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読み物
Culture
2020.10.29

妻が夫に全力で抗議。壮絶な最期を迎えた前田綱紀の娘・節子の思いとは?

この記事を書いた人

2019年夏。
ある1人の外国籍の男性が、抗議のために食事を拒否。「ハンガーストライキ」の末に死亡した。

これは、長崎県の大村入国管理センター(大村市)で起こった実際の出来事である。男性は薬物事件で執行猶予付き懲役刑の判決を受けた後、窃盗などで実刑となったという。仮釈放後、大阪入国管理局(当時)に収容、後にこのセンターに移送されたようだ。彼は、日本に子どもがいることなどを理由に、国外退去を拒否。ハンガーストライキを行って、自らの身の解放を求めていたという。

自分の命をかけて解放を求める。その結末の「死」。

SNSが発達し、誰もが情報の発信先となることができる時代。自分の主義主張や要求を表明したいと思えば、昔に比べて比較的容易に行えるだろう。だからこそ、現代において「自分の命をかけて抗議する」という行為に驚いた。余計に、このニュースが記憶に残っているのかもしれない。

抗議の仕方は、人それぞれ。

「死」をもって抗議する。
このような考え方も、昔の日本では、そこまで珍しくなかっただろう。

今回の記事の主役も、自分の命をかけて抗議した方。
しかし、一般的には非常に珍しいケースといえるだろう。というのも、2つの点で通常とは異なるからだ。

1つは、死をもって抗議したのが、「女性」だというコト。
そして、もう1つは、死の方法が、「切腹」であったというコト。

女性の名は、「節子(せつこ、節姫)」。
加賀百万石で有名な加賀藩前田家の出身である。加賀藩主・前田綱紀(まえだつなのり)の次女で、安芸国広島藩5代藩主の「浅野吉長(あさのよしなが)」の正室となった女性だ。

そんな彼女が、どうして抗議のために切腹することになったのか。
今回は、死に至るまでの経緯と、彼女の気持ちを推測してみたい。
(この記事は「節子」の名で統一して書かれています)

※冒頭の画像は、月岡芳年 「近世人物誌 やまと新聞附録 第十八 河瀬某の妻」「近世人物誌」「磯林大尉」「他」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

ホントは「江戸七賢人」と呼ばれた夫

さて、この記事を一言で要約するならば。
「妻が夫に切腹で抗議」となる。
自分で記事を書いていてなんだが、なんともショッキングな内容である。

ただ、人間とは、非常に不思議な生き物で。怖いものみたさというか。そんなショッキングな内容でも、いや、逆にそういう内容だからこそ、興味がわく。

まず、知りたいのは、「一体、どんな夫なんだ」というコトだろう。妻がキレて切腹するだなんて。夫は一体、何をしたんだ、そもそもどのような男なんだと、思わずにはいられない。

しかし、最初に断っておくが。この夫、想像とは全く違う人物である。予想が外れること間違いなし。なぜなら、夫である広島藩の五代藩主・浅野吉長は、世間ではこんなふうに呼ばれているからだ。
「江戸七賢人」
「広島藩中興の藩主」

中興の祖(ちゅうこうのそ)とは、衰退し危機的状況に陥ったものを再び興して盛んにした人物を指す。つまり、浅野吉長は、広島藩を立て直したということか。そして、その功績から江戸中で「賢人」と呼ばれたうちの1人だったようだ。

広島城

何も、別に驚くことはない。
そもそも、この浅野吉長の家系図を遡っていけば、豊臣秀吉の五奉行の1人である「浅野長政(ながまさ)」へと辿りつく。浅野長政は、母の兄である浅野長勝の養女の「やや」と結婚して、浅野家を継いだ人物である。ちなみに、長勝のもう一人の養女が秀吉の妻となった「おね」。つまり、豊臣秀吉と浅野長政は相婿の間柄となる驚きの関係なのだ。

なお、安芸国(広島県)広島藩浅野家初代藩主は、この浅野長政の次男である「浅野長晟(ながあきら)」。

幼少より豊臣秀吉に仕え、その後、天下分け目の戦いとなる「関ヶ原の戦い」では、東軍の徳川家康に従って参戦。元和2(1616)年には、徳川家康の三女である「振姫(ふりひめ)」を正室に迎える。加えて、元和5(1619)年には、改易となった福島正則(ふくしままさのり)に代わって、安芸・備後に42万6,000石を与えられることに。

そう考えれば、浅野家は、かなり安泰だったといえよう。なんといっても徳川家の娘を正室に迎えているのだから。さらに、もっといえば、広島藩2代藩主の「浅野光晟(みつあきら)」は、徳川家康の外孫である。この光晟、正室には加賀藩主・前田利常の娘である「満姫」を迎えている。

江戸幕府を担う徳川家から加賀百万石の前田家まで。浅野家は、そんな家格の高い流れを汲んでいる。

そして、今回の主人公である節子も、前田家出身。
加賀藩4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)の次女である。そんな節子を正室に迎え、浅野吉長も広島藩で、思う存分その手腕を発揮するはずだったのだが。

彼は、なんとも不幸なことに。
思わぬアクシデントに見舞われるのである。

表向きは「急病死」、その真実とは?

転機は、宝永5(1708)年。
ちょうど、徳川5代将軍綱吉(つなよし)の治世の頃である。

父である浅野綱長(つななが)の死去に伴い、安芸国広島藩5代藩主となる浅野吉長。
とうとう、自分の時代が来たと、さぞや心が震えたことであろう。当時、吉長は28歳前後。バリバリの働き盛りの年齢だ。前途多難であっても、理想に燃えて挑戦してやると、そんな意気込みもあったに違いない。

着々と準備を整え、その4年後。
正徳元(1711)年より、己の理想を現実のものとするため、藩政改革を行う。それも、これまでの藩政を断ち切るほどの思い切った内容であった。当時は、徳川幕府だけではない。地方も、財政の行き詰まりが諸藩を圧迫している状況。これを立て直す必要があり、改革を推し進めたのである。

まず、手をつけたのが、政治の舵取り。
これまで権力が集中していた家老の実権を、藩主へと移動させ、藩主自ら政治を行う「親政政治」を実現したのである。
加えて、大庄屋を所務役人として登用するなどの藩政改革を行った。

こうして、全総力を集中させ、広島藩の財政を立て直すことに尽力する吉長。心地よい疲れの中で、少しずつ結果も見えてきて。世間でも「七賢人」と呼ばれつつあった、そのタイミングで。

なんと、享保3(1718)年。
まさかの、大規模な農民一揆が起こることに。

ただただ、愕然とする浅野吉長。

農民一揆の原因は、浅野吉長が自信を持って推し進めていた「藩政改革」の反対。彼らの要求内容は、所務役人の退陣、年貢の減免、山野の解放などであった。あっという間に、農民一揆は領内全体に広がり、どうすることもできず。

藩としては、何よりも優先的に一揆を抑えなければいけない。鎮圧が最優先である。そのため、不本意ながらも、農民の要求を受け入れる結果に。所務役人を罷免して、藩政改革の前の状態に戻したのであった。

こうして、あれほど年月をかけた藩政改革は、農民一揆により頓挫することに。改革失敗の烙印を押され、抜け殻となった浅野吉長。

まさしく自暴自棄。
傍で見ていた正室の節子は、どれほど心配したことだろう。夫の力の入れようは、凄まじく。あれほど力を注いでいたのだから、その落胆ぶりは容易に想像できる。なんとも同情を禁じ得ない、そんな状況であった。

しかし、浅野吉長は、そこから豹変する。
その反動は予想外の方向へ。180度に大きく振れる。

藩政からはすっかり遠ざかり。
一方で、足繫く通い始めたのが「遊里」。なんでも、遊女まで身請けしたともいわれている。もう、彼を止めることはできなかったのだろう。

伝喜多川歌麿 「二遊女図」 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

一説には、遊女を囲い、陰間(男色)まで屋敷内に置いていたともいわれている。

さすがの節子も、我慢ならず。
享保15(1730)年、夫のあまりの堕落ぶりを諫めるのだが。

残念ながら、吉長には響かなかったようだ。当時、吉長は50歳。節子は51歳。節子からすれば、この年で人生の方向性を変えられるのは耐えがたい。なんとか、元に戻って欲しい、その一心だったとも。

一方で、吉長も腹立ちを抑えられず。
「それくらい分かってくれ」という甘えがあったのかもしれない。節子に挨拶することなく、ちょうど参勤交代の時期だったため、そのまま帰国することに。それも、一説には、遊女らも参勤交代の大名行列に同行させたとか。

その事実を知らされた節子。
彼女は一体何を思ったのだろうか。

節子の実家は、加賀百万石の前田家。当時は、実弟の前田吉徳(よしのり)が加賀藩主をつとめていた。その前田吉徳宛てに遺書を残して。

節子は、潔く、切腹し果てたといわれている。

最後に。
その後の広島藩がどうなったかを書いておこう。
節子の遺書は、幸いにも前田吉徳宛であったため、問題なく処理。広島藩との協議で、表向きは「急病死」として幕府に届け出たといわれている。確かに、夫への抗議のために切腹となれば、江戸幕府からの処分の可能性も。そのため、彼女の死は、世間的な面も考慮して「病死」となったのであろう。

ただ、夫の浅野吉長へのダメージは、想像以上。
自分の行いを非常に悔いたのだとか。確かに、自分への抗議のために死なれるなど、予想していなかっただろう。精神的にもかなり追い込まれたに違いない。

妻に諫められたときに、どうして取り合わなかったのか。
そう強く自分を責めたのではないだろうか。

その後。
浅野吉長は丁重に節子を弔い、残りの人生を72歳まで生きたという。

それにしても、と思う。
どうして、節子は「切腹による死」を選んだのだろうか。

ただ夫の言動に対して怒り、キレるだけならば、もう少し痛みの少ない方法を選ぶこともできたはず。しかし、彼女の選択は「切腹」。明らかなる「抗議」の意味にも受け取れる。

そういえば。彼女は、格式高い戦国武将・前田利家の子孫である。前田家で、武士の娘としての教育を受けてきただろう。だからこそ、そんな情けない夫の姿を見続けることができなかったのか。

きっと、彼女はこう思ったに違いない。
藩政改革に失敗したところで、夫がこれまで行ってきた過程までは消えない。彼が悩み、考え、努力し、尽力した改革自体は、消えないのだと。どうして、それが分からないのか。そう悔しかったのではないだろうか。

とすれば、女性目線で、ただ夫の浮気にキレたワケではないように思う。
たった一度の失敗で、自分の人生を自ら放棄したような、そんな生き方をする夫が許せなかった。と同時に、その気持ちと同じ熱量で、立ち直ってほしい、目を覚ましてほしい、そんな思いがあったのではないだろうか。

無言の切腹には、切なる彼女の気持ちが込められているように思う。

「どうか、元のあなたに戻ってほしい」

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参考文献
『改易・転封の不思議と謎』 山本博文監修 実業之日本社 2019年9月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 200

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。