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生涯をかけて学ぶべきことは、死ぬことである(セネカ)

読み物
Culture
2021.06.08

内気な少年を「伊達政宗」に育て上げた男・虎哉宗乙。現代にも役立つ教育論とは?

この記事を書いた人

「優しい」より「厳しい」。
得てして思い出すのは、そんな先生や上司たちだ。

先に断っておくが、決して恨み言ではない。
それこそ、自分本位で感情のままに怒られていれば、思い出すこともないだろう。

いかに傷つけずに、気付かせることができるのか。
どうすれば、前を向かせることができるのか。
彼らのそんな裏側の気持ちが、透けて見えるとき。一瞬で、これまでの言動の「本当の意味」を知る。そうして、厳しさの根底に愛情があるのだと、心で理解するのだ。だから、人は忘れられなくなる。

そういう意味で、今回取り上げる方は、忘れられない「師」の代表たる人物。
その名も、「虎哉宗乙(こさいそういつ)」。
戦国史上、燦然と輝く偉大な武将「伊達政宗(だてまさむね)」を育て上げた禅僧である。

伊達政宗といえば、武勇伝に事欠かない人物。
そもそも教育なんて必要なのかと思われそうだが。じつは、幼少期の彼は、内気で引きこもり。当時、6歳だった「梵天丸(ぼんてんまる)」は、正真正銘、精神的に弱い子だったとか。そんな彼を、ビシバシと鍛え上げ、立派な戦国武将にしたのが、虎哉宗乙なのだ。

今回は、そんな虎哉宗乙の「キビシー教え」をご紹介。
政宗の教育係になった経緯から、生涯をかけて教えたその内容まで。
強固な信頼関係を築き上げた理想的な「師」を、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、「伊達黄門政宗公像」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
私は「師」ではありませんが、子を育てる親の立場として、すっごく気になる内容です!!

元をたどれば…武田信玄の「師」?

人の縁とは不思議なものだ。
てっきり、伊達政宗を育て上げたというから、東北出身かと思いきや。じつは、虎哉宗乙は美濃国(岐阜県)の生まれ。享禄3(1530)年に生まれたのち、岐阜県揖斐川(いびがわ)町小野の東光寺にて仏門へ。

当時の東光寺の住職は「岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)」。あの武田信玄が、幼少時そして若いときに教えを受けたとされる人物である。つまり、虎哉宗乙は、武田信玄の「師」から教えを受けていたことになる。

それだけではない。
繰り返すが。じつに、人の縁とは全く不思議なもので。
その後、虎哉宗乙は諸国行脚を始めるのだが。その間に、同じく美濃国(岐阜県)の崇福寺にて「快川紹喜(かいせんじょうき)」にも教えを受けたとか。

そして、既に予測された方もいるだろうか。
こちらも、またもや、あの武田信玄がその教えを受けた人物なのである。なんなら、信玄の死から3年後に営まれた盛大な葬儀。これを務めたのも、快川紹喜、その人である。

伊達政宗を育て上げた虎哉宗乙、その「師」ともいえる2人はというと。
揃って、彼らは武田信玄に多大なる影響を与えた人物だったのである。

月岡芳年「武田大膳太夫晴信入道信玄」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そんな武田信玄との不思議な縁が、いかに伊達政宗へと繋がるのか。

ここで、1つの疑問が。
もともと、虎哉宗乙のテリトリーは美濃国(岐阜県)や甲斐国(山梨県)。出会うにしては、地理的にみて遠すぎる距離である。一体、どのようして、伊達政宗の「師」となったのだろうか。

これには、さすがに両者を取り持つ人間が必要だ。
それが、伊達政宗の大叔父にあたる「大有康甫(だいゆうこうほ)」。
系図でいえば、政宗の祖父である晴宗(はるむね)の弟である。

大有康甫は京都の東福寺で修業し、のちに出羽国(山形県、一部の秋田県)の東昌寺の住職に。この寺に、どうやら、虎哉宗乙が立ち寄ったというのである。というのも、当時28歳の宗乙は、修行として2度目の諸国行脚に出ていたところ。そして、永禄4(1561)年。虎哉宗乙32歳の折、初めて訪れたのが、東昌寺であった。

ここで、一夜の宿を願うのだが。運悪く、住職の大有康甫は不在であったという。やむを得ず、虎哉宗乙は、ある詩を寺に残して立ち去る。その内容がコチラ。

「見知らぬ他郷に知り合いとてなく、至らぬ身のまま各地を旅させていただいています。私の人生は恰(あたか)も雨、風に漂う鳥のようにはかないものですが、志だけは大きく抱いて、高邁な師の教えを乞いたいものと願っております」
(小和田哲男著『戦国武将を育てた禅僧たち』より一部抜粋)

本来ならば、すれ違いとなるはずが。
寺に帰ってきた大有康甫がこの詩を読み、なんと、後を追いかけるのである。こうして、ようやく2人は感動的な出会いを果たし、宗乙はこの東昌寺に滞在することに。永禄7(1564)年頃まで滞在していたとの記録も。その後、宗乙は美濃国に帰国。京都の妙心寺を経て、元亀元(1570)年に、再度、東昌寺へ。

一方、当時の伊達家はというと。
当主は、16代「輝宗(てるむね)」。政宗の父である。

ちょうど、嫡男を立派な次期当主へと育て上げるべく、将来を見据えた人選を行っていたところであった。そして、白羽の矢が当たったのが、虎哉宗乙。あの大有康甫を介して、輝宗のお眼鏡にかなったと推測される。

ただ、虎哉宗乙はというと。
予想に反して、二つ返事というワケにはいかなかったのである。じつは、輝宗からの要請に、「老母がいる」との理由で、一度は固辞。それでも、諦めきれない輝宗の熱意にほだされたのか。

元亀3(1572)年。
とうとう、虎哉宗乙は米沢の資福寺(現在は宮城県仙台市)の住職に。
宗乙43歳であった。

口説き落されたのですね!

政宗の人生に影響を及ぼし続けた男

さて、輝宗の熱い期待を一身に背負った虎哉宗乙であったが。
問題の教える相手はというと。
冒頭でもご紹介した「梵天丸(ぼんてんまる)」。

当時の伊達政宗は、後世のイメージとはほど遠い幼少期を過ごしていた。
自分の容姿にコンプレックスを持っていた6歳の内気な子。もともと聡明な子ではあったが、ある理由から、引っ込み思案となり、さらには覇気もなく、全てにおいて受け身だったとも。

その理由はただ1つ。
病により、右目を失明していたからである。

先天性ではない。
だからこそ、幼い頃の彼には、耐えられるものではなかった。病気になる前の健康であった頃の記憶。それが彼を苦しめ、何より大きな心の傷を負わせたのだろう。明るかった性格など嘘のように、その片鱗は跡形もなかった。

そんな梵天丸、のちの伊達政宗の生涯の「師」となったのが、虎哉宗乙。
伊達政宗といえば、「文武両道」を絵に描いたような人物と評されることが多い。文化人、教養人としても一目置かれていたというから、相当の知識量だろう。そのベースは、虎哉宗乙の教えがあったからこそ。仏教はもとより、漢学や五山文学など幅広い教養の素地を、宗乙の教育で身に付けたようだ。

ただ、彼の真の功績は、もっと別のところにある。
知識や学問よりも、もっと大事なモノ。
それは「生き方」。それも、伊達家当主となる「主君としての生き方」を示したことだ。

じつに虎哉宗乙の教えには、精神論の類が数多く残されている。
今回は、その一部をご紹介しよう。
まず、政宗が死ぬときまでこだわった教えから。

「人前で横臥(おうが)するな」
(松森敦史編『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』より一部抜粋)

将たる者、寝姿など人前で見せるものではない。たとえ、具合が悪かろうとも、それを外に出さず、いつ何時も「将である」ことを意識すべきという意味合いだろう。

実際に、政宗はその教えを守り、病床でも身体を起こしたとされている。死地の場面では、正室である愛姫(めごひめ)の願いも退け、対面することはなかった。死ぬ前の自分の姿を見せたくなかったのか。死の前日には、部屋を綺麗にさせ、自身も沐浴し、髪を結って衣服を改めたという。最期まで凛とした佇まいであった。

他にも、このような教えも伝わっている。

「宗乙は梵天丸の頬をつねりながら、『痛ければ、痛くないと言え』と伝える。そして、『悲しければ、笑え。熱ければ、寒いと言え』と続けた」
(同上より一部抜粋)

感情を表に出さない。虎哉宗乙は、これを「将」の条件と考えていたようである。
確かに、顔を見ただけで心の声がダダ漏れの主君など、不安で仕方ない。これから大きな戦という場面で、狼狽でもされれば、士気は急降下。ポーカーフェイスは、武将にとって必須スキルだったようだ。

確かに、上司が慌てていたらこちらも不安になります……。

そして、さらに。
私が最も注目したいのが、コチラ。
「自信」。

右目を失明した彼にとって、人生を立て直すには欠かすことのできないもの。
それが「自分を信じる」コト。
どんなことでも、自分なら「デキるんだ」と思える、そんな自信が彼には必要だった。そのためには、コンプレックスの元凶である右目を、そのままにはできず。胸を張って、自身のトレードマークへと変えなければならない。

そこで、虎哉宗乙はどうしたか。
参考文献で挙げた『戦国武将を育てた禅僧たち』(小和田哲男著)の中には、山田勝芳氏のある指摘が掲載されている。

「禅では優れた者を『独眼龍』とした例があり、さらに五代後唐の始祖李克用が黒の軍団を率いて敵を畏怖させ『独眼龍』と呼ばれ、遂にはその子が皇帝になったこと…(中略)…などを話し、かつ『十八史略』などを読んだものと思われる」
(『国際文化研究』創刊号より一部抜粋)

なんと、虎哉宗乙は、コンプレックスの右目を、見事にヒーローの条件へと仕立て上げたのである。理不尽な運命を背負わされた梵天丸にとって、どれほど「独眼龍」という響きが、心地よかっただろう。悪い意味ではなく、良い意味として「自分は特別だ」と。そう、信じることができたに違いない。

コンプレックスを魅力に変える。これは大人でも見習いたい!

これが偶然か否かは分かるまいが。
のちに、政宗率いる「伊達者(だてもの)」らは、シックな黒装束の軍団でご登場。
全ては、「師」である虎哉宗乙の教えの賜物かもしれない。

か、かっこいい~~~!!!

最後に。
虎哉宗乙のその後について。
京都の妙心寺や美濃国の瑞龍寺を経て、天正14(1586)年に米沢の覚範寺(現在は宮城県仙台市)を開山。この寺で、かつて息子の教育係にと声をかけた輝宗を弔った。

こうして「伊達政宗」の人生に、影響を与え続けた虎哉宗乙だったが。
慶長16(1611)年に死去。享年82。
「墓など無用」と言い残したところが、虎哉宗乙の人柄を如実に物語っている。このとき、政宗は、ちょうど、江戸城の普請のために江戸にいたというが。すぐに仙台へと引き返したという。それほどまでに大事な存在だったようだ。

死ぬまで「師」と仰いだ伊達政宗。
それにしても、政宗の仏教の知識は、群を抜いていたという。政宗の仏法の問答を見ていた僧らは、言葉を失ったほど。さすがは、虎哉宗乙とでも言おうか。

キビシー教えに勝るとも劣らない深い愛情。
それは、きっと。
魂まで深く刻み込まれているに違いない。

参考文献
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月
『戦国武将を育てた禅僧たち』 小和田哲男著 株式会社新潮社 2007年12月
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 松森敦史編 晋遊舎 2013年12月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。