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片岡仁左衛門×坂東玉三郎 奇跡の「国宝コンビ」のすべて

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2025.01.17

なぜ日本各地で行われたのか? 「嫁盗み」の風習と江戸時代の悲劇

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「嫁盗み」という言葉から。
どのようなシチュエーションを思い浮かべるだろうか。

「嫁」を「盗む」のか。
それとも
「嫁」が「盗む」のか。

たった1文字で、意味するところは大違い。
前者の「嫁」を「盗む」というのは、まさしく略奪婚のようなイメージだろうか。
それとも、まさかのまさか。もし強引に奪取する誘拐行為の類ならば、かなり物騒な話となる。

一方で、後者の「嫁」が「盗む」というのも、それはそれでやっぱり物騒だ。
家庭内での内輪の話なのか、はたまた、嫁で構成される窃盗団の一味なのか。
どちらにしてもよい話ではなさそうだ。
明らかにきな臭い匂いがプンプンして仕方ない。

はて。
「嫁盗み」とは、一体、どちらのコトなのか。

ヒントは、「嫁盗み」らしきコトが記されている書物にあった。
その名も『日本九峰修行日記(にほんきゅうぶしゅぎょうにっき)』。
書いたのは、日向国(宮崎県)佐土原(さどわら)の安宮寺の住職であり、高位の山伏であった「野田泉光院成亮(のだせんこういんしげすけ)」。

修験者であった彼は、文化9(1812)年から文政元(1818)年まで諸国巡歴した6年余りの日々を日記形式で綴っている。日本各地で見聞きした風習や感想などが書き留められており、江戸時代の日本を知ることができる書物といえるだろう。
じつは、この日記の一節に「嫁盗み」が登場する。

──「人の娘子を盗取り、女房にすること」

おっと。
「嫁盗み」とはまさかの前者、「娘」を「盗んで嫁にする」というコトだったのか。

今回は、コチラの「嫁盗み」がテーマである。
そもそも「嫁盗み」とは、どのような風習だったのか。
「嫁盗み」が招いた悲劇など、その驚くべき結末も併せてご紹介していこう。

※冒頭の画像は、宮川春汀「美人十二ヶ月」「其十一」「嫁入」 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

そもそも「嫁盗み」って何?

まずは、先ほど一部をご紹介した『日本九峰修行日記』に話を戻そう。
全国各地を巡礼した野田泉光院は、ある地域に関して、他にはなく珍しいことがあると記している。

その地域とは、なんと九州の「長崎」。
一部、抜粋しよう。

「長崎に他國に無き珍しきこと十九ヶ條程あり…(中略)…
一ツ人の娘子を盗取り、女房にすること、是は近所の若者を頼み取ること也」
(野田泉光院著「日本九峯修行日記」より一部抜粋)

なんとも、長崎には他の地域とは違う珍しいコトが19個もあるって?
いやいや、それはあまりにも多すぎるだろうと大きくのけぞったが、待てよと、急に姿勢を正した。

確かに。
これまで長崎が辿った歴史を考えれば、「他所にない文化」が醸成されていてもおかしくはない。長崎市のホームページも「和華蘭(わからん)文化」という、決してギャグではなく真面目な意味合いでのキャッチフレーズを打ち出している。和(日本)、華(中国)、蘭(オランダ、ポルトガルなどの西洋)との交流を通じて、長崎独自の文化を築き上げたとか。実際に、野田泉光院が列挙した中には今なお「長崎の文化」として残っているものもある。夏の風物詩である「精霊流し」や長崎の食文化を体験できる「卓袱(しっぽく)料理」などは、じつに有名だ。

歌川広重(3世)「日本地誌略圖」「六十七」「肥前國」「長崎港」 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

一方で、眉を顰められそうな風習も。
それが、コチラの「嫁盗み」である。
一般的には、相手の娘を「嫁」として所望しても、娘本人や親族などが承諾しないときなどに、仲間と共謀し相手の娘を盗み連れてくるという行為を指す。詳細は後述するとして、これだけだとなんだか乱暴で粗野なイメージだが、じつは婚姻の当事者である2人は合意済みという場合が多い。

ちなみに「嫁盗み」は、なにも長崎独自の風習ではない。じつに全国各地で確認されている風習なのである。
日本を代表する民俗学者、かの柳田国男も著書『婚姻の話』でこのように説明している。

「嫁盗みの資料は、思いのほか豊富なものである。そうして全国の隅々にわたり、少しずつ形の差異をもって、話だけは今も伝わっている。ただ、近頃まで現実にそれが行われていたという地方は、目に立つほど片よって西日本の方に多いのである…(中略)…主として九州の北の一隅に止まり、しかも同種の事例は汎くかの全島に及んでいるのである。長崎県下の嫁盗み地帯は、小さな島々ではまだわずかしか知られておらず、今日観察せられたのは島原・彼杵(そのぎ)の二半島のものが多い」
(柳田国男著「婚姻の話」より一部抜粋)

初版が昭和23(1948)年の書籍なので、文中の「近頃」というのも、現在からすればかなり昔の話である。なかでも、わざわざ「長崎」の地名が挙がっていることからして、長崎の嫁盗みは有名なのかもしれない。

ただ、同じ長崎でも。
江戸時代に大村藩の支配下にあった「戸町村(とまちむら、現在の長崎市中央部から南寄りの地域)」では、少しばかり事情が違う。
文化7(1810)年8月24日付けで、この「戸町村」から「大村藩」へ1つの願書が出されている。
その内容がコチラ。

「右之次第相考候得者、此以後女ハ減少ニ相成候而村中ニ而縁組不相成候、(中略)女之儀者年齢無御構縁組御免被下置候様奉願候」
(大村市史編さん委員会 「新編大村市史 第5巻 (現代・民俗編)」より一部抜粋)

内容はというと。
長崎からの「嫁盗み」で、村の娘の人数が減ってしまい、村の中での縁組みができない状態だ。大村藩の定めである「嫁に行ける年齢が25歳以上」という規定をどうにか廃止してほしいとのこと。

当時の大村藩下では、どうやら女性は25歳にならないと嫁に行けなかったようである。
その規定を戸町村は固く守っていたのだが。長崎の「嫁盗み」という風習が「戸町村」まで及び、村の娘を駕籠(かご)に押し込めて盗んでいく事件が多発。娘を取り返しにいくものの、なす術もなくそのまま娘を置いて帰るという場合もあったとか。その結果、村の娘は25歳にならずして次々と奪取されて減少、なんと村での縁組ができないという衝撃の事態となったというのである。

これは切実だ。
長崎の「嫁盗み」の風習も、ここまできたら、全くもってお騒がせな悪習というしかない。

それにしても、である。
一体、どうして、このような風習ができあがったのか、疑問で仕方ない。
ただ、歴史を紐解けば。
じつは、そこには庶民の知恵が詰め込まれていたのである。

お断りされた場合の次の手とは?

それでは、ここで改めて「長崎の嫁盗み」の流れを一通り説明しよう。

まず、本人同士が恋仲になっているなど、合意がある場合は非常に単純だ。
相手の娘やその親族に予め「嫁盗み」を伝えておく。そして、近所の若者らと待ち伏せ、娘が出てきたところを駕籠などに押し込めて、盗んだ男性側の家へと連れてくるという流れである。

驚くのは、さらってくる道中のコト。
駕籠を担いで娘を運ぶ途中、大声で「何町の誰それが、何町の誰それという娘を盗んだー」と触れ回る。「嫁盗み」実行中と周囲にお知らせするのである。ただ、それを聞いても地元民は誰も驚かなかったというから、よくある日常の風景だったのだろう。

そんな娘を盗んだ男性側の家では、同時並行でちゃっかりと酒宴が準備されている。
さらに男性側の親族や知り合いの女性らも集まり、お目当ての娘が着いた途端、上げ膳据え膳のおもてなしで娘を迎えるのである。

一方の盗まれた娘、つまり女性側の方はというと。
すぐに「取戻し」という名目で、口利きの男性ら(仲人のような役割)が盗んだ男性側の家に押しかける。そこで共に酒を飲みながら、縁談の話がまとまるという筋書きだ。円満な「嫁盗み」である。

歌川豊国(3世)「卯の花月」 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

ただ、世の中、そう単純に割り切れるコトばかりでない。
やっかいなのは、単に男性側が一方的に恋慕している場合である。これは、なかなか一筋縄ではいかない。というのも、町中での偶然の一目惚れであったり、嫁探しの末にターゲットが確定したという、もう完全に犯罪臭がするような状況だからである。

なんなら、見当をつけた家の娘の顔をみるために、辻芝居の役者らに金を払い、家の前で芝居をさせるという手段も珍しくなかったとか。芝居を見に家の外に出て来た娘の顔を拝むのである。なんだかなあ。ここまでされたら、ちょっと引くような気もするのだが。そんな娘の気持ちはお構いなしなのだろう。

このような場合でも、相手となる娘の親族に予め縁談の相談がなされていればまだマシな方だ。娘本人が知らぬだけというコトになる。だが、完全に娘の親族の誰もがノーマークの場合は、寝耳に水。
どちらにせよ、娘本人や親族の許諾がない場合でも、娘を強引に盗んで連れてくる手順は先ほどと同じである。ここでも、道中ではしっかりと大声で「嫁盗みぞ!」とアピールするようだ。

その後の流れも同様だ。
盗まれた娘、女性側の一行が家に押しかけ、酒を囲んで話し合い。なかには、逆にいい縁談じゃないかと親に説得される娘もいたという。
ただ、どうしても娘やその親族が拒否する場合は、結果的に娘を連れ戻すというオチ。娘が「NO」という意思表示をしている以上、娘の貞操は守られるため、辛うじて犯罪の烙印を押されないのだろう。

なお、合意がない嫁盗みの場合は、盗まれた側の娘の対応も重要となる。
基本的に年頃の娘たちは「嫁盗みの心得」を学んでいるという。通常の流れであれば、盗んだ男性側の家に到着後、おもてなしを受けるのだが、その際に出された食事に箸をつけないなど、周囲に「NO」という意思表示をするのである。どれほど説得されても、諦めずに自分の意思を強くアピールするのがポイントだ。

なんなら、そんな悠長なコトなど言ってられないと、盗まれた娘本人が自力で男性側の家から逃げ出す場合も。
こうなれば、もちろん盗んだ男性側の面目は丸つぶれ。だって「嫁盗み」って町中で触れ回ってるんだもの。失敗したからといって、後日改めて、2回目、3回目と「嫁盗み」を繰り返すことはできないだろう。

歌川国丸 「雪中の惣嫁」 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そこで、どうしたか。
逃げ出された場合、その日のうちに誰でもいいからと「嫁盗み」を再度行う者もいたという。とにかく「嫁盗みの失敗」をなしにしたい一心からだろう。

ただ、そんな尋常ではない精神状態で行うのだから、成功率は極めて低い。気持ちだけが先走り、その結果、「娘」ではなく、娘の羽織をかけて偶然に出てきた「母親」を間違えて盗んできたという事例もある。もちろん、男性側一行は平謝りし、丁重に家まで送り返したのは言うまでもない。

こんな笑い話で終わればいいが。
時代の変化と共に、あまりにも無謀な「嫁盗み」も出てくるようになった。
そのため、なんと長崎奉行も「嫁盗み」の取り締まりを行っている。
それがコチラ。文化13(1816)年12月29日付けのお触書である。

「市中郷中において多人数申し合せ嫁盗みと唱へ理不尽に娘下女等を奪ひ連れ越し候儀ままこれ有るやに相聞え不届の至りに候向後右躯の狼藉いたすものこれ有らば速に召し捕へ重科に行ふべく候」
(森永種夫著「犯科帳」より一部抜粋)

嫁盗みをした場合、即刻捕らえて重罰を科すぞという脅しである。

それにしても、である。
どうして「嫁盗み」が風習として根付くようになったのか。
そもそも「嫁盗み」は、決して軽々しく行えない。事前に仲間と打ち合わせをして駕籠などを用意し、その後の酒宴まで計画する。それに娘との合意がない場合、労は多い割に成功するという確約もない。さらにバレれば重罰を科される可能性だってある。あまりにもメリットが少ないように思えるのだ。

じつは『長崎市史』に気になる記述がある。
注目すべきは、この「嫁盗み」が行われていた層についての内容だ。

「中流以下の者に至りては婚禮の儀式を簡易にし、仲人を介せずして妙齢の女を途上に要し之を奪ふて妻となす者も亦少くはなかつた。是を嫁ぬすみと稱ふるのである」
(長崎市役所「長崎市史 第8」より一部抜粋)

どうやら長崎で嫁盗みが行われていた範囲は限られていたようだ。「中流以下」の層と明確に書かれている。

どうして「中流以下」だったのか。
そこには、婚礼のための資金不足という事情があったという。
あえて娘を「盗んで」もらうことで、周囲には婚礼の準備をする暇もなかったと説明することが可能だ。これぞ庶民の知恵。「嫁盗み」により、晴れがましい舞台を用意できなかった罪悪感を薄め、プライドも守ることができる。

それだけではない。
例えば、2つの家より縁談が持ち込まれた場合にも「嫁盗み」は役立った。
この場合、娘側はいったん2つの家に対して縁談を断る。その後、縁談に応じたい一方の男性側にあえて「盗んで」もらう。これにより、娘がどちらかを選んだとはならず、2つの家共々、体裁を繕うことができた。確かに双方の顔を立てるという理由も納得である。

さらには、本人同士が婚姻を望んでいるにもかかわらず、親族の反対にあっている場合などでも「嫁盗み」は行われた。
駆け落ちとまではいかないが、ソフトに親族の賛成を促す手段としても有効だったようだ。

だが、すべてというワケではない。
「嫁盗み」の効果の当てが外れて、悲劇が起きた場合もある。
これは次項に譲ろう。

めでたいはずが……「嫁盗み」の悲劇

ココに1つの判決がある。

判決
せき― 丸山町・寄合町の役人どもを呼び出してその旨を含ませ、せきをくつわ(遊女屋主人)に与え、遊女として奉公させる
源七― 五島へ遠島
権兵衛以下四人― 過料一貫文ずつ
(森永種夫著「犯科帳」より一部抜粋)

これは長崎奉行が出した「嫁盗み」に関する1つの判決だ。
出されたのは、享保8(1723)年。先ほどご紹介した長崎奉行の「嫁盗み禁止」のお触書よりは、かなり前の時期となる。

それにしても、事件として扱われるのは稀なコト。よほど男性側がひどいことをしたのだろう。だって、当事者と思われる「源七」は遠島、つまり島流しとなっているからだ。
嫌がる相手の女性に対し「嫁盗み」を一方的に企て……。

ふむ。
おかしいぞ。

「せき」という女性、恐らくコチラも当事者だろうと思われるが、彼女も判決を受けている。それも、遊郭への払い下げ。つまり「遊女奉公」である。女性にとってはかなり重い刑罰となる。期間がない過酷な労働という意味では懲役と同様、いや、それ以上とも考えられる。

歌川国貞(2世)「風柳月三夕」「柳橋しづ」「柳ばしやつこ」「柳橋小みね」  出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これは一体どういうコトなのか。

そもそも、この事件。
「嫁盗み」の当事者の2人は互いに密書(恋文)をかわしている仲だったという。男は、北馬町の権左衛門の倅(せがれ)の「源七」。女は桶屋町の次郎左衛門の娘の「せき」。2人で所帯を持つ、そんなささやかな願いも実現するのは難しかったようだ。「せき」の父親、頑固者の次郎左衛門が2人の婚姻を猛反対していたからである。

そこで、源七は仲間の権兵衛ら4名に頼み、とうとう「嫁盗み」を決行。
もちろん「源七」「せき」の両人ともが望んだ「嫁盗み」である。

ここまでは、通常の「嫁盗み」のパターンと何ら変わりがない。
次は、盗まれた女性側からの「取戻し」の申し入れだ。「取戻し」との名目で口利きの男性らが盗んだ側の家に押しかけると、そこでは既に酒宴が用意されている。で、なんだかんだいっても、結果的にまとまる……

えっ?
今回は、まさかの、まとまらない?
ふむ。
まあ、そういう場合も、僅かながらあるだろう。
絶対にオメーにゃ可愛い娘を嫁がせないぞ、なんて。なかにはそういう親だっているはずだ。

実際に、次郎左衛門も断固、首を縦に振らなかった。
娘を返すようにと「源七」に申し入れしたのである。
ただ、それでも「源七」は一向に帰す気配がない。というより、娘である「せき」本人が帰りたくないと、こちらが断固拒否。困ったことに父親と娘の主張は平行線。収拾がつかない状況に陥ったという。

そこで、父親の次郎左衛門はどうしたか。
なんと、長崎奉行へ訴え出たのである。

楊洲周延 「千代田之御表」「於吹上公事上聴ノ図」  出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

ふむ。
親父……。
やっちまったか。
確かに、娘本人が拒否すれば、引っ張って家に連れ戻すワケにもいかず。2人の婚姻を反対し続けることは難しいだろう。こうなれば最後の手段として「出るとこ出ようぜ」と、奉行所への訴えを選択したのか。それとも、ひょっとすると「お灸を据える」という意味くらいで、言い方は悪いが奉行所を利用したのか。どちらにせよ、次郎左衛門はこの婚姻をすんなりとは認めたくなかったようだ。

ただ、長崎奉行に訴え出たところで。
当事者両人は所帯を持ちたい、父親は反対という完全なる「民事」の事件である。基本的に内々の協議で一件落着する事案……

えっ?
まさかの、江戸の老中まで?
話が持ち込まれたって?
ふむ。
とんだ不幸話である。どうやら、親が反対しているにもかかわらず、若い2人が強硬手段に出たコトが、かなりの「親不孝」と判断されたようだ。長崎奉行は「せき」を「不幸ものの至極」として、どのような判決がいいものかと江戸にお伺いを立てたという。

もう、こうなると。
いくら父親の次郎左衛門でも、どうしようもない。
あろうことか、「嫁盗み」の結末は、本人たちも手が届かない次元へと吹き飛ばされてしまったのである。

こうして、最初にご紹介した「判決」に戻る。

ただ2人で所帯を持ちたかっただけなのに。
婚姻を望んで強硬手段に出た若い2人は「親不孝者」として、長崎奉行より厳罰が言い渡された。

「せき」は遊女屋へ。「源七」は五島へ。

薔薇色になるはずだった2人の未来は、この瞬間、永遠に閉ざされたのである。

貞秀『肥前崎陽〔玉浦風景之図〕・〔肥前崎陽〕玉浦風景之図』出典: 国立国会図書館デジタルコレクション

いやいや、まさかこれで終わり?
まだ救う手立てがあるはずだ、そう思いたいのも頷ける。
というのも、遊女屋への払い下げが執行されるのは稀のコト。払い下げと同時に縁者より身請けされるため、実際は「犯科帳」への記載もされず、執行にまで至らないケースが多い。つまり、判決の内容は、現実的に「懲戒」の意味合いでなされたようなのである。じつに、父親の次郎左衛門もこれを狙ったのだろう。

で、でも。
「源七」と「せき」の判決って、犯科帳に記載されて……る……はず?
そうなのだ。
ここでも2人は運に見放された。
今回に限って刑罰は実際に執行され、嫁入りするはずだった「せき」は遊女に。

それも、通常の遊女奉公であれば「年季明け」としていつかは家に帰れるが、「せき」にはそもそも「年季」という期限がない。
こうして、「せき」は30歳を過ぎても遊女のまま。
いつしか心身ともに変調をきたし、とうとう遊女屋の主人が見かねて赦免を願う書面を作ったところまでは分かっている。
だが、その書面も提出されず仕舞い。
その後、どうなったかは不明である。

最後に。
本来ならば。
「嫁盗み」とは、幸せになりたいと願う者たちの最後の手段である。
それは一種の「賭け」であり、
自分の人生そのものを賭けての求婚ともいえる。

どうせなら、幸せを招く「嫁盗み」であってほしい。
誰もが笑顔になる、そんな結末を見たいものである。

野田泉光院著 「日本九峯修行日記」 杉田直 1935年
長崎市役所 「長崎市史 第8」 清文堂出版 1938年
原郊月編著 「日本のナポリ長崎 復活版」 国際文化顕彰会長崎支部 1957年1月
森永種夫著 「犯科帳」 岩波書店 1962年1月
藤林貞雄著 「性風土記」 岩崎美術社 1967年
嘉村国男著 「人情ぶらぶら節 : 新・長崎風俗考 前編」 長崎文献社 1979年11月
大村市史編さん委員会 「新編大村市史 第5巻 (現代・民俗編)」 大村市 2017年3月
柳田国男著 「婚姻の話」 岩波書店  2017年7月
赤瀬浩著 「長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド」 株式会社講談社 2021年8月