兵庫県・尼崎市の北東に位置する東園田(ひがしそのだ)遺跡より、大量のイイダコ壺が出土!その中に鹿の絵が描かれたものが……。
鹿と言えば、この日本列島において太古の昔から生息していたとされるが、その生息場所は主に山であると考えがちだ。
ちなみに、東園田遺跡周辺はこんな感じ。
東園田遺跡界隈だが、現在は一戸建てが立ち並ぶ住宅街である。そんな中で緑豊かな空間も!
ここに鹿が生息していたのだろうか。
もしかすると遠くに聳(そび)える山から遥々移動していたのかもしれない。実際、北海道東部では100キロメートル以上移動した事例もあり、あの山々からの移動も十分想定され得る。そんな思いを巡らせつつ、イイダコ壺の表面に描かれた鹿の絵の真相を探ってみた。
東園田遺跡とは?
尼崎の歴史は約2000年前、つまり弥生時代に遡る。なぜ弥生時代が歴史の起点なのかと言うと、縄文時代には現在の尼崎に相当する領域のほとんどが海であったからだ。
その後、猪名川や武庫川から運ばれてきた土砂が堆積することで、現在の尼崎の北半分の陸地化が進み、それと同時に人々の居住が始まった。それゆえ、市内には弥生時代遺跡が点在する。そのひとつが、大阪と兵庫の県境に跨(またが)る猪名川の右岸に形成された東園田遺跡だ。
その東園田遺跡界隈を歩いていると、弥生時代の名残とも思われる地名も!
基本的に弥生遺跡として観光地化されているわけではないが、街をぶらぶら歩くだけで弥生時代にタイムスリップした気分になれるかもしれない。
中四国や近畿地方からの土器が集結!
東園田遺跡は弥生時代後期~古墳時代前期の遺跡である。ちょうど邪馬台国において卑弥呼が統治していた時代と重なる。全体的に文様が施された厚手の縄文土器に対し、弥生土器は全体的に褐色を帯びており、薄い素材のものという画一的なイメージを持っている人は多いだろうが、東園田遺跡から出土した弥生土器は色や形に関して実に多種多様だ。
東園田遺跡を擁する尼崎は古くから交通の要衝として栄え、人の往来が激しい場所であった。それゆえ、和歌山、淡路島、さらには中四国地方で作られたとされる土器が多く出土している。
大量のイイダコ壺が出土!
東園田遺跡と言えば、大量のイイダコ壺が出土した遺跡として考古学的にも注目されている弥生遺跡でもある。
弥生時代、大阪湾および瀬戸内海沿岸ではイイダコ漁が盛んに行われていた。実際、大阪湾および瀬戸内海沿岸に残る弥生時代中期以降の遺跡では、イイダコを捕捉するために使用されていたと見られるイイダコ壺の出土が多数確認されている。この東園田遺跡に限定すると、イイダコ壺の出土数はなんと全部で492個。コップの形をしたもの、口の部分から胴部までが直線的なもの、球形のもの、胴部が突き出た砲弾の形をしたもの、胴部の部分が異様に長いものなど、形は実に多種多様だ。口部分の直径も約3~6センチメートルとばらつきがある。さらに、イイダコ壷の底に関して丸みを帯びたものもあれば、突き出たものもある。
外見から大体予想できるだろうが、重さは130グラム程度とコンパクト。弥生人はイイダコ壺を腰に携えて、タコ漁をしに出かけていったのだろう。
イイダコ壺の大半は弥生時代中期の土器をわずかに含む黒灰色粘土層の上層にて検出。一緒に埋められたとされる土器が見つからなかったため詳細は不明だが、大量のイイダコ壺がまとまって出土した状況を鑑み、水を含んだ窪みの中に一括して保管されていた可能性が高いと見ている。
イイダコ壺は現代のSNS?
東園田遺跡で出土したイイダコ壺に関して特筆すべきは、その出土数の多さだけではない。実際、この東園田遺跡ではまるで絵画のようなイイダコ壺が1点確認されている。
現在、約3万5千件の弥生遺跡が文化庁により登録されているが、表面に鹿などの絵が描かれたいわゆる「絵画土器」は、日本全国の弥生遺跡において多く見られる。が、鹿などが描かれたイイダコ壺に限定すると、全国的にも珍しい事例であるという。とにかくこのイイダコ壺は文字文化が定着していない弥生時代の生活を垣間見るうえでの重要な資料であることは言うまでもない。
鹿の絵が意味するものとは?
さて、当時の人々はどのような意図があって、イイダコ壺に写実的な絵を描いたのだろうか。その鹿の絵が示すメッセージとは……。
まず、象でも猿でもなく、なぜ鹿の絵なのかと言うと、鹿は古代の人々にとって神聖な生き物であった。2008(平成20)年、俳優の玉木宏主演でドラマ化された小説家の万城目学のファンタジー小説『鹿男あをによし』では、鹿は神の使いとして描写されており、そのことに薄々気づいていた方も少なくないだろう。奈良公園では毎年、鹿の角を切り落とす「鹿の角切り」が行われているが、鹿の角は切り落としてもまた生えてくる。そのことから、不思議な生き物として、古代の人々の間で神聖化されていた。広島の厳島神社には多くの鹿が生息しているが、厳島神社と鹿はまさに必然的な組み合わせであると言える。
弥生時代には鹿の絵が描かれた絵画土器が多く出回っていたことはすでに述べた通りであるが、その絵画土器は主に、豊漁を祈り、お祭りなどにも使用されていた。
さて、鹿の絵をじっと見てみよう。絵の中の鹿はどこかに飛び込んでいるようにも見えないだろうか。一体、これは何を意味しているのだろう。この鹿の絵が示すメッセージについて、尼崎市立歴史博物館の学芸員である高梨政大氏はこう解釈している。
宮島の厳島神社の鹿に纏わるこんな説がある。宮島では、島からメス鹿がいなくなると、オス鹿はメスを求めて泳いで渡っていくという習性があった。
弥生人は恐らく鹿が泳いでいく場面を何度も目の当たりにしていたのだろう。そして、その様子を見たままに描写したのではないだろうか。
絵を凝視してみると、斜格子のようなものがうっすらと見える。この斜格子は海であり、つまり、これは海の中へ飛び込んでいく鹿を表している。ただ本能のままにメスを求めて……。
このように、鹿の絵が描かれたイイダコ壺は単にイイダコを捕獲するための道具でなく、ある時は宗教的な道具として、ある時は視覚情報を記録するための道具としての役目を担っていた。当時の人々がどのような思いをもって暮らしていたかをおおよそ知ることができるが、現代で言えば呟きを通じてその人の生きざまが見えるSNSに近いものなのかもしれない。
最後に、漢字の生みの親である中国では、器物に刻まれた符号や文様から漢字が生まれたというのが定説となっている。例えば「川」の字の場合、川が流れるさまを絵に表し、その絵から「川」が生まれた。もちろん「鹿」という漢字の成立に関わっているということではないが、中国のその手法とどこか通ずるものがあるようにも思われるのだ。ということで、イイダコ壺の鹿の絵を見ながら、縄文時代にはない渡来文化の影響をひしひしと感じた筆者であった。
尼崎市立歴史博物館
今回訪れた尼崎市立歴史博物館は、大正時代~昭和初期に使用された女学校(明治時代に尼崎城が取り壊され、城跡のみとなったその地に開校。建物の北東端には4層の天守があったとされている)の校舎をリニューアルし、生まれ変わった全国でも珍しい博物館だ。市町村合併や少子高齢化により、廃校になった学校をどう活用するかが全国的に問われる中で、尼崎市立歴史博物館がとった対応は注目に値する取り組みとも言える。
校舎に見覚えがある方も少なくないだろう。そう、ここは2005(平成17)年に公開された映画『ALWAYS 3丁目の夕日』や、高度経済成長期の焼肉店の家族を描いた映画『焼肉ドラゴン』のロケ地のひとつでもあった場所なのだ。
「原始・古代(縄文時代~古墳時代)」「古代・中世(飛鳥時代~安土桃山時代)」「近世I・II(江戸時代)」「近代(幕末~太平洋戦争)」「現代(戦後~現在)」と、時代ごとに常設展示室が設けられており、どこか昔懐かしい学校の教室にいるような感覚で尼崎の歴史を振り返ることができるようになっている。尼崎城を訪れた際には、気軽に立ち寄ってみてはいかが?
住所:兵庫県尼崎市南城内10番地の2
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(取材協力)
学芸員 高梨政大氏