豪華絢爛! 狩野山雪(かのうさんせつ)に円山応挙(まるやまおうきょ)、岸駒(がんく)ら江戸時代の絵師たちの障壁画と県内屈指の近世建築を堪能できる寺院が長浜市にありました。
滋賀県の北東部に位置する長浜市は、湖北の中心地として発展してきたエリアです。豊臣秀吉が長浜城の城下町として整備して以来、北国街道や琵琶湖水運の要衝として栄えました。そんな長浜市には、地元の人から「ごぼうさん」の愛称で親しまれる寺院があります。それが、真宗大谷派長浜別院大通寺(以下、大通寺)です。
信長に対抗する門徒たちの総会所? 大通寺の歴史
大通寺は、約7000坪の境内に重要文化財の本堂や大広間が遺る、湖北でも名高い寺院です。はっきりとした起源はわかっていませんが、1500年代後期、湖北の門徒たちが織田信長に対抗する本願寺の支援協議を行うために、長浜に総会所を設置したのがはじまりとされています。
室町時代から戦国時代にかけて、浄土真宗の中興の祖と仰がれた蓮如上人(れんにょしょうにん)は念仏の教えを広げるために全国各地を巡りました。近江国はその布教活動の最大の拠点であった上に、もともと信仰心の厚い土地であったため、教えが瞬く間に広がります。琵琶湖の北にまで広がった真言宗の中核として総会所は発展しました。慶長7(1602)年には教如上人(きょうにょしょうにん)によって「無礙智山(むげちざん)大通寺」と改称され、門徒らによって長浜城跡に御堂が設けられます。そして慶安2(1649)年、彦根藩2代藩主・井伊直孝(いいなおたか)の土地の寄進によって現在の場所に移転することになったのです。
現在の場所への移転は狐が後押し? 大通寺の伝説
大通寺が現在の場所に建てられる前の不思議なエピソードとして、このような物語が今も伝わっています。
それは、現在の場所に大通寺が移転する前のこと。長浜城跡の御堂の移転は、門徒の中で「反対派」と「移転派」が対立して、なかなか決まらなかったそうです。そこで両派を代表するふたりの男が、京都の本山に判断を仰ぎに行くことになりました。
先に京都へ出発したのは、反対派の男です。しかし旅路の途中、大雨のせいで川が渡れず足止めされてしまいます。数日経っても渡れず、仕方なく近くの茶屋に入ると、かわいらしい娘が出迎えてくれました。名前は「お花」。彼女が酒をふるまい親切にもてなしてくれたので、男は酔い潰れてしまい、そのまま茶屋に泊めさせてもらいます。
翌朝、すっかり天気が良くなったので、男は茶屋を後にして川を渡り、京都へと急ぎました。ようやく本山に着いて、いざ入ろうとしたところ、なんと後に出発したはずの移転派の男が歩いてくるではありませんか。彼は一足先に移転の許可を得たというのです。反対派の男は肩を落として、道を引き返し始めました。
あの川にさしかかった頃、酒でも飲もうとお花のいる茶屋を探しますが、どこを見渡してもみつかりません。不思議に思って近くの村人に尋ねてみても「そんな店はない」と言われるばかり。狐につままれたような顔をして、長浜へ帰ったそうです。この話を聞いた長浜の人たちは「石田屋敷(現在の場所に元々あった屋敷)に住む狐が、石田屋敷に御堂を移転して欲しかったために反対派を化かした」と噂したそうです。大通寺の大広間の天井には、今もその狐が住んでいて、火災から寺を守っている、と語り継がれています。
貴重な近世建築と美術作品が目白押し。大通寺の5つの見どころ
不思議な逸話が語り継がれる大通寺には、江戸時代に設けられたとされる貴重な建築物と、狩野派をはじめとする絵師たちによる華やかな障壁画の数々も多く遺されています。その中でも今回の取材を通じて「多くの方に見ていただきたい!」と個人的に感じたポイントを5つご紹介いたします。
1.県内屈指の近世大型建築 山門
文化5(1808)年起工、その33年後の天保11(1841)年頃に完成したとされる県内屈指の近世大型建築。市街地の一角に構えられた巨大な山門は、長浜のシンボル的存在です。入母屋(いりもや)造の大規模な二重門に、左右に山廊を配した総けやき造り。上層内部は板敷きで、釈迦如来と弥勒菩薩、阿難尊者(あなんそんじゃ)が祀られています。
真宗大谷派の本山である京都の東本願寺を模して造られたため、その後、東本願寺の山門が火事で消失した際の再建にはこの山門が参考にされたんだとか。大通寺に訪れたら、まずは山門の全体から細部の装飾までじっくり観察してみるのがおすすめです。
2.京都・伏見城の遺構と伝わる 大広間
国指定重要文化財となっている「大広間」。京都・伏見城で公式の対面所として使用されていた謁見の間の遺構と伝わります。書院造りの構成要素である、床や帳台構、違棚、附書院などを正面一列に並べているところが特徴的です。帳台には極彩色で描かれた花鳥や人物、大床には獅子が描かれていますが、作者は不明(狩野派の絵師)とされています。立ったり座ったり、さまざまな角度から障壁画を鑑賞していると、タイムスリップしたかのような感覚に襲われました。
3.迫力満点! 岸駒の『金地墨画梅之図』
「書院」の西側一面にある、13mにもわたって描かれた巨大な老梅。大通寺の住職が京都画壇で活躍した岸駒を招いて描かせたとされる作品『金地墨画梅之図』です。金地の襖に、剛健な筆致。映画の巨大スクリーンのようなダイナミックさに、岸駒の性格がよく表れています。「天明丙午仲秋 岸雅楽助平駒写」と落款が残されているため、天明6(1786)年に描かれた作品と推測されます。岸駒は当時37歳。絵師として油ののった時期に描かれた、屈指の名作といえるでしょう。
岸駒(1749〜1811年)
現在の石川県加賀に生まれた、江戸時代後期の絵師。金沢の紺屋(こんや:染物屋)に奉公しながら狩野派の画を学び、1780年(安永9)京都に上って画家として生業を始めます。特徴は独自性の強い写生的画風。鳥獣を描くことを好み、特に虎を得意としています。代表作は『虎に波図屏風』(東京国立博物館)など。
4.繊細な美しさ! 円山応挙の『蘭亭曲水宴図』
3室からなる住職の住居空間「蘭亭」。滋賀県下にある小規模な数寄屋建築のなかでも価値が高く、建築年代は棟札から宝暦5(1755)年とされています。この部屋に描かれているのが、円山応挙の作品『蘭亭曲水宴図』です。中国の書家・王義之(おうぎし)が中国の名勝・蘭亭で「曲水の宴」を催した際に綴った書『蘭亭序』がモデルとなっています。
円山応挙(1733~1795年)
現在の京都府亀岡市、農家の次男として生まれた、江戸時代後期の絵師。10代後半に狩野派の流れを汲む鶴沢派の絵師に弟子入りし、作画の基礎を身につけました。その後、西洋伝来の「眼鏡絵」の制作に携わり、西洋の画法を独自に習得。さらに古典や中国の絵画の写生様式も習得し、新たな画風によって、日本の絵画史に革命を起こしました。足のない幽霊の先駆けともいわれる谷中全生庵の幽霊画や、香川県の金毘羅宮の襖絵で有名な水飲みの虎図など名作を遺し、現在も人気を博しています。
5.思わず目を奪われる、狩野山雪『枯木鳩図』
建築年代は定かではありませんが、1600年代後半の建造とされる「含山軒(がんざんけん)」。住職が勉強するための部屋として、また友人を招く部屋として使われていたとされています。主に東側のふたつの部屋からなり、一の間には狩野山楽(かのうさんらく)が描いたといわれる『山水図』、二の間には、狩野山雪が描いたといわれる『枯木鳩図』の障壁画が描かれています。山雪の『枯木鳩図』に描かれているのは、雪の積もった枯木とその枝に寄り添う2羽の鳩。静けさの中に幻想的な美を感じられる名作です。大通寺の数ある障壁画の中でも、個人的にぜひ推したい作品です!
狩野山雪(1590〜1651年)
現在の佐賀県に生まれた、江戸時代初期の絵師。大坂に移住後、狩野山楽に入門しました。その才能を認められて娘婿となり、山楽のあとを継いだ京狩野派の2代目です。山雪の作風は、山楽の作風に見られる優美さに影響を受けていましたが、やがて個性を発揮しはじめます。学者肌でもあった山雪は古画への知識も深く『雪汀水禽図屏風』の波の部分に工芸的な表現を試みるなど、新しいことにもチャレンジしていたようです。
【番外編】内部までじっくり鑑賞できる『黒漆塗ビロード貼橘紋 女乗物』
最後にご紹介するのは、これまでの建築物や障壁画とは異なる逸品。彦根藩15代藩主で幕末の江戸幕府大老を勤めた井伊直弼(いいなおすけ)の7人目の娘、砂千代(さちよ)が所用したといわれる駕籠です。
ビロード地で飾られた外部に、花や鳥など彩やかな絵が施された内部。優雅な装飾に上品さも感じられます。砂千代は、明治5(1872)年に大通寺の10代目住職・霊寿院厳澄(れいじゅいんごんちょう)と結婚しました。婚礼調度品のひとつに、この駕籠があったようです。このほかにも化粧道具や雛飾りなど約61点が遺されているんだとか。
今回ご紹介した見どころの他にも、長浜城の大手門を移築したとされる台所門や鑑賞式枯山水の「含山軒庭園」、鑑賞式池泉庭園の「蘭亭庭園」など国の名勝も鑑賞することが可能です。長浜の寺院、大通寺。時間をかけて、じっくりと境内を歩いてみてはいかがでしょう。
大通寺 情報
住所:〒526-0059 滋賀県長浜市元浜町32-9
公式サイト:http://www.daitsuji.or.jp/daitsuji