なものだが、国が治まっているときは、袋に入れて土蔵に入れて置く。わしはつまり弓である。乱世のときに重宝がられる人間さ。今このように治世の時代となれば、川中島の土蔵に入れられたのだ」
(同上より一部抜粋)

「平和の時の弓」。
まさしく、自分の存在が、時代にそぐわない遺物だと、感じていたのだろうか。

しかし、それでも構わない。時代が平和であれば、それもまたよいではないか。
そんな言葉があとに続くような気がしてならない。

参考文献
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。