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2020.10.23

徳川家光と伊達政宗は超仲良しだった⁉︎年齢も立場も超えてウマが合う理由とは?江戸時代人物相関図

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まずは、とある戦国武将の手紙から。

「今月、六日七日と戦があって、七日に大坂方がことごとく敗れて…(中略)…淀殿もかねての口ほどにもなくて、むざむざと死に果てたものよ」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

これは、慶長20(1615)年5月18日付の手紙である。宛名は、息子の乳母の小野氏。

手紙を書きつつ、時折「ケッ」と罵詈雑言を吐いている姿が目に浮かぶ。書き連ねるうちに、ついつい本音が出てしまったのだろうか。淀殿の悪口も、まあまあイケズな感じである。

さて、この人物こそ。今回の主役となる人物。
「伊達政宗(だてまさむね)」である。

奥州の覇者となり、天下も見据えようとしたその矢先。政宗の前に立ちはだかったのが、豊臣秀吉である。無念にも、政宗の天下取りの野望は、秀吉に完全に打ち砕かれることに。

そして、秀吉の死後、次の時代を制したのが徳川家康。
政宗は、ここでも自分の時代が来ることを信じて耐え忍ぶことに。しかし、想定外となったのは、家康が長生きしたコト。そして、思いのほか、江戸幕府と徳川政権の土台は盤石なものとなったコトである。

そんな時代の流れの中で。
いつしか、政宗の立ち位置にも変化が。天下取りの野望溢れる戦国武将から、平和な時代の中で遺物のような存在感を示す最後の戦国武将へ。

そして、その魅力にハマったのが、3代将軍徳川家光(いえみつ)であった。

今回は、そんな親子、いや孫と子のような年齢差のある2人の関係をご紹介したい。年齢、立場、時代を超えて、ウマが合う理由は何だったのか。「戦国時代人物相関図」の第2弾として、「江戸時代人物相関図」をご紹介しよう。

※冒頭の画像は、月岡芳年 「徳川十五代記略 家光公諸藩主江佩刀を給ふ図」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

将軍を諫めることができたのは政宗だから?

3代将軍徳川家光と伊達政宗。
2人の仲は、ただの将軍と諸大名という間柄ではない。周囲に際立つほどの信頼関係が成り立っていたようだ。

しかし、それは。
一方通行の思いではなかなか実現できない。特に、3代将軍家光側の意向が大いに働いたからだろう。

月岡芳年「大日本名将鑑 德川家光公井伊掃部頭」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

この思いの原点は、2代将軍秀忠(ひでただ)の死去の場面へと遡る。
参上した諸大名らの前で、家光は「自分に代わりたければ」と挑発。そんな緊迫した中で、政宗はずいと前に進み出て。3代将軍家光に対して、堂々と申し上げる。

「万一異心を挟む者があるならば、自分に仰せつけていただきたい、自分は早速兵を率ゐてその不逞(ふてい)の者を征伐する」
(藩祖伊達政宗公三百年祭り協賛会編『伊達政宗卿』より一部抜粋)

場面は違えど、同じ意味の発言が『名将言行録』にも記されている。3代将軍家光に臣従する意思を、真っ先に表明したことが、さらなる信頼関係に繋がったのかもしれない。

そんな政宗は、ただ、心地よい言葉を進言するだけではない。時には、将軍を諫めることも。

3代将軍家光といえば、大の鷹狩り好きで有名だ。
ある日のこと。千住(せんじゅ)で鷹狩りを楽しんでいた将軍。一方、政宗はというと。江戸に赴く途中であった。その道中で、ちょうど鷹狩りをしている将軍の姿を発見。なんと、田畑の中で、鷹を手にして立っているではないか。従臣は近くにおらず、全く無防備な状態だったとか。

この時。政宗は、輿(こし)の中から、3代将軍家光の姿が見えたのだが。そのまま通り過ぎてしまう。

雪村周継筆『松鷹図』 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

のちに、江戸で政宗が3代将軍家光に拝謁すると。案の定、話題は鷹狩りのときの話となる。

じつは、3代将軍家光は不思議でならなかった。政宗は自分の傍を通ったはずなのに、である。そのまま素通りとは、どういうことか。

そこで、「どうして、そなたは、知らぬふりをして通ったのだ」と質問したという。

それに対して、政宗は、1人の男が鷹を手にしていたのは見えたが、将軍ではないと否定。いやいや、それこそ自分だと、将軍から告げられると。

政宗は非常に驚いたフリをする。そして一言。

「将軍家は天下の重い任におられます。遊猟をお好みで、しばしば身軽におでかけになり、警衛の者もおつけになりません。私めは思いもかけぬ変事でもあってはと、将軍家のために心配しております」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

なんと、政宗。自身の身も顧みずに、真正面から将軍を諫めたのである。そもそも、耳の痛い話はしにくいもの。30歳以上もの年齢差があったとしても、難しいだろう。ましてや、相手は将軍である。

それでも、政宗は諫言した。相手のことを心配すればこそ。そんな政宗の気持ちが通じたのだろうか。忠告は、3代将軍家光の琴線に触れたようだ。

こうして、2人の信頼関係は絶大なものとなっていくのである。

家光は、刀の秘密を知っていたのか?

さて、当時の伊達政宗は、仙台藩として62万石を与えられていた。
ちなみに、伊達家は、「関ヶ原の戦い」では東軍に属してはいたが、もともと徳川家の家臣ではない。最初から大名家であったため、分類上は「外様大名(とざまだいみょう)」の扱いとなる。

まずもって、外様大名は厚遇を受けることなどない。
にもかかわらず、3代将軍家光の伊達政宗に対する優遇ぶりは非常に有名である。将軍家に召されて茶を賜るなどは度々である。酒宴も同様。

そんなある日のこと。
いつもの如く、酒宴に召された政宗。その日も、同じように帯刀していた「大脇差(おおわきざし)」を外そうとしたのだとか。

大脇差とは、1尺8寸(約54㎝)から2尺(約60㎝)未満の脇差のこと。政宗は年老いていても、相変わらず、この大脇差を好んで帯刀していたという。

ただ、いくら信頼関係があるとしても、さすがに将軍の前で帯刀は許されないだろう。特に、外様大名の政宗は、絶対に携行することなど言語道断。

しかし、3代将軍家光は、信じられないような言葉をかける。

「そちは老年のことであるから、気をつかわずに、今後は脇差を帯びたまま進むがよい。そちはどのような気持ちでいるかはしらぬが、予はそちのことは少しも気づかってはいない。脇差を帯びたままでこなければ、盃をやらぬぞ」
(同上より一部抜粋)

さすがの政宗も、感涙して止めることができなかったとか。

自分だけの特権。なんて、響きのいい言葉。
これまで、豊臣秀吉、徳川家康に先を越され、ただ耐えるしかなかった人生。それを思うと、将軍から帯刀を許されて酒宴に出るなど、政宗は夢にも思わなかっただろう。

その絶頂ぶりが、いつにもまして酒の量を増やしてしまったようだ。これで、終わらないのが、やはり「バサラ大名」の真骨頂。なんと、嬉しくて思わず飲みすぎちゃった的な感じで。政宗は、将軍の前で酩酊してしまう。

要は、いびきをかいて寝てしまったのである。
何度もいうが、3代将軍家光の前で、である。

ちなみに、断っておくが、これが話のオチではない。「ただ単に酔って前後不覚になりました」では、生ぬるい感動秘話で終わってしまう。

じつは、これには後日談がある。
将軍の前で気持ちよく寝てしまった政宗。例の帯刀を許された大脇差は、外されて傍に置かれていた。そこで、3代将軍家光は、家臣に大脇差を確認させることに。

なんと、抜いてみると。
それは、単なる「木刀」だったとか。

見掛け倒しの大脇差。真相は、抜いても切れない木刀だったというオチ。

解釈は人それぞれ。
政宗は、寝たフリをして、3代将軍家光にわざと確認させたという説もある。確かに、政宗の性格を考えれば、その可能性もあるだろう。

ただ、私個人としては。
少し、それも違うような気もする。イタズラ好きの政宗のこと。「ほらほら、驚いた?」と単にサプライズさせたかっただけなのかも。もしくは、いつか帯刀を許してもらえる日が来ると、信じていたのかもしれない。

じつのところ、真相は不明。
それにしても、1つだけ、確信していることがある。
政宗は、そのとき、大いに熟睡していた。マジで爆睡していた。そんな気がしてならない。

最後に。
寛永13(1636)年5月1日。
病状も芳しくないまま、伊達政宗は3代将軍家光に拝謁。

既に、政宗の病も治せる状況ではなく、手遅れの状態。自らの拝謁も、これが最後となる。伊達家の行く末を案じてのことだったのか。それとも、孫のような間柄の3代将軍家光の顔を、もう一度見ておきたかったのか。

ただ、政宗のそのあまりの衰弱ぶりに、3代将軍家光は驚きを隠せず。すぐに、江戸中の社寺に、政宗の病気平癒の祈祷をさせ、主治医まで派遣して治療をさせたという。それでも、運命は変えられなかったようだ。

同年5月21日。
今度は、3代将軍家光が、自ら伊達屋敷に向かい、政宗を見舞ったという。
彼らの対面は、本当にこれが最後となった。

そして、その3日後。
24日の午前6時ごろ。政宗、永眠。御年70

さて。
政宗の死を知った家光は、悲しんだであろうか。
もともと、3代将軍家光は、父である2代将軍「秀忠」よりも、祖父の初代将軍「家康」を尊敬してやまなかったといわれている。

かつての混乱極めた戦国時代を、頭脳と軍事力で制した徳川家康。その圧倒的な天下人たる風格は、誰も真似などできないもの。そんな家康の凄さに憧れた家光だからこそ。家康と同時代を生き抜いてきた政宗に、祖父の面影を見たのかもしれない。

また1人。
戦国時代の英雄が消えていく。

家光は、そう嘆いただろうか。

参考文献
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 松森敦史編 晋遊舎 2013年12月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。