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2021.02.16

火事にも駆けつける粋な姿がカッコイイ!江戸時代の花形職業「鳶」の仕事内容や収入を解説

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今も昔も高給取りは多くの人の憧れの的。江戸時代の高給取りの職人といえば、大工、左官、鳶(とび)が華の三職とよばれる花形の職業でした。現代でも、鳶職は建築現場の高所を飛び回る姿から「現場の華」ともいわれています。

また鳶は村の祭りを取り仕切ったり、火消しを組織したりしてきたところから、かっこいいヒーローのように扱われていました。実際、実入りもよく、女性にもモテたようです。火消しとして揃いの法被(はっぴ)をまとい、チームプレイも大事にするところからも、さしずめ江戸時代の野球選手と言えるかもしれませんね。それでは実際彼らはどんな生活をしていたのでしょう?

ここでは、江戸の鳶職に迫ってみたいと思います。

アイキャッチ画像出典:国立国会図書館

過酷な下積みで技術を身につける

大工、左官、鳶の仕事は「華の三職」といわれていましたが、正確にはこれらの仕事はすべて大工仕事。なにしろ、江戸時代は大工職人の種類は、約140にも及んだとか。また、今と同じように宮大工や建具大工など、専門的な大工もいました。そのため、仲間内でも、高所を主に専門とする人が鳶と呼ばれていました。

鳶のような衣装を着て男装している女性の芸者。出典:国立国会図書館

ですが大工というとかなりスキルのいる仕事。一人前になるまでは地道な下積み時代があったといわれています。12~13歳ぐらいで親方に弟子入りするのですが、見習いの時期は給料をもらえることもほとんどありません。掃き掃除から飯炊きなど、下働きばかりさせられたといいます。2年ぐらい経って、ようやく現場に連れて行ってもらえるようになりますが、それでも雑用ばかりで、木くずを拾ったり、材木を運んだりというのが主な仕事。

大工仕事は8年ぐらいでようやく半人前扱い。基本的にはまだまだタダ働きです。そして、独立して一人前になるには約10年かかるとか。しかし、その頃には半数ぐらいがリタイアしてしまうという厳しいものでした。そんな修行の年月の間に、それぞれ大工としての専門性や方向性が決まってきて、いずれ鳶になる人も誕生します。そんな苦労を積み上げていけた人だけが、華の職業に就くことができたんですね。

野球選手のように年俸制ではなかったものの、それなりに贅沢な暮らしができた大工は、ここからがわが世の春。男っぷりを上げて女性からの熱視線を集めたことでしょう。

江戸時代の大工の収入は?

そこで気になるのが収入。江戸の大工は、当時どのぐらいの給料をもらっていたのでしょう?

大工の仕事は下積み時代は苦労が多く壮絶ですが、一人前になったとたん羽振りがよくなります。江戸の町人の給料が約300文だったといわれていますが、大工でおおよそ400~600文もらっていたといわれています。当時の大工の労働時間は実質4時間ぐらい。短い労働時間で効率よく稼ぐことができたため、1日に2件の仕事をこなせば収入は町人の3倍になったとか。この時代の鳶は時間外手当がついたので収入も上がりやすく、がっつり稼いでいた人もたくさんいたようです。

雨天には仕事がなかったのですが、それ以外は盆暮れ正月ぐらいしか休みはなかったとか。それだけ大工は江戸にはなくてはならない存在だったのかもしれませんね。

鳶は町のファイヤーマン

さて、大工の中でも鳶は、建物の高所を飛び回ることに長けていたため、火事の時には町火消として率先して江戸の町を守っていました。そんな姿はまさに町のヒーロー。粋な江戸っ子の代表ともされて、女性にモテモテだったといわれています。

そして、町火消はまさに体育会系。ちゃんと組織立っていて、各組にリーダーがいました。体育会系だけあって命令系統もしっかりできています。そんなリーダーを町火消の組織の人たちは「組頭」と呼んでいました。組頭は、荒くれ者の多いチームの鳶職や町のもめごとなどの調整役もしていたそうです。リーダーの言うことは絶対だったのかもしれませんね。

ところで、江戸ではなぜ火事が多かったのでしょう?

実は火事の原因は放火が多かったといわれています。文献には吉原での火事が多かったという記述が残されています。辛い暮らしに耐えかねた遊女が火をつけるということもよくあることでした。

江戸は、冬はとても乾燥し、冬から春にかけて強い季節風が吹きつけました。また、人口密度も高く、建物は木造の上、人々は密集した長屋で暮らしていたので、ちょっとした火の不始末ですぐ大惨事になったのでしょう。やたらと火事が多かったため、江戸の町民たちはモノをレンタルに頼って所有しませんでした。そんなところから、江戸の町民たちの「宵越しの銭は持たない」という気質が生まれたのかもしれませんね。そんな江戸町人にとって火事は常に恐れるべき存在。それを救ってくれる鳶の町火消しはまさに救世主でもあったのでしょう。

ちなみに、なぜ鳶が江戸のファイヤーマンになったのかというと、江戸時代の消火活動は火を消すことではなく、建物を素早く壊すことだったからです。当時、放水できる道具もなく、火を消すことは難しい事でした。だから、早く建物を壊して延焼を防ぐことに重点が置かれていました。建物を壊すことは建物を建てた人に聞くのが一番です。その点、鳶は建物の構造をよく知っていて、たやすく壊せたし、高い場所も躊躇なく飛び回れたため、彼らを中心に火消組織が構成されたというわけですね。

そして、当時、火消組織として活動する時は、命令系統を統一するところから、同じグループのロゴ付きの派手な羽織を着て火消しにあたっていました。そして、火消しが終わると裏を返して、見せびらかしながら町中を練り歩いたようです。そんな姿が、江戸では「粋」とされていたそう。

また、さまざまな町のイベントでも先頭に立ち、取り仕切っていたといいます。派手でよく目立ち、お金にも余裕があり、かっこいいとなれば、多くの女性たちを魅了してしまうのも仕方がないですよね。

派手で気風がよいところもまさに江戸の野球選手と言えるのかもしれません。

◆参考文献
山本 眞吾『江戸のハローワーク』双葉社、2012
山本 純美『江戸の火事と火消』河出書房新社、1993
倉地 克直『江戸の災害史-徳川日本の経験に学ぶ』中央公論新社、2016

書いた人

関西生まれ。関西にはたくさんの歴史の断片が転がっているので、そんな昔の偉人たちに想いを馳せながら旅をするのが大好きです。外国人の知り合いが多く、外国人から見た日本を紹介できればいいなと思っています。最近はまっているのは占いで、自宅の猫を相手に毎日占っています。