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2021.02.18

遊郭は吉原だけじゃないゾ!絶世の美女もいた「大坂新町」へ明治のガイドブックでGO!

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吉原吉原ゆうてるけど、大坂の新町も忘れてもろたらあかんで!

……という声が聞こえてくるような聞こえてこないような。

いまでは「遊女」「遊郭」といえば、江戸の吉原が真っ先に語られがちですが、江戸時代に幕府が許可した公認の遊郭は3カ所ありました。

吉原以外の二つは、京都の島原遊郭、そして今回のテーマである大坂の新町遊郭でした。

映画や小説に描かれるのは、吉原と島原ばかり。メジャーどころの影に隠れた印象の新町遊郭ですが、そこはやはりめくるめく花園。新町ならではの魅力も多くありました。

そんな新町遊郭の様子を、明治時代の「案内ガイドブック」からご紹介します。

心斎橋のすぐ近くにあった巨大遊郭

早速ですが、これがその本。明治36年に発刊されたものです。新町遊廓のガイドブック的な形で発行されたものらしい。

表紙をめくると、まずは「新町郭事務所」の様子が。

この場所、実は心斎橋のすぐそこ。昔の地図で言うと、

「浪華名所独案内」(江戸末期/暁鐘成 図)大阪市立図書館デジタルアーカイブより(パブリックドメイン)

ここ。

現在の住所でいうと、大阪市西区新町1丁目と2丁目の辺りにありました。

国土地理院地図を加工して作成。新町遊廓にお越しの際は、長堀鶴見緑地線「西大橋駅」でお降りください

めくるめく芸妓たちの世界

さて、ガイドブックをもう1ページめくってみましょう。
すると、


まだなんのテキストも書かれていないのに、突然のプロフィール写真。しかも、1ページに5人ずつ、9ページにもわたって50人近い女性たちのご紹介ページが続きます。

おそらく芸妓さんだと思われますが、全員名前入り。
服装は基本的に和装ですが、中にはちょっとポーズを変えた人や、

髪をほどいた人も……。

少しご年配の方もいらっしゃいますが(失礼)、

現代で会ったとしても、きれいな方ばかり…。

蟻のように集まる「色餓鬼」ども

こんなきれいな女性たちがいた新町遊廓。その発祥は、実は江戸の吉原よりも先だとされています。

詳しく記した天明3(1783)年の『大坂新町細見之図 澪標(みをつくし)』には、このようにあります。

「往昔(そのむかし)天正慶長の比(ころ)より
諸所に遊女を抱(かかえ)渡世のもの有しを
寛永年中に今の土地を下しおかれ諸所の遊女を一所にあつめ
一廓の内に軒をならべさせ
其比(そのころ)木村亦次良(またじろう)といへる浪人者に
右廓の庄屋年寄を被為仰付(おおせつけられ)永くけいせい町と成(以下略)」

要するに、戦国末期から江戸初期にかけて、大坂の各地にいた遊女たちを木村又次郎という人物が集めて、そういうコトをさせていたと。
それを(風紀の乱れなどにつながるので)一つの場所に集めさせて廓としたのが、新町遊廓の始まりなのだそう。

この起源については、ガイドブックにも同様に書かれていますが、注目すべきはこの一文。

「(新町遊廓の)甘きに蟻の如く色餓鬼の寄来たりて情けの海に溺るゝに至りしなり」

色恋に狂った「色餓鬼」どもが「蟻のごとく」寄り集まり、「情けの海」に溺れていく……。

地獄絵図か! ガイドブックに書くような表現じゃないだろ。

座った女の子をかぶりついて見ている画面左の男の後ろ姿が情けない。甘い物に集まる蟻と言われても仕方ない(大阪市立図書館デジタルアーカイブ『澪標 大坂新町・細見之図』(パブリックドメイン))

決して逃げられない場所でもあった

そんな色街は、移築などではなく、まったく新しく造成されたことから「新町」と名付けられました。まずつくられた瓢箪町、新京極町、新堀町、佐渡島町、吉原町の5町は「五曲輪」と呼ばれ、その後九軒町、佐渡屋町が加わり「廓七町」となって、それらすべてを総称して「新町」と呼びました。

江戸・吉原が大門からしか出入りできなかったように、新町遊廓にも出入り口は一つしかありませんでした(この辺りに、遊郭の楽しいだけではない、悲しくも女性たちが”逃げられない場所”としての、厳しく過酷な一面がにじみます)。

先程の地図の通り、遊郭の東側には西横堀が、北側には立売堀、南側には長堀が流れています(西に向かうと海)。この西横堀を越えるための橋が、唯一の出入り口であった「新町橋」。俗に「ひょうたん橋」と呼ばれていました。

橋の上で肩組んでる二人、楽しそうだなーおい!笑(大阪市立図書館デジタルアーカイブ『澪標 大坂新町・細見之図』(パブリックドメイン))

現在でも、かつての橋の跡には碑が建てられています。

碑にはこんな絵も。

現在は阪神高速の下というなんとも風情がない場所ですが、かつてここを通る人々はみんなどこかウキウキした気持ちだったのでしょう。

なにしろ大坂で最も華やかな場所の一つへと続く橋だったのです。

(河村瑞賢による堂島川・曽根崎川改修で堂島新地いわゆる「北新地」が開かれたのは元禄元(1688)年のこと。この曽根崎のほか大坂各所にも遊郭はありましたが幕府公認ではなく「おめこぼし」的な半公認の存在でした)

井原西鶴・近松門左衛門も御用達

新町遊廓がどれほど華やかだったのか。それは今に伝わる小説や浄瑠璃、歌舞伎の中にも見て取ることができます。

新町遊廓は井原西鶴や近松門左衛門の作品にたびたび描かれ、この遊郭から生まれた物語が現代まで多く語り継がれているのです。

たとえば、西鶴の処女作『好色一代男』の主人公であり、日本文学史上トップクラスのダメ男・世之介。彼が何人もの遊女と契りを交わしたのも、この新町でした(「蟻の如く集まる色餓鬼」という言葉が思い出されます)。

「帯とけば肌うるはしく暖(あたたか)にして、
鼻息高く、
ゆひ髪の乱るゝをおしまず、
枕はいつとなく外(ほか)に成(なり)て、
目付きかすかに青み入(いり)、
左右の脇の下うるをひ、
寝まき汗にしたし、
腰は畳をはなれ、
足の指さきかがみて、
万(よろづ)につけてわざとならぬはたらき、
人のすくべき第一なり
(中略)
声鵺(ぬえ)に似て、
(中略)
あれはどこから出る声ぞかし」

(井原西鶴著、麻生磯次他校注『好色一代男』巻六「全盛歌所羽織」(岩波書店、1991年))

……このへんで止めておきますが、こんな描写も新町を舞台に描かれていました。その『好色一代男』に

「京の女郎に江戸の張をもたせ、大坂の揚屋であはば、此上何か有べし」

(同 巻六「匂ひはかづけ物」)

という一文が。つまり、

「女性は京都島原がナンバー1。意気地の強さは江戸吉原がナンバー1。遊ぶ場所としては大坂新町がナンバー1」

とされていたらしい。

遊郭史に詳しい宮本由紀子氏によると、新町の特色は「商談・客の接待に利用されていたことから揚屋が非常に発達していた」ことにあるそう(芳賀登監修、宮本由紀子編『江戸の遊郭 島原・新町・丸山篇』(国書刊行会、1986年))。

そもそも後から新町に追加された九軒町は、付近の問屋たちが得意先の客を接待する場所として、瓢箪町に頼みこんで開いてもらったものでした。さすが商人の街、大坂。

ただ、女の子がいる場所で接待して商談をうまくまとめようとする……。現代の感覚と1ミリも変わっていないことにも(残念ながら)、驚かされます。

左の扇子持ってる客のテンションの上がりようがなんとも言えない(大阪市立図書館デジタルアーカイブ『澪標 大坂新町・細見之図』(パブリックドメイン))

近松にインスピレーションを与えた絶世の美女「夕霧」

そうして新町遊廓は俗に「天下に並ぶものがない」といわれるほどにまで、絢爛豪華に発達していきます。

近松もここで作品のモチーフの数々を得ています。その一つが「夕霧伊左衛門物」と呼ばれる一連の作品群。

主人公は、新町の遊女「夕霧」と、豪商藤屋の若旦那「伊左衛門」。伊左衛門は定かではないようですが、この夕霧は実在した遊女で、瓢箪町にあった「扇屋」お抱えの太夫でした。

京都の島原から新町に移り、芸事にも秀で、誰もが認める絶世の美女だったそうですが、延宝6(1678)年に病気で没します。享年22歳とも27歳とも伝わります。

彼女の死を悼んで翌月大坂で上演された浄瑠璃『夕霧名残の正月』以降、近松はこの二人を主人公にしてさまざまな作品を生み出します。

中でも『夕霧阿波鳴渡(あわのなると)』は名作中の名作で、歌舞伎の演目『廓文章』はこの「吉田屋の段」が改められたもの。

吉田屋の様子(大阪市立図書館デジタルアーカイブ『澪標 大坂新町・細見之図』(パブリックドメイン))

以前、上方歌舞伎の第一人者、四代目中村鴈治郎さんにインタビューさせていただいた際、襲名披露でこの『廓文章』の伊左衛門を演じておられた(夕霧役はお父様の四代目坂田藤十郎さんでした)ことについて、

「そもそも上方の歌舞伎に出てくる男は、女に入れ込んで勘当されたり、だらしないのが多い(笑)」

(道友社刊『すきっと vol.26』2015年6月)

と話しておられました(再びガイドブックのあの言葉が思い出されます)。

また、近松と言えば心中物。先述の『好色一代男』では、新町遊廓だけでも「大和屋の市之丞、久代屋の紅井、紙屋の雲井、糸屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之助・・・」と色恋沙汰の末に心中した人物が13人も挙げられています。

ひょうたん橋の向こう側で繰り広げられていた、まさに男と女の命がけの駆け引きに、近松もインスピレーションを得ていたことは間違いないでしょう。

太夫と一晩過ごすのにいくらかかった?

明治に入り、明治5(1872)年には芸娼妓解放令が出されたものの、遊郭は「貸座敷」と名前を変え営業を続けます。

ガイドブックには発行者などが記載されてはいませんが、遊郭内の同業者組合が発行したようで、夕霧の足跡を含め新町遊廓の歴史を説明しつつ、新町に店を出す際の細かな規定なども掲載しているところが興味深い。

そこに、「太夫揚代金規定」なるものも記載されています。
それによれば新町で太夫と一晩共にするには、これくらいの金額が必要でした。

昼 金五円
 但シ午前六時ヨリ午後六時マデ
夜 金七円五十銭
 但シ午後六時ヨリ翌日午前六時マデ
昼夜通し 金十円
 但シ午前六時ヨリ翌日午前六時マデ

右揚代金貸座敷会ノ決議ヲ経テ相定メ候也

明治36年当時の1円が現在のいくらくらいの価値だったのかは、何を基準に考えるかで異なりますが、公務員の初任給が明治30年には「50円」で、現在は「18万1200円」(人事院「国家公務員の初任給の変遷」)であることや、明治35年当時白米10キロが「1円7銭」だったことから計算すると、当時の「1円」は現在の「3,000〜4,000円」ほどだったと考えられます。
(物価を基準に考えた場合。日本銀行の企業物価指数による算出方法によれば、当時の「1円」は現在の「1,340円」になる)。

ということは、新町で太夫さんと夜から翌朝まで一緒にいるのにかかるお金は、現代の感覚で「2万5千円程度」。
丸1日一緒にいると「約3万5千円」でした。

ただし、それはあくまで揚代の話。そんなポッキリな値段で許されるはずはないのも現代と同じです。
規定には、「太夫送迎の順序及び付属携帯物」として、次のものをすべて客側が用意するように指示されています。いわく、

駕籠ヲ以テ送リ迎ヲスル事
かむろヲ付従セシムル事
文庫
枕箱
布団
客人ノ使用ニ供スル歯磨ようじ石鹸香水ハンカチーフ等ノ諸雑品

とのこと。このほかにも、もちろん貸座敷代もかかれば、そこでの飲食代、芸妓さんたちの花代(これについても細かい規定が記載されていました)など、現代の感覚でもおそらく総額10万〜15万くらいはかかったのではないでしょうか。

さらにお金だけでなく、そもそも客は品格などを含めて太夫に認められ、「見極め」られたうえでなければ、事に及ぶことはできませんでした。

けれど、商家の奉公人や職人といった庶民でも、決して不可能な話ではない。一生かけても上がれないというような場所ではなかったでしょう。

特に大店の若旦那などであれば苦もない値段だったはず。ただ、確かに足繁く通いつめれば身代を潰す可能性もある。

今も昔も、こういう遊びはほどほどにしましょうね。

当然だが芸妓や遊女たちの側にも細かなルールがあった。統計も興味深い

情けに溺れた人々の「夢の跡」

元禄年間には800人を超える遊女がいた新町遊廓ですが、明治23(1890)年9月に大火があり(「新町焼き」と呼ばれたそう)、以降花街の中に小売店などが軒を並べるようになり、次第に商業地域となっていきました。

大正11(1922)年には、佐渡島町にあった高島屋跡地に「新町演舞場」が建設されます。このときにはすでに吉田屋など数軒しか残っていませんでした。しかし、その吉田屋も第二次世界大戦の大阪大空襲で消失し、戦後復興時の区画整理で花街自体も無くなりました。焼け残った新町演舞場だけは地元の企業「大阪屋」が本社社屋として長く使用していましたが、それも平成26(2014)年に解体されました。

現在、新町演舞場の跡地には高層マンションが立っていますが、そこには新町演舞場の窓枠部材を使った碑が残されています。

 

 

そうしてみると、このガイドブックは、徐々に商業都市の中に飲み込まれていく新町遊廓が、その最後の輝きを見せていた時のものだと言えるかもしれません。

写真の女性たちがその後どのような人生を送ったのかは、もちろんわかりません。それでも、世界有数の都市となった大阪の街に、願わくば幸せな人生を送った女性たちのその後と、春を謳歌した人々の夢の跡を想像してみるのもいいのではないでしょうか。

 

 

書いた人

1986年生まれ。何かを書いたり書いてもらったりする仕事をして10年。「雅楽×インバウンド」を主な事業とする小さな会社もやっていますが、日々戦う相手は家に勝手に住み着いている猫や鳩です。最近は妙な友情まで感じるようになってきました。