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2020.10.29

五代友厚とは何者?ディーン・フジオカ、三浦春馬も演じた「大阪の恩人」とは?

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三浦春馬さん主演映画 『天外者(てんがらもん)』 のモデル、五代友厚(ごだいともあつ)。新一万円札に描かれる渋沢栄一(しぶさわえいいち)と並び「西の五代、東の渋沢」と称された実業家で、“大阪の恩人” といわれています。
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じて一躍有名となり、“五代ロス” なる言葉を生み出し、ドラマでもその生き様に多くの人(特に大阪人)が「ありがとう!五代さま!!」と熱狂しました。薩摩藩士でありながら “大阪の恩人” と言われるまでになった五代友厚の生涯と大阪との深い縁を紹介します。

薩摩藩士から明治政府の要人へ

激動の時代の薩摩に生まれる

五代は幕末から明治時代に活躍した実業家で、西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)を輩出した薩摩で天保6(1835~1836)年に生まれました。この年は天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)、坂本龍馬(さかもとりょうま)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など、歴史上に名を残した人物が多く誕生した年でもあります。五代は薩摩藩11代藩主島津斉彬(しまづなりあきら)から開国思想と富国思想を強く受け継ぎ、斉彬亡き後も薩摩藩富国路線の最前線で活躍を見せます。

前途洋々の青年時代

五代は藩から派遣された長崎で勝海舟(かつかいしゅう)や商人のトーマス・ブレーク・グラバーと交流を持ち、渡航経験で人脈や国際感覚を身に着けていきます。あまり華々しい歴史の表舞台には登場しない五代ですが、若い頃から、時代を動かした多くの人物との交流が見られます。
高杉晋作:上海に向かう船の中で出会う
西郷隆盛・大久保利通:同郷
トーマス・ブレーク・グラバー:長崎で出会う
勝海舟:長崎で出会う
坂本龍馬:長崎で出会う(後に「いろは丸沈没事件」で土佐藩と紀州藩の交渉を仲介したのが五代)

旧グラバー住宅(長崎):トーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築

みな歴史の教科書で出てくる偉人です。ディーン・フジオカさんや三浦春馬さんが演じたことから、イケメンでスマート(頭がいい)なイメージ。加えて歴史上の重要人物たちとの交流があり、前途洋々に見えますが、そんな五代にもブラック歴史があるんです……。

薩英戦争で捕虜に

文久2(1863)年9月14日、薩摩藩士が生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)で島津久光(しまづひさみつ)の駕籠に近づき行列を乱した騎馬のイギリス人を殺傷。いわゆる「生麦事件(なまむぎじけん)」です。戦争回避のためイギリスと交渉を目論見る五代ですが、この事件を契機に起こった薩英戦争では乗っていた蒸気船ごと拿捕され、イギリスの捕虜となってしまいます(結果、捕虜となった五代の弁舌により英国が上陸作戦を断念)。しかし開放された後も、幕府では五代らの責任を追及する声、藩内では英国との内通を疑う声があり、しばらくは身を潜めていなければなりませんでした。この時代に敵方の捕虜となり生きて帰ってくるというのは、周りの目が厳しかったのではと想像に難くありません。五代さまにこんなブラック歴史があったなんて……。

ですが、そんな中でも五代は藩に「上申書」を提出し、上海貿易や、英仏への留学の必要性と渡航中に発注したい機械類などを提案しています。

五代の提案は「富国」のために海外貿易を進め、その利益で西洋の文明機械を輸入して「富国」のための産業を振興し、併せて軍艦や銃器を輸入して「強兵」の用に供するというものです。そのようなことを進言するには、西洋から物を買えば済むのではなくて、最新の文明を西洋から学ばねばならないので、英仏に留学生を派遣しようという組み立てになっています。
出典:『新・五代友厚伝』 八木孝昌

激動の時代、薩摩藩としても国際感覚と知識を持ち合わせた五代は貴重な人材です。藩はこの上申書に応じ、五代は晴れて帰藩となりました。
留学先で五代は薩摩藩としてパリ万国博に出展することを画策。これには天皇の下に徳川と薩摩は同等だと諸外国に知らしめる意味もあり、このパリ万国博の出展を機に、薩摩焼は「SATSUMA」としてヨーロッパで高い評価を得ることになりました。

薩摩藩英国留学生を称えた『若き薩摩の群像』 写真提供:公益社団法人 鹿児島県観光連盟

実はこの留学時にもちょっと恥ずかしいブラック歴史が誕生しています。

マドラス号は、乗船人数250名、客室30室の蒸気客船で食堂、浴室、トイレが完備されていた。洋式の便器を初めて見た五代友厚は、きれいな陶器に水が流れる便器を見て、洗面器と勘違いして顔を洗った…後に財部実行は述べている。
出典:薩摩藩英国留学生記念館

なんと……、水洗便器で洗顔したらしいのです。そんなことバラさなくてもいいのにとも思いますが、完璧すぎる五代さまの数少ない失敗が垣間見えるおもしろいエピソードです。今でいうと、ヨーロッパ旅行や留学先でバスルームのビデ※を見て「?」となる感覚と似ているかもしれませんね。

※ビデ:イタリアなどのバスルームで、主に下半身を洗う用途で便器の横に設置されている

五代友厚と大阪経済

五代は国際経験の豊かさを買われ、幕末から神戸事件(備前藩とフランスの衝突)や堺事件(土佐藩とフランスの衝突)などの外交問題の解決に奔走。慶応4・明治元(1868)年2月には新政府の参与職外国事務局判事を任ぜられ大阪在勤となり、大阪開港事務に携わります。
また、幕府の金銀貨幣は質にバラつきがあり国際的に通用する通貨が必要とされていたこの頃、トーマス・グラバーの斡旋で香港から英国造幣局の中古機械を購入し、大阪造幣寮(明治政府の様式総合工場)を設置。更には、渋る大阪の有力両替商らを説得し、大阪に為替会社・通商会社設立を策します。

ところが翌年5月には横浜に転勤を命じられます。栄転なのか左遷なのか、どちらにも説があり、はっきりしたことはわかっていません。

撮影協力:大阪商工会議所 大阪企業家ミュージアム

これには部下も大阪商人もビックリ。留任嘆願書が出されたくらい、五代は当時の大阪においてなくてはならない存在となっていたのでした。

官を辞して再び大阪へ

五代は横浜に転勤し2か月で退官。今の世なら「次の仕事までちょっとゆっくり……」と言いたいところですが、五代はそうではありませんでした。五代は新政府を退き実業家に転身。大阪に戻り、維新後の社会の激変によって疲弊していた大阪経済の立て直しに奔走したのです。

実業家に転身した五代が関わった事業を年譜で見てみましょう。

五代友厚年譜(横浜転勤以降を抜粋)

1869年(明治2年) 5月 大阪の富豪を説き、大阪に為替会社、通商会社設立を策す。
会計局権判事に任ぜられ、横浜転勤を命ぜられる。
7月 政府に辞表を提出し、大阪に戻る。
1870年(明治3年) 本木昌造とはかり大阪活版所をおこす。
1871年(明治4年) 10月 大和国吉野郡に天和銅山を開く。
1872年(明治5年) 6月 三井・小野組合銀行(のちの第一国立銀行)の設立に関与。
10月 大和国吉野郡に赤倉銅山を試掘。
11月 近江国愛知郡に蓬谷銀山を買収。
1873年(明治6年) 1月 鉱山管理会社・弘成館設立。
1874年(明治7年) 3月 東京京橋築地入船町に弘成館出張所設置。これ以降、大阪を西弘成館、東京を東弘成館と称す。
5月 小野組顧問格となる。
7月 岩代国伊達郡の半田銀山の払い下げを受ける。
1875年(明治8年) 1月~2月 五代友厚の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。
1876年(明治9年) 9月 製藍会社・朝陽館設立。
11月 五代らの奔走により堂島米商会所再興。
1878年(明治11年) 8月 五代らの尽力により大阪株式取引所設立。
9月 広瀬宰平らと協力して、大阪商法会議所設立、初代会頭となる。
1879年(明治12年) 9月 藤田組贋札事件が起こるが、五代は藤田伝三郎の無実を弁護。
12月 買い占めによる米価騰貴に対して、広瀬宰平らとともに売り向かい、売り崩す。
1880年(明治13年) 8月 大臣岩倉具視に米納復活意見を建議。
11月 私立大阪商業講習所(後の大阪商科大学、大阪市立大学)を設立。
1881年(明治14年) 3月 大阪製銅会社設立。
6月 北海道交易などを行う関西貿易社を創立し、総監となる。開拓使官有物払い下げ事件に関わり、批判を浴びる。
1882年(明治15年) 12月 神戸桟橋会社設立。
1885年(明治18年) 9月25日 東京築地の別邸で死去

出典:『商都大阪をつくった男 五代友厚』宮本又郎 著

中でも五代の人脈を物語るのが明治8(1875)年の北浜の料亭(現:花外楼)での大阪会議です。五代は大久保利通の要請で、政府要職を辞した木戸孝允(きどたかよし)と板垣退助(いたがきたいすけ)を政府に呼び戻すための舞台裏方を努めました。

そして、大阪人なら誰もが知っている北浜の大阪取引所。五代は大阪の両替商であった鴻池善右衛門、住友財閥の住友吉左衛門、三井元之助らと大阪株式取引所(現:大阪取引所)の設立発起人に名を連ねています。誰だかよくわからないけど大阪取引所前のあの銅像のおじさんがディーン・フジオカ五代さまだったのか!と、連ドラではじめて気づいた時の大阪人の衝撃といったら。一時ツイッターのタイムラインはあの銅像の写真であふれたのでした。

大阪商工会議所も五代が設立に携わったもののひとつ。やはり建物脇には五代友厚像が建てられています。

薩摩出身の五代は剣の腕もたち、この銅像は示現流(じげんりゅう)の使い手がいつでも抜刀できるポーズだといわれています

国家富強の財源としての鉱山事業

欧米で先進文明に触れた五代は、国家富強の財源として鉱山事業に着手します。明治4(1871)年の天和銅山(現:奈良県)の取得を皮切りに、開鉱や買収などで合計26カ所の鉱山を所有し、鉱山王と呼ばれるまでになりました。明治6(1873)年には所有する鉱山の経営統括機関として「弘成館」を設立。これは従来の日本にはない近代的経営組織で、大久保利通は「五代にしてはじめて可能な大事業」と述べたといいます。

五代が手がけた数多の事業

当時の大阪で五代のかかわらなかった事業はないとまでいわれていますが、興した事業は私利私欲に走るものではなく全て国益を重視したのもでした。五代の事業は今に残るものは少なく、そのためか大阪に生まれ育った人でも五代の名を知る人は少なかったというのは残念なことです。ですが、五代の興した事業、ビジネスモデルのもとに多くの企業が生み出され、後の大阪の発展の礎(いしづえ)となりました。

近年注目される “大阪の恩人” 五代友厚とその功績

五代はこれだけの実績・功績を残しながら、私腹を肥やすことなく死後には借金があったことさえ判明しました。五代は明治(1885)年9月25日、東京築地の別邸で死去。葬儀は10月2日に大阪で行われたのですが、会葬者は4,300余人、葬列は13町(約1.4キロ)に及んだといいます。

大阪企業家ミュージアムでは2020年10月31日まで特別展示『五代友厚展』を開催。常設エリアにも五代や、五代の後に続く大阪ゆかりの企業家たちの足跡を知ることのできるパネルが展示されています。ドラマや映画で改めて注目が集まる五代友厚。五代の残した足跡を訪ねながら大阪の街を歩いてみると、いつもと違う大阪の表情が見えるかもしれません。

協力:大阪商工会議所 大阪企業家ミュージアム
住所:大阪市中央区本町1ー4ー5 大阪産業創造館B1

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生まれも育ちも大阪のコテコテ関西人です。ホテル・旅行・ハードルの低い和文化体験を中心にご紹介してまいります。普段は取材や旅行で飛び回っていますが、一番気持ちのいい季節に限って着物部屋に引きこもって大量の着物の虫干しに追われるという、ちょっぴり悲しい休日を過ごしております。