日本には、古くに建てられた城郭が数多く残っています。なかでも大阪市民から「太閤はんのお城」と親しまれている大阪城の人気は絶大。戦国武将・豊臣秀吉の城のイメージですが、現存する大阪城は秀吉が築城したものではないことをご存知でしょうか? では、秀吉が手がけた初代大坂城※はどうなったのでしょう? この謎について、地元民が探ってみたいと思います!
地下7メートルに初代大坂城の石垣!?
豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した初代大坂城は、「三国無双(さんごくむそう)」の城とたたえられる豪壮華麗な城だったと言われています。けれども、慶長20(1615)年に大坂夏の陣で豊臣方が敗れた後、徳川幕府によって新たに徳川大坂城が築かれました。初代大坂城の痕跡については、長い間よくわからないままでした。
昭和34(1959)年、大阪市・大阪市教育委員会・大阪読売新聞社が協力して、大坂城の謎の解明に乗り出します。すると、思いがけない発見があったのです!
地中深くを調べたところ、現在の天守閣広場の地下7メートルに石垣が確認されたのです。現在の大阪城の石垣とはあきらかに違う、野面積み※(のづらづみ)だったことから豊臣秀吉の石垣発見と新聞でも大きく取り上げられました。
初代大坂城の本丸図の発見!!
大阪市経済戦略局、観光部観光課・主任学芸員の森毅(もりつよし)さんに、豊臣石垣について聞きました。「最初の発見時は、まだ豊臣時代のものと確定するには慎重でした。それが1年後に、豊臣時代の大坂城本丸を描いた絵図が発見されたのです」。
かつて城大工をしていた中井家に保存されていた絵図には、どこにどういう御殿があって、どこに石垣があったのかが詳しく記されています。発見された石垣が、絵図に描かれたどこの位置にあたるのかを推測することが可能となりました。
その後、昭和59(1984)年に行われた「金蔵」※東側の水道工事に伴う調査で、またもや地下石垣が見つかります。高さが約6メートルの大きな石垣で、先に発見された石垣と同じく野面積み。この発見によって、2カ所の石垣の位置が絵図と符合し、豊臣時代の石垣で間違いないと判断されました。長らく謎とされていましたが、今の石垣が全て徳川幕府再建時のもので、豊臣時代の石垣は地下に眠っていることが確定したのです。
大阪出身の私は、天守閣は復元された近代建築であることは知っていました。でも石垣はずっと豊臣秀吉が造ったものと思い込んでいたので驚きです!
秀吉の石垣は、どうやって運んだのか?
これだけの長い年月を経ても、良質な状態で地中に残っている豊臣石垣、何だかロマンを感じます。石垣造りには大量の石が必要とされますが、いったいどうやって運んだのでしょう?「大きな石になると修羅(しゅら)と呼ばれる木ぞりの上に乗せ、大勢で綱を引いて運び出したとする江戸時代の文書や絵図が残っています」と森さん。
よく聞かれる伝説としてあるのが、「大阪人が昆布だしを好むのは、秀吉の大坂城の石垣造りが関係している」というもの。石を運ぶ修羅の滑りをよくするために、ぬらした昆布を敷いて巨石を運んだと言うのです。「役目を終えて町に残された大量の乾いた昆布を、もったいないと商人たちがしょうゆで煮たところおいしいだしが出た。それを期に昆布文化が定着した」という説です。
森さんは、はっきりとは検証できないと前置きしつつ、「運びやすくするためにそういうこともあったかもしれませんね」。大阪特有のうどんなど、だし文化を愛するものとしては、事実であったらいいなと思います。
発掘調査の出土品から想像する秀吉像
豊臣秀吉は身分が低かったにも関わらず、機転の良さで出世した武将。戦国時代を生き抜き、全国統一を成し遂げました。こんな有能な人とたたえる評価と共に、テレビドラマの時代劇に登場する秀吉は、派手好みに描かれることが多いように思います。
豊臣石垣の調査では、当時使用されていたと思われる出土品も発掘されています。金箔が施された瓦が多数出てきたことから、豊臣大坂城では本丸、二の丸だけでなく三の丸にも金箔瓦が使用されていたことがわかります。華やかで豪華な城の姿が浮かびます。
瓦と共に出土した物の中には陶磁器類もありますが、それらはシックで落ち着いたデザイン。美濃国(現在の岐阜県)で製作された天目茶碗※(てんもくちゃわん)や、「楽焼き」に似た黒釉の茶碗です。パブリックイメージとは違い、実像は多面的な人物だったのかもしれません。
豊臣石垣公開プロジェクト!
世紀の大発見だった豊臣石垣は調査が終わると再び埋め戻され、現在は見ることができません。大阪市では昭和59(1984)年に発見された石垣を掘り起こし、常時見学できる公開施設の整備を進めています。「秀吉が築城した城はたくさんありますが、この施設が完成すれば、天下人の城が2つ重なっていることが実感できると思います」と森さん。
令和4(2022)年春完成を目指し「豊臣石垣プロジェクト」として、「太閤なにわの夢募金」への寄付を募っています。大阪市経済戦略局、観光部観光課担当係長・藤田淳志(ふじたあつし)さんは、「現在の天守閣は3代目になりますが、昭和6(1931)年に市民の熱意で復興されたものです。豊臣石垣も皆様の力をお借りして、完成できたらと思っています」。
2020年11月開催の「大阪城天守閣の秋まつり」では、大阪城本丸広場の地下に眠る豊臣石垣の見学が可能です。昭和34年に発見された石垣の上部は、通常はふたをされて非公開ですが、この時だけは地上からのぞき込んで見ることができます。戦国時代の息吹が感じられそうですね。
※参考文献:『天下人の城大工ー中井大和守の仕事ⅲー』編集・執筆 中井正和、谷直樹、山本紀美、戸柱美智代 発行 大阪市住まいのミュージアム
『よみがえる金沢城②ー今に残る魅力をさぐるー』編集 石川県金沢城調査研究所 発行 石川県教育委員会
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