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読み物
Culture
2020.08.20

徳川家康の誘いを断固拒否。異国の美女「おたあジュリア」を待ち受けた残酷な悲劇とは

この記事を書いた人

天下を取ったら、女性も思いのまま。
失礼ながら、この記事を書くまで、そんな勝手な思い込みをしていた。だって、相手は天下人。いかに無理難題な内容も、命令とあらば、歯を食いしばって耐えるのみ。

しかし、実際のところ。
そんな関係が成り立つのは、守りたいものがあればこそ。それでも、一番大事にしているモノが守れないとなれば。

徹底抗戦するしかない。
そんな決意を秘めて。歴史上、命をかけて拒絶した女性がいた。

その名も「おたあジュリア」
なんと、異国の女性である。

ちなみに、拒まれたのは、あの江戸幕府の礎を築いた徳川家康。天下を取るのみならず。うまく世襲制に移行させ、徳川家の治世を250年以上も続けさせる土台を作った超大物。

今回は、そんな徳川家康を断固拒否した、彼女の波乱万丈の人生を紹介しよう。

朝鮮出兵で狂った運命の歯車

おたあジュリアの「ジュリア」という名前。当時の日本人には、そぐわない響きである。勘の鋭い人であれば、ひょっとして、と気付くことが。じつは、この「ジュリア」という名は、洗礼名なのだ。

当時も、キリスト教を信仰するキリシタンは、洗礼を受ければ、神父より「洗礼名」をつけてもらえたという。新たなる自分、新たなる出発。果たして、そんな意識を持つことができたのだろうか。ちなみに、この洗礼名、もとの名前より有名だという人も。明智光秀の娘で、細川忠興(ただおき)の正室「たま」が、まさしくそう。「ガラシャ」という名の方が、後世により広く知れ渡っている。

おたあジュリアもその一人。
さて、彼女がキリシタンだということは分かったのだが。あまり、その素性は知られていない。一体、どのような女性だったのか。そして、どうしてキリシタンになったのか。

生まれは、朝鮮。彼女は、異国の女性である。そのため、具体的な生年や親の名前などは、定かでない。ただ、明確なのは、文禄元(1592)年よりも以前の生まれだというコト。この文禄元(1592)年は、日本にとっても、朝鮮にとっても、非常に辛い年だった。というのも、忘れがたい悲惨な出来事、あの「朝鮮出兵」が起こったからである。

当時の天下人は、豊臣秀吉。
秀吉は多くの施策を成し遂げたが、その中で最も評価が低く「愚策」と称されたのが、「朝鮮出兵」。関白となった秀吉主導のもと、明の征服のため、朝鮮に攻め込んだ戦いである。文禄元(1592)年に始まって翌年の文禄2(1593)年に休戦した「文禄の役(ぶんろくのえき)」。その後、慶長2(1597)年に再度開戦し、秀吉の死により翌年の慶長3(1598)年に撤退した「慶長の役(けいちょうのえき)」。この2度にわたる戦いをいう。

先鋒をつとめたのは、小西行長(こにしゆきなが)。父は、堺(大阪府)の豪商、小西隆佐(りゅうさ)といわれており、豪商の次男という異色の経歴を持つ戦国武将である。宇喜多直家(うきたなおいえ)そして、豊臣秀吉に臣従し、天正16(1588)年には、これまでの功績が認められ、肥後国(熊本県)半分の24万石を与えられている。

そんな行長が先頭に立って戦ったのは、慣れない異国の地。戦場の様子はというと。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、現地の人たちの様子をこのように記している。

「高貴で名誉を重んじる婦人たちは、その優れた容貌を隠すことによって日本兵から逃れ得ようと考え、ある者は深鍋や浅鍋の煤(すす)を顔に塗り、他の者は賤しく貧しい衣服をまとって敵を欺こうとした―(中略)-身分あり容貌が優れた男女の子供たちは、母親から教えられるままに、あるいは足をひきずって不具者を装い、あるいはまるで気が狂ったように口をひきつらせて見せたが、たちまち日本人から欺瞞を見破られ、日本人に使用されるほかはなかった」
(ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史5』より一部抜粋)

こうして、日本兵から逃れられずに、そのまま連れて帰られることも。また、戦争の混乱で、親との生き別れにより孤児となって保護されることもあったようだ。

実際に、おたあジュリアがどちらなのか、どのような経緯で発見されたかは定かでない。ただ、確実なのは、小西行長が朝鮮から連れ帰った少女が、「おたあジュリア」だというコト。一説には、朝鮮貴族の娘だったとも。容姿のみならずその才気も抜きん出たものがあったため、行長はそのまま保護したともいわれている。

日本に来たのち、「滝子」と名付けられたおたあジュリアは、小西家で娘のように育てられたという。どうやら、行長の居城である宇土城(熊本県)に入った際は、未だ日本の言葉が分からなかったようだ。そのため、「いらっしゃい」と現地の言葉で言っていたのが、周りからは「おたあ」と聞こえたとか。それが名前と思われたのか、気付けば「おたあ」と呼ばれるようになったといわれている。

なお、親代わりだった小西行長は、キリシタン大名としても非常に有名。ルイス・フロイスによれば、洗礼名は「アゴスチイノ(アゴスチーニョ、アウグスチヌスとも)」。この行長の影響を受けて、彼女もキリスト教の教義を教えられたようだ。無事に洗礼も済ませ、もらった名前が「ジュリア」。ここに歴史上、「おたあジュリア」という女性が誕生するのである。

守るべきものは神との約束。信仰により救われる?

おたあジュリアの平穏な日々は、非常に短い。
彼女の人生は、またもや戦いで激変する。慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」。豊臣秀吉の死後、この戦いを制して次の天下人となったのが、徳川家康だ。

小西行長はというと、石田三成との親交もあり、西軍として参戦。

同年10月1日。残念ながら小西行長は、敗戦の末に、京都六条河原にて処刑。一方、小西家の養女のような位置づけだった彼女の評判は、敵将の徳川家康の耳にも届く。西軍に与した小西行長との関連があっても。まずは、伏見城にて家康の女官として働くようにと声がかかる。あまりの美しさと、完璧な行儀作法を会得していたおたあジュリアは、到底、無視できない存在だったようだ。

そして。
それで終わらないのが、やはり家康。
当時、既に70歳(数え年)を超えていたが、女性の趣味だけはどんどん若返っていく。後継ぎが必要だった頃は、とかく元気で丈夫、さらには子を産める可能性の高い女性を側室に召し上げていたのだが。なんなら、既に出産経験がある女性なども数名含まれていたほど。

重要な目的からは一切ブレないのが、秀吉とは違うところだったはず。なのに、なんでまた。やはり本来の趣味は違ったのだろうか。若くて可憐な女性がタイプだったようだ。晩年になるほど、家康は、少女のような女性に惹かれることが多くなる。そして、今回、そんな家康にロックインされたのが、おたあジュリア。

家康は、早速、余生を過ごしていた駿府城(静岡県)へと、おたあジュリアを移らせる。そして、第一等の官女に昇進させるも、それだけでは満足できず。さらには、夜伽(よとぎ)を求め、側室にすることも考えていたようである。

徳川家康像

さて、これに対して。
困ったのは、おたあジュリアである。

「朝鮮出兵」そして「関ヶ原の戦い」。度重なる戦に巻き込まれたおたあジュリアの心を支えるもの。それは、キリシタンとしての、デウス(神)への信仰だった。実際に、スペインの答礼使ビスカイーンの報告書では、慶長16(1611)年に駿府の聖堂のミサで、おたあジュリアに会ったとの記録が。彼女に、宗教画やロザリオを渡したというのである。

そんな敬虔なキリシタンであったから、彼女は、どうしても徳川家康の命令を受けることができなかった。

恐れ多くも、大御所として君臨していた家康に対して、断固拒否。これには、家康もどうすることもできず。脅してはなだめすかすことを繰り返すが、どうにも彼女の心を動かすことができない。

そこで、とうとう。徳川家康は強硬策に出る。
慶長17(1612)年に禁教令を布告。のちに、おたあジュリアを捕縛して、棄教を迫ったのである。

可愛さ余って憎さ百倍。家康からすれば、そんな心境だろうか。色々考えた挙句。殉教覚悟の強い意志を撤回させるにはと熟慮し、ある方法を思いつく。

それが、他のキリシタンへの迫害であった。
家康は、このような提案をしている。

「そちは伏見から駿府へと忠勤を励んだこともあり、棄教すれば一切の咎めはないが、もし強情をはるというなら、見せしめに同僚の邪教徒の顔に焼印をしたうえで、島流しとし、さらにはそちにも、遠島を申しつけるがどうじゃ」
(加来耕三著『山内一豊の妻と戦国女性の謎』より一部抜粋)

それでも、彼女の信仰は揺るがなかった。

自らの意志さえ曲げれば、同じキリシタンが救われる。見方を変えれば、ある意味、そちらの方が正しいのかもしれない。それでも彼女の心は、やはり変わらず。

彼女曰く、仕えるのはデウス(神)1人だと。
こうして、涙ながらに断ったのである。

その答えを受けて、多くのキリシタンが過酷な運命を辿った。手足の指を切られるような拷問刑、生きていけないような島への遠島刑など。おたあジュリアに対する見せしめのため、キリシタンらに刑が処せられたのである。それだけではない。彼女と仲の良かった同じキリシタンの官女、ルシアとクララに、家康は宣告通りの刑を処したのである。2人は額に十字の焼印をされ、鞭(むち)打ちの上に遠島(えんとう、島流し)となった。

そして遂には、おたあジュリアも。
遠島の刑に。

まずは伊豆大島へ流され、30日ほど経ったのち新島(にいじま)へ。なお、この島では、先に遠島の刑に処されていたクララとルシアに出会えたという。ただ、新島にも15日ほどしかいることができず。最終的には、神津島(こうづしま)へと流されたのであった。

じつは、遠島となったのちも。家康は、何度か使者を派遣していたという。それほど忘れられないような女性だったのか。棄教するのであればと、再び許す機会を与えたのだが。おたあジュリアはその心を翻すことなく拒否。彼女の答えは、一度も変わらなかったのである。

そんな家康も、元和2(1616)年4月17日死去。
家康の死後は、誰も気にかけることなく。おたあジュリアは、いつしか忘れ去られた存在に。本土へ戻ったなどの諸説あるものの、慶安4(1651)年、神津島で一生を終える。

ちなみに、神津島では、今でも「おたあジュリア」を偲ぶ祭りが毎年行われているのだとか。今回で51回を迎える祭りは、残念ながらコロナ禍により見送られた。ただ、神津島役場によれば、10月もしくは来年の令和3(2021)年の2月に予定されているという。なお、飛び入りの参加は難しいようだ(ツアーの申し込みが必要とのこと)。

最後に。
「朝鮮出兵」という思わぬ戦いに巻き込まれた人たちは、どれほど大きく人生が変わったことだろう。彼女もそのうちの1人。運命などと、簡単には片づけられない悲劇だったに違いない。

誰しも、そんな人生の「不条理」に、納得などできるものか。

どうして、こんな目に。
なぜ、自分だけ。
誰に対して発すればいいのか分からないまま。思わず自分自身に問うてしまう。

その気持ちは。
やがて、何かしらの答えを求めることになる。

そして、そんな彼女が選んだ答えは、デウス(神)。
彼女の場合。こうして過酷な運命への問いは、自然と信仰に繋がっていった。キリスト教こそが、唯一の心の救い。その信仰が試されることはあっても、揺らぐことはなかった。

異国の地で生き延び、さらに最期は、神津島に流れ着いたおたあジュリア。
この神津島は伊豆諸島の1つ。昔「神集島」とも呼ばれていたという。なんでも、事代主命(ことしろぬしのみこと)という神様が、伊豆の島々を作るため、神々を集めて相談する拠点にしたのが由来だという。

彼女の人生の最期の場所は、神々が集まる島。
せめて、心だけは救われていたと信じたい。

参考文献
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月
『九州戦国時代の女たち』 吉永正春著 海鳥社 2010年12月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『時のしるし』 霜山徳爾著 学樹書院 2001年7月

書いた人

生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時代に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。現在は富山県から愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。