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2020.10.02

3代将軍はおじいちゃんLOVE?徳川家光の「家康への恩義」と知られざる兄弟の確執

この記事を書いた人

誰にだって、忘れられない恩義の1つや2つはあるだろう。
ただ、そんな超アツアツの「恩義」を感じるのは。どちらかというと、「他人に対して」という気がする。

本来ならば、助けてくれる義理もない。もともと、最初から相手に期待しないからこそ。味方になって助けてくれれば、余計に有難いと思う。だから、恩義を感じてしまうのではないだろうか。

そういう意味では。
今回ご紹介する方は、非常に珍しいタイプ。なぜなら、彼が恩義を感じた相手は、まさかの肉親。それも、祖父だったから。

誰かといえば。
築かれた江戸幕府の土台を、さらなる強固なものとした3代将軍・「徳川家光(いえみつ)」。そして、そんな彼が恩義を感じていたのが。江戸幕府を開いた張本人。初代将軍・徳川家康、その人なのである。

その恩義は、海より深く、空より高く。ドン引きするほど真剣で、煮えたぎるほどの熱狂ぶり。もちろん、彼の「恩義」は、単なる言葉だけでは終わらない。祖父への愛は、しっかりと行動にも表れる。

例えば、家康の霊廟である「日光東照宮」。
もともとは家康の遺命で、当初は質素な造りであったのだが。大好きな祖父の霊廟ゆえ、3代将軍・家光は、寛永11(1634)年より大改修を指示。そうして完成したのが、現在の姿。あの見目麗しい荘厳な日光東照宮だったのである。

吉田博 「陽明門」

確かに、確かに。
世界遺産となった建築物を見るだけで。
もう、3代将軍・家光の「祖父愛」が、ジンジンと伝わってくるからスゴイ。

ただ、疑問に思うのが。
なぜ、そこまで祖父への想いが強かったのかというコト。

どうして、3代将軍・家光は、徳川家康をリスペクトするに至ったのか。今回は、この「祖父愛」の裏側に焦点を当てる。知られざる兄弟の確執から、その結末まで。じっくりとご紹介していこう。

冒頭の画像は、月岡芳年「大日本名将鑑 德川家光公井伊掃部頭」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

最初から生まれた順番で立場が違う?

日本の歴史上、将軍家の中で最も有名な一族といえば。
やはり「徳川家」だろう。

江戸幕府を開いた徳川家康を筆頭に、15代まで似たような名前がズラッと続く。その威圧感は、なかなかのもの。ただ、彼らが全員、同じような知名度かというと、そうでもない。一口に徳川家の将軍といっても、本人の意志とは関係なく、2つのグループに大別される。

1つは、後世まで有名、もちろん、名前のみならず施策まで誰もが知っているメジャー将軍グループ。片やもう1つは、名前の読み方も分からない、いや、そもそも名前すら知らないようなマイナー将軍グループ。

さて、このメジャー将軍グループの中で、徳川家康の次に有名なのが、3代将軍、徳川家光である。

慶長9(1604)年7月17日、2代将軍秀忠(ひでただ)の次男として誕生。なお、3歳年上の長男「長丸(ちょうまる)」が早世したため、実質的に嫡男という存在であった。幼名も、徳川家康と同じく「竹千代(たけちよ)」。まさに期待が現れた名だといえる。

徳川家康像

生母は、織田信長の妹・お市の方の娘である「お江(ごう)の方」。豊臣秀吉の側室であった「淀殿」とは姉妹の間柄だ。ちなみに、お江の方は再々婚。「姉さん女房」として、2代将軍・秀忠の正室に収まったという女性である。

さて、当時の子育ては「乳母」が主流。
特に後継者となれば、その教育はさらに重要となる。ビシバシ英才教育を施し、実母の情を過度にかけないようにと、乳母が養育を担当することが多かった。もちろん、家光(竹千代)にも、絶大なる乳母の存在が。のちに大奥を取り仕切る「春日局(かすがのつぼね、当時はお福)」である。

もともと家光(竹千代)は虚弱体質で、その上、性格も活発な方ではなかったという。よくいえば、おっとりとした性格。悪くいえば、消極的でネガティブ気質であろうか。言葉を話すのも、人よりは少し遅く、場合によっては吃音の症状も出ていたとも。

そんな状況の中、2代将軍・秀忠とお江の方の間に三男が誕生。家光(竹千代)からすれば、生母が同じ実の弟ができたことになる。

春日局像

この弟こそ、のちの「忠長(ただなが)」。幼名は「国松(くにまつ)」。割と年も近く、約2歳差であった。

弟の誕生により、徳川家のストーリーはドラマティックな展開に。なんと、弟の忠長(国松)の方が、見た目も良く、利発な子だったとか。加えて、弟の忠長(国松)を育てたのは、乳母ではなく生母。お江の方が手元に置いて養育した。

当然、2代将軍・秀忠とお江の方は、この三男の忠長(国松)を寵愛することに。幼いながらも兄より利発。その上、自分の手で育てた子となれば、可愛さも2乗増しくらいとなるのだろうか。こうなると、周囲が黙っちゃいない。

やはり、「火のないトコロに煙は立たぬ」というものか。
「まさか、次男が廃嫡(家督相続から排除されること)?」
「次期将軍は、次男ではなく三男なのか?」

そんな、まことしやかな噂が囁かれる始末。なんなら、先に取り入ろうとするような輩まで。忠長(国松)本人をも、その気にさせるような有様だったのである。

いらぬ憶測が、周囲にじわじわと浸透するのも、時間の問題であったのだ。

きっかけは餅?明暗の分かれた兄弟の行く末

はて。
どのような、経緯があったのか。

あれほど、次期将軍の誕生が逆転劇になるのではと予想されたのだが。あっさりと、元和6(1620)年9月7日、家光(竹千代)は元服して大納言に。その3年後、3代将軍となる。一説には、家光(竹千代)の乳母である「春日局(お福)」がたまらなくなって、徳川家康に直訴したとも。ただ、コチラは、真相が定かではない。

それよりも、確実にいえるのは。
3代将軍・家光(竹千代)誕生の裏側には、大御所として君臨していた徳川家康の存在があったというコト。家光(竹千代)からすれば、祖父のお陰ということになる。

『名将言行録』には、このような記録がある。
三男である忠長(国松)への寵愛ぶりが、徳川家康の耳に入ったのか。ここらで、家光(竹千代)と忠長(国松)の立場の違いを明確にしようとしたのだろう。家康は、早速、2人を呼びつけることに。そうして、2人が来たところで。

「家康は『竹千代殿、こちらへ、こちらへ』といって、座っていた上段に招いたので、竹千代は上段に上った。国松もつづいて上段に上ろうとしたとき、家康は『これこれ、もったいない。国松はあちらに行け』といって下座に着かせた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

現代では、兄弟間でこのような扱いをされることは少ないだろう。もっとひどいケースなら、虐待にもなりかねない時代である。ただ、当時はというと。あくまで長子相続が基本。家督を継ぐ者以外の扱いは、本当にひどかったのだ。

まあ、なんとなく、家康の言いたいことも分かる。立場をわきまえろと。そう教えたかったのだろう。さらに、この続きでは餅が出てきて、扱いはひどくなる。

「餅がでると、『竹千代殿に差し上げよ』といい、次に『国へも食わせよ』といってそれぞれことばを改めた」
(同上より一部抜粋)

なんと、家康の細かい配慮だろうか。態度のみならず、言葉遣いも変えて、本人に自覚させたのである。

一猛斎芳虎 「道外武者御代の若餅」あづまにしき絵集 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ただ、それだけでは足りず。周囲の者にも、立場の違いを分からせる必要がある。そこで、家康は、2人の供の衆を呼ぶことに。

「供の人びとがでてくると『こちらに参られよ』と上段の際まで召し寄せ、餅をつまんで『これを食べてみなされ』といい、次に『国の供の者どもを呼べ』とのことで、供の人びとがその座に入ろうとすると『これこれ、もったいない』といって、餅をつまんで次の間へぽいと投げだし『これを食え』といわれた」
(同上より一部抜粋)

「じーちゃん強し」
そう、家光(竹千代)は思っただろうか。

本人のみならず、仕える者にも自覚をさせるため、家康はこのような扱いをしたのだろう。それにしても、同じ兄弟でも、扱いは雲泥の差。この立場の違いは、時が経過するにつれて大きくなる。その差は開くばかり。

この出来事があってから、2代将軍・秀忠も廃嫡を思い止まったと、『名将言行録』に記されている。

ただ、実際のところは。
当時の家督継承は、やはり長子相続が基本。一族間で、いらぬ怨恨の種をまかぬようにと誰もが思うもの。つまり、よほどの欠格者でない限り、順当にいけば、次男の家光(竹千代)が次期将軍で決まりだろう。2代将軍・秀忠も、さすがに、そこは理解していたはず。家光(竹千代)が家康の幼名を使っていたコトがその証拠。

にもかかわらず。家康がわざわざパフォーマンスをしたのなら。どちらかというと、周囲の噂を鎮めるため。家臣らがよからぬたくらみを抱かぬようにとの、戒めではなかったか。

結果論とはなるが、祖父の期待通り。3代将軍となった家光(竹千代)は、祖父の想いに恥じぬよう、江戸幕府の礎をさらに強固にしたのであった。

最後に。
三男の忠長(国松)に触れておこう。

将軍の弟君という立場もあり。駿河(静岡県)約55万石を与えられて万々歳となるはずが。残念ながら、過去の栄光を忘れられなかったようだ。幼少期に両親より寵愛を受け、一時は次期将軍とのウワサも立った。そんな記憶が鮮明に刻まれていたのかもしれない。

ここで、忠長(国松)の胸の内を想像したところで、誰にも分からない。ただ、彼には、理不尽な手討ちなどが多かったという。その後も不行跡と思われる行動をやめることができず。なかなか自分を抑制できない、そんな人間になったようだ。

甲斐(山梨県)に蟄居(ちっきょ)となり、謹慎の身分に。最期は、高崎(群馬県)に幽閉され、幕命で自害に。享年28。お江の方も、2代将軍・秀忠も先に亡くなっていたのが、せめてもの救いだろうか。

同じ両親から生まれたにもかかわらず。全く正反対の人生を歩むこととなった2人。もう少し、違う結末がなかったかと、考えさせられる。

というのも、私には、5歳離れた姉がいる。だからだろうか。時代も性別も全く違うのだが、つい、自分たちを2人に重ねてしまう。

姉は豪快なようにみえて、じつに繊細。性格は正反対だが、私はそんな姉が大好きだ。口は悪いが。いや、顔も怖いか。声もデカいし、とにかく圧がスゴイ。けれど、私は、本当に彼女を尊敬している。だからこそ思う。彼らも現代に生まれていれば、と。果たして、違ったラストに書き換えられただろうか。

一方で。
有り余る3代将軍・家光の愛情は、祖父へとまっしぐら。なんでも、家康亡きあと。夢の中で祖父と会話することもしばしばだったとか。単なる思い込みなのか、願望なのか。ひょっとしたら、スピリチュアルな話なのかも。

ただ、1つ。
3代将軍・家光の誕生日は、家康の月命日の17日。
そんな偶然を「運命」だと、あっさり信じてしまう。純真無垢な若き日の「竹千代」の姿。これまた、随分と容易に想像できるから仕方ない。

そんな事情もあって、彼のリスペクトはさらに過熱。

そこにあるのは。
輝くばかりのピュアな「祖父愛」であった。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月
『阿茶局』 白嵜 顕成 田中 祥雄 小川 雄著 文芸社 2015年10月

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書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。