江戸の遊郭「吉原」の遊女たちは、年季が明けるか、大金を払って身請けしてくれる男が現れるまで吉原を出ることができませんでした。そのため、恋仲になった客と遊女が心中することも珍しくなかったのです。
遊女と客の悲恋は、たびたび小説や演劇の題材になりました。今回取り上げるのは「箕輪心中」と呼ばれる武士と遊女の心中事件。わずか19才で心中した綾絹(あやぎぬ)と、残された家族の悲しい運命をご紹介します。
愛しい遊女・綾絹が他の男のものに
1785(天明5)年8月13日、一人の旗本と遊女の心中事件が起こりました。旗本の名は、藤枝教行(ふじえだ のりなり)。藤枝外記(ふじえだ げき)とも呼ばれるこの男は、石高4000石の裕福な武士でした。
藤枝は吉原の遊女・綾絹と深い仲に。しかし、富裕な町人が綾絹を身請けすると知った藤枝は大きなショックを受けます。綾絹が他の男のものになるのは許せないけれど、富豪の財力には太刀打ちできない……。思いを遂げるために残された手段は「心中」でした。
綾絹の心中事件の顛末
藤枝は、吉原からこっそり綾絹を連れ出し逃亡。しかし、吉原は監視の目が厳しかったため、すぐに追手が迫ります。
藤枝は「もはやここまで」とばかりに綾絹を刺殺。自身も後を追って自害しました。このとき藤枝は28才、綾絹は19才という若さ。心中の地が箕輪(三ノ輪)だったため、この事件をもとに『箕輪心中』という作品が生まれました。
さらに、太田南畝が記した「君と寢やるか、五千石とろか。なんの五千石、君と寢よ」という端唄も流行したのだとか(実際は4000石ですが、語感の良い5000にしたものと思われます)。
裕福な町人のもとで自由に過ごす未来もあった綾絹と、4000石の武士という立場を捨てて心中の道を選んだ藤枝。2人の心中は悲恋として美化されましたが、そのしわ寄せは残された家族に向かいました。
残された家族の運命
藤枝には綾絹と同い年の妻がいて、4人の子どもをもうけていました。当時、幕府は心中を『相対死(あいたいじに)』と呼んで大変重い罪としたため、一家は藤枝の心中を隠ぺいしようとします。しかし、隠ぺいは失敗に終わり、藤枝の母と妻は押込処分(一定期間幽閉する刑罰)となりました。
母も妻も、藤枝の放蕩に心を痛めていたに違いありませんが、心中された上に刑罰まで受けるなんて……。理不尽な話ですが、心中はそれほど重い罪だったのです。
さらに藤枝家は改易(武士の身分と領地・屋敷を没収)されます。改易は、切腹に次ぐ非常に重い処分でした。心中事件の当の本人は亡くなっているため、その憂き目にあったのは若い妻と、幼い子どもたちだったのです。
心中した2人は思いを遂げて満足できたかもしれませんが、残された家族の苦しみは計り知れません。
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アイキャッチ画像:アムステルダム国立美術館より