Culture
2021.04.11

目的はお嬢様の大胆な生足!?江戸時代のレジャー「潮干狩り」がめちゃくちゃアツイ!

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季節の移り変わりを上手に生活に取り入れた、日本の伝統行事が見直されています。ひな祭りや端午の節句など、現在は新暦で行われているものもありますが、実は新暦よりも旧暦で行った方がしっくりくるものも少なくありません。
例えば、春のレジャーの一つである「潮干狩り」は、1年で最も潮の干満の差が大きく、気候もよい旧暦3月3日頃の大潮の頃がもっともよい時期とされています。

2021年は、4月14日が旧暦3月3日になりますね!

潮干狩りがレジャーとして広まったのは江戸時代からと言われており、その様子が浮世絵に描かれていることからも、江戸の人々が潮干狩りを楽しんでいたことがわかります。
そこで、この記事では、江戸の潮干狩り事情について解説します。

そもそも、「潮干狩り」って何するの?

「潮干狩り」とは、干潮(かんちょう/潮が引いて、海水面が最も低くなること)の時、干潟(ひがた)に下り立って貝類や小魚をとって遊ぶこと。潮干狩りは、現在でも春のレジャーとして、満潮(まんちょう/海水面が最も高くなること)と干潮との海水面の高さの差が大きく、干潟が広く出る太平洋沿岸、瀬戸内、九州北・西岸で行われています。

歌川国芳「汐干五番内」より シカゴ美術館

近世後期における江戸および近郊の年中行事を月順に解説した『東都歳時記』でも、3月3日(旧暦)に「汐干」という見出しで江戸の潮干狩りの様子が紹介されています。「当月より四月に至る。其内、三月三日を節(ほどよし)とす」とあるので、旧暦3月から4月頃(現在の4月から5月頃)が潮干狩りシーズンで、その中でも、3月3日がベストな日とされていたことがわかります。

意外とまだ肌寒い季節に行うんですね!

芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎・中川の沖、早旦より船に乗じて、はるかの沖に至る。卯の刻過より引始めて、午(うま)の半刻には海底陸地に変ず。ここにおりたち蛎蛤を拾ひ、砂中にひらめをふみ、引残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり。

出典:斎藤月岑(さいとうげっしん)著、朝倉治彦編『東都歳時記』(東洋文庫159) 平凡社

人々は、早朝から伝馬船(でんません)や荷足船(にたりぶね)という小型の船で沖合まで漕ぎ出します。日が昇りはじめる午前6時過ぎから潮が引きはじめ、正午頃には干上がった浜におりて浅蜊(あさり)・蛤(はまぐり)などを拾いました。干潟にはヒラメや小魚もとれたようで、とれたての貝や魚を料理して、宴会を行うこともあったようです。

それ絶対おいしいやつ!

歌川広重「東都三十六景 洲さき汐干狩」 国立国会図書館デジタルコレクション

潮干狩りの人気スポット・洲崎(すさき)で潮干狩りを楽しむ人々を描いています。後ろには、客を乗せてきた船も見えます。

3月3日と言えば「ひな祭り」の日ですが、旧暦3月3日は、海辺や山野、川原など、戸外に出かけて飲食などして過ごす日とされていました。海辺に出かけ、女性が手足を海水に浸して身を清めて健康を祈願するという「浜下り(はまおり)」「磯遊び」と呼ばれる風習が伝わる地域があるほか、農業や漁業が繁忙期に入る前に、山野や海に連れ立って出かけて、食事をしたり遊んだりして一日を過ごす習慣もありました。

忙しくなる前の、ゆっくり過ごせるバカンスのような感じだったのでしょうか!

それが、江戸では「摘み草」や「潮干狩り」といった春のレジャーとして定着したとも言われています。

江戸の人々は、どこに「潮干狩り」に行ってたの?

江戸の潮干狩りの名所は、品川、高輪、深川の洲崎、中川沖、佃島などです。
潮干狩りが人気だったのは、現在よりも海が近く、江戸市内から海に行きやすかったという地理的な要因もありました。

東京も、今より海が身近だったのですね。

品川、高輪

現在の様子からは想像ができませんが、江戸時代、高輪から品川にかけて遠浅の海が広がっていました。明治時代になって鉄道が開通した頃、高輪ゲートウェイ駅付近は海の上を蒸気機関車が走っていたのです!

え~~!!! びっくり!!!

このあたりは、昼過ぎには沖合まで干潟になることから、春や夏には、蛎(かき)や蛤(はまぐり)などの貝類のほか、ヒラメや海藻を採る人々で賑わいました。

古山師政「品川汐干の図」 シカゴ美術館

潮干狩りの時期は、大名の参勤交代の時期でした。参勤交代の行列の長持歌が、品川や高輪の浜辺まで聞こえたと言われています。

洲崎

洲崎は東京都江東区の旧地名です。木場の東隣で、元禄年間(1688~1704年)に埋め立てられました。
元禄13(1700)年、5代将軍・徳川綱吉が生母・桂昌院の守本尊(まもりほんぞん/自分を守ってくれるものとして、いつも心から信仰している仏)である弁財天を祀るために、洲崎に洲崎弁財天社(すさきべんざいてんのやしろ)を建立します。洲崎弁財天社は海岸に面した土手の先端にあり、周辺は初日の出や潮干狩り、月見の名所として賑わいました。

リア充が集うスポットだったのかな?(勝手なイメージです)

二代歌川広重、三代歌川豊国「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」 国立国会図書館デジタルコレクション

「潮干狩り」の楽しみは、他にもあった!?

浜辺には茶店が並び、船遊びや宴会などもできました。広々とした海辺でリフレッシュできるだけでなく、新鮮な貝や魚などをゲットでき、さらには、ゲットした魚介類を使ってアウトドア料理をすることも! 潮干狩りが江戸の人々に人気だったのも納得ですね。

歌川国芳「汐干五番内」より シカゴ美術館

右側の女子が手に持っている魚はヒラメでしょうか? 足元には貝が山積みです。手ぬぐいを被った左側の女子は、蛸を捕まえたようです。

贅沢! いいなぁ~

潮干狩りは人気のレジャーだったので、春の大潮の時期には、良家の子女たちもお供を連れて出かけることもあったそうです。そして、女子たちは着物が濡れないように裾を持ち上げたり、袖をたくし上げたりします。潮干狩りでは、普段は見ることができないお嬢様たちの白い脚や腕を堂々と見ることができたのです!

歌川重宣「江戸名所 品川沖汐干狩の図」 国立国会図書館デジタルコレクション

品川沖の浅瀬で、着物の裾をたくし上げ、たすき掛けをして潮干狩りを楽しむ女子たち。手にした籠の中に、たくさんの貝が入っているのがわかりますか? 3人とも潮干狩りに夢中のようですが、着物からのぞく白い脚と腕が色っぽいですね。
後ろには、潮干狩りを楽しむ人々がたくさん描かれています。

もしかしたら、魚介類を採るよりも、色っぽい女子の姿の方が目当てだった男子もいたのでは? 浮世絵に描かれているような美女がいると期待して潮干狩りに行ったのに、期待どおりの美女がいなくてがっかり、ということもあったかもしれませんね。

海にナンパしに行く現代と、あまり目的は変わらないのでしょうか……!

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。