浮世絵界に大きなインパクトを与えた絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。寛政6~7(1794~1795)年のうち、なんとわずか10カ月間に145点あまりの浮世絵を発表し、そのまま姿を消してしまいました。プロフィールも詳しいことはわかっていません。
写楽の代表作は、舞台役者の“ブロマイド”だった「役者絵」の中でも「大首絵(おおくびえ)」と呼ばれるもの。その表現技法があまりに斬新で、賛否両論を巻き起こしました。ミステリアスな天才絵師・写楽の作品について詳しくご紹介しましょう。
役者の個性を際立たせた「大首絵」
まずはこちらの画像をご覧ください。きっと誰もが一度は目にしたことがある、大変有名な浮世絵です。このような役者のバストアップを描いた役者絵を「大首絵」といいます。
これは、寛政6年に上演されたお芝居『恋女房染分手綱』の登場人物・江戸兵衛を描いたもの。大きな顔に対して手が小さく描かれており、吊り上がった目と眉、キリリとつぐまれた口から緊張感がひしひしと感じられる一枚です。
写楽はこの『三世大谷鬼次奴江戸兵衛』を含めた28枚の役者絵で華々しくデビューしました。
写楽の緻密な表現
写楽の浮世絵に見られる細かな表現や、取り入れた技法をご紹介しましょう。
手元で役者を表現
顔だけでなく、手にも注目してみましょう。力強い役柄の場合は固く手が結ばれていたり、女性役の場合は指先までの美しい流れが表現されていたり。小物を手に持っている絵もあります。
手元を緻密に表現することで、芝居の場面や役柄をリアルに描写しているのです。
着物の家紋にも注目!
役者の着物には、家紋が描かれています。これは、当時の役者は家紋で見分けられていたためです。家紋を見れば「ああ、これはあの役者さんね」と役者絵を買った人々は理解できました。
背景がキラキラ光る「雲母摺(きらずり)」
子どもの頃、お菓子にキラキラしたシールが入っていたり、キラキラの折り紙を手に入れたりするとすごく嬉しくありませんでしたか?
写楽の大首絵は雲母摺と呼ばれる技法が使われ、背景がキラキラしているのです。画像で見ると灰色一色に見えてしまいますが、それは手で動かしてみないと光の反射が起こらないから。背景がキラキラ輝くことで、役者がさらに際立って見えたことでしょう。私たちの子どもの頃のように、キラキラ光る役者絵をコレクションしていた人もいたかもしれません。
特徴を強調しすぎて嫌われた?誰だって美しく描かれたい!
大きなインパクトを与えたものの、写楽の大首絵は賛否両論を巻き起こし、当時の江戸ではあまり受け入れられませんでした。そんな写楽の大首絵の特徴は、その人の顔の特徴を捉え、強調して描いている点です。
特徴をクローズアップすることで、役者の個性が際立っています。しかし、顔の特徴には美しい面も醜い面もあるもの。例えば鼻が大きいことを気にしている人が、ドドーンと大きな鼻を描かれたらどう思いますか?
「気にしている場所を強調して描かれた!もうあの絵師には描かせないで!!」
私だったらそんな気持ちになると思います。誰だって似顔絵は美しく描かれたい。人々のそんな気持ちが、写楽の肖像画を受け入れられなかった一因ではないでしょうか。
また、役者絵はファンが購入するブロマイドでもありました。誇張して描かれたブロマイドは「ちょっと!私の大好きなあの役者さん、こんな不細工じゃないわよ!!」とファンの反感も買ったことでしょう。
大首絵だけじゃない!全身も描いていた
上半身をクローズアップした大首絵が有名な写楽ですが、全身の役者絵も描いています。全身を使った躍動感溢れる作品が数多く出版されましたが、あの大首絵のインパクトが強すぎたせいかあまり知られていません。
写楽の作品は4期にわたって発表されましたが、次第に精彩を欠いていきました。有名な大首絵は第1期の作品です。
プロデューサーは、あの蔦屋重三郎!
写楽をプロデュースしたのは江戸のヒットメーカーである版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)です。
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿・山東京伝など著名な作家を輩出し、数々のヒット作を世に送り出しました。そんな蔦屋のもとで、写楽は豪華な「大判サイズ」の浮世絵でデビューを飾っています。名もない絵師が最初から大判サイズを出すのは異例のこと。実は写楽のデビュー前に、蔦屋重三郎は政府から財産の一部を没収されています。写楽は、蔦屋起死回生の期待を背負っていたのではないでしょうか。
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アイキャッチ画像・記事中の画像はすべてメトロポリタン美術館蔵