文鳥という小鳥をご存じだろうか。
クルっとしたつぶらな瞳に朱を刷(は)いたような赤いくちばし、華奢なピンク色の足。雛のうちからかわいがって育てると、やがて手に乗って遊ぶようになる。気品があって、ちょっとツンデレ。小首をかしげてじっと見つめられるともう胸キュンである。今市子(いま いちこ)という漫画家が描いた『文鳥さまと私』というコミックエッセイがあるが、文鳥の生態や飼い主のハマりっぷりが半端なく、とてもおもしろい。
実は私も昔、文鳥を飼っていた。白文鳥とグレーの羽毛に包まれ、頭部は黒、頬の部分が白い桜文鳥のつがい(雄と雌のペア)で、なかなか気が強かったが、手に乗って餌をついばむ姿はとても愛らしかった。
最近、そんな思い出のある白文鳥の発祥地が愛知県弥富市であることを知った。弥富市といえば全国有数の金魚の養殖地だが、文鳥も産出していたとは! 温暖な気候が生き物の繁殖に適しているのだろうか。
「弥富市歴史民俗資料館」には約20種類の弥富金魚とともに、日本で唯一の文鳥学芸員「ぶんちゃん」が勤務している。ぶんちゃんは、勤続4年目でおもてなし職員から学芸員に昇格。愛らしいぶんちゃんのおかげで同資料館の入館者数は約2倍になったという。
しかし、かつては文鳥の全国シェア8割を担っていた同市も、今では繁殖農家はわずか2軒に…危機感が高まる中、弥富市のお隣・愛西市にある愛知県立佐屋高校では文鳥繁殖農家の協力を得て、自分たちの手で弥富の白文鳥を繁殖し、全国に広めたいと「文鳥プロジェクト」をスタートさせた。ここでは弥富の文鳥の歴史と共に、“文鳥愛”にあふれる人々の姿をお伝えしたい。
幕末期、文鳥は弥富にやってきた 突然変異で誕生した白文鳥
弥富に文鳥がやってきたのは江戸時代の末期。武家屋敷に奉公していた八重という女性が奉公先からもらってきた文鳥のつがい(雄雌のペア)を連れて、又八新田(またはちしんでん)の大島新四郎のところへ嫁いできたのが始まりとされる。八重はたいそう文鳥をかわいがり、大切に育てていたところ、明治の初めになってたくさんの文鳥の子どもたちの中から突如、真っ白な文鳥が出現した。ところがこの文鳥はほかの文鳥に比べて体が弱かった。八重はことのほか白文鳥をかわいがり、二代、三代と大切に育てるうちに丈夫な白文鳥が生まれるようになったということである。
「弥富市歴史民俗資料館」では市の歴史や民俗、自然、産業などを紹介するとともに、文鳥に関するさまざまな情報を発信。ぶんちゃんの成長記録を定期的にパネルで展示するとともに、弥富文鳥マップの配布やぶんちゃんとのふれあい撮影会なども実施している。
それではここで同資料館から提供していただいた文鳥学芸員・ぶんちゃんのベストショットを何枚か見ていただきたい!
日本人と鳥飼育の歴史
奈良時代、鶴を飼っていた長屋王 平安貴族は雀に胸キュン
弥富で文鳥の繁殖が行われるようになった背景には、古代からの長きにわたる人と鳥の密接な関係がある。時代をさかのぼってみよう。
神代の昔から鳥は人の身近にいた。『古事記』の中で弟スサノオの荒々しい行動に憤慨した姉のアマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。太陽神が隠れてしまったために世界は闇に包まれ、良くないものたちが暗躍し始めた。困った神々はなんとかアマテラスに戻ってもらおうとあの手この手を尽くすのだが、その時に登場するのが常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)だ。これは鶏である。鶏は卵を産み、時には食肉となる家禽(かきん)であると同時に、その鳴き声は夜明けを知らせるアラームだった。
奈良時代には皇族や貴族など身分の高い人々の間で、鳥をペットとしてかわいがっていた事実がうかがえる。天武天皇の孫として政界のキーマン的存在であったが、後に反逆の疑いをかけられて自殺した長屋王(ながやおう)の屋敷跡からは「鶴司(つるのつかさ)」という3名の鶴飼育担当係の名前が書かれた木簡が出土している。
平安時代になると鳥の美しい姿やさえずりを愛好する貴族たちはさらに増えた。彼らが愛したのは雀(すずめ)である。捕獲した野生の雛を手乗りに育て、慈しむことが趣味であった。清少納言は『枕草子』の中で心ときめくものの一つに「雀の子飼(こがい)」を挙げており、『源氏物語』では、幼い若紫(後の紫の上)がかわいがっていた雀の子を、召使いで遊び相手でもある犬君(いぬき)が逃がしてしまったと残念がるくだりが出てくる。
ゴッシーの面前で行われたヒヨドリをめぐる一大イベント
雀と並んで人気があったのがヒヨドリだ。我が子のように各個体に名前をつけてかわいがっていたという。鎌倉時代に編纂された『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、ゴッシーこと後白河法皇の前で大規模な「鵯合(ひよどりあわせ)」と呼ばれるイベントが行われた様子が書かれている。これは左右に分かれて持参したヒヨドリを披露し、その鳴き声を競い合うというものであったようだ。
芸達者な野鳥たち
現代でも鸚鵡(オウム)やインコ、九官鳥に言葉や芸を教えることは珍しくないが、ヤマガラという鳥をご存じだろうか? とても賢くて人懐こい野鳥で、昔は神社の祭礼などの際におみくじ引きや鐘つき、かるたとりなどの芸を見せていたという。ヤマガラに芸を教え込むようになったのは鎌倉時代なのだそうだ。
さらに時代が下り、室町時代には鶯(ウグイス)を飼って歌を仕込んだり、野鳥の捕獲や売買が盛んに行われるようになった。野鳥を捕る人々または職業は「鳥刺(とりさし)」と呼ばれた。先端にトリモチのついた長い竿に小鳥をくっつけて捕まえるのだ。当時は法律による規制はなかったため、野鳥を捕獲してもとがめられることはなかった。
江戸時代には空前の「飼い鳥」ブーム到来 葛飾北斎も描いた文鳥
小鳥を愛し、かわいがることを「飼い鳥(かいどり)」というが、「飼い鳥」の文化は江戸時代になって大きく花開いた。徳川家康はじめ歴代の将軍が鷹狩りを好んだこともあって、鷹のエサとなる鳥を捕まえる専門の職業集団も生まれ、ニーズに応じて鳥を安定供給するための「鳥屋」も整備された。幕末には最大で60軒もの鳥屋が江戸に存在したという。
江戸時代の日本は多くの国との交流はしていなかったが、海外から多くの鳥が輸入された。九官鳥やカナリア、そして文鳥も元をただせば国外産である。文鳥の原産地はインドネシアのジャワ島。英名をJavaSparrow(ジャワの雀)といい、江戸時代の初期、寛永年間(1624~1645年)に日本にやってきたとされる。中には「十姉妹(ジュウシマツ)」のように中国産のコシジロキンパラという鳥を日本国内で改良したとされる鳥も登場した。
大名家で飼われていた鳥たちはやがて城外へと持ち出され、庶民の間にも飼い鳥が広まっていった。それにはきっと弥富に文鳥をもたらした八重のような武家屋敷に奉公していた女性たちも介在していたことだろう。また国内での繁殖の成功により、庶民の手が届く値段で鳥屋で販売されるようになったということもある。また、鳥の品種改良も盛んに行われた。その背景には、享和3(1803)年に現在の兵庫県養父(やぶ)市の庄屋であった上垣守国によって著された養蚕の研究書である『養蚕秘録』に書かれているような蚕の育種や品種改良技術の応用があったと考えられている。
飼い鳥が盛んだったのは、上方(かみがた)よりも江戸だったという。鳥オタクのネットワークが多数あり、珍しい鳥を飼育して互いに自慢し合っていたらしい。鳥を描いた美しい図譜や飼育書なども多数残されている。
スーパー鳥オタクだった曲亭馬琴
鳥オタクの中でも群を抜いていたのは、『南総里見八犬伝』をはじめとする数多くの長編小説を書いた曲亭馬琴(きょくていばきん)である。最大で100羽以上の鳥を飼っていた時期もあるようで、特にカナリアには思い入れが深かったらしい。また、『八犬伝』の成功で多くの読者を獲得することに成功した彼は「禽鏡(きんきょう)」という鳥類図鑑を編集。娘婿の渥美赫州(あつみ かくしゅう)に鳥の絵を描かせ、自らは本名の瀧澤解(たきざわとく)の名前で鳥についての解説を加えている。
文鳥の繁殖や出荷を担っていた「弥富文鳥組合」
弥富文鳥の歴史を今に伝える大島静雄さん
こうした飼い鳥ブームは大政奉還を経て明治時代になっても変わらなかった。現在は鳥獣保護法などでみだりに野鳥を捕獲することは禁じられているが、花鳥風月という言葉が示すように日本人の美意識における鳥の存在は大きい。弥富の白文鳥もこうした流れの中で生まれてきた。文豪・夏目漱石の短編小説『文鳥』に登場する白文鳥は弥富産だったかもしれない。
弥富で特に文鳥の繁殖が盛んになったのは昭和34(1959)年の伊勢湾台風以降。農家の副業として行われるようになった。昭和48(1973)年には250戸もの生産農家があり、一軒で1000羽飼育する農家が15軒(全体の6%)もあったという。弥富の白文鳥のことを教えてくださったえみこさん(弥富市在住)に案内していただき、かつて「弥富文鳥組合」の組合長を務めておられた大島静雄さんに話を聞いた。
「文鳥は卵を産んで、雛を人が育てることで、よくなつきます。かわいがって互いに心を通わせることが情操教育に良いとされ、日本中に文鳥の飼育が広まりました。文鳥の雌雄の見分け方は難しいが、シャビシャビとよくさえずるのがオス。メスはチッチッと鳴くだけ。夏から雄雌を娶(めあわ)せる。精力をつけるために白米に卵の黄身をぶっかけてかきまわし、トロトロにしたものを天日で干すとパラパラになるから、それを食べさせます。鳥かごにワラの巣を入れると文鳥は卵を産んであたためます。卵を産んでから約20日で孵化する。雛を育てる時は菜っ葉を刻んで食べさせます。村中が文鳥に食べさせる菜の花で一面黄色に染まりました」
大島さんの口からは次から次へとまるで昨日のことのように文鳥飼育の話が出てくる。すばらしい記憶力。まさに弥富の生き字引だ。
文鳥が消えた理由
戦争中はエサがなくなり、逃がしてやることもできずに文鳥たちは死んでいった。戦後、生き残った文鳥たちを繁殖させ、第二次文鳥ブームが起こった。しかし、昭和50(1975)年ごろをピークに文鳥農家は減少し続け、現在はわずか2軒を残すのみである。
「なぜ、文鳥は弥富から消えてしまったのでしょうか?」と、大島さんに聞いてみた。すると「生産農家が高齢化して後継者がいなくなったこと。そして核家族が増えるなど、生活のスタイルが変わってきたことが大きいと思います。昔、文鳥たちを育てるのは子どもたちの役割でした。しかし、今では学校のほかに塾やスポーツ教室、習い事と、子どもたちの生活も大変忙しくなりました。また遊びも変化してパソコンやゲームが主流になり、文鳥の飼育など手間のかかることは敬遠される傾向になりました」という答えが返って来た。
これに追い打ちをかけたのが、平成に入ってからの鳥インフルエンザの流行である。鳥インフルエンザウイルスを媒介する可能性があると考えられるのは野鳥であり、家庭でペットとして屋内で飼育している鳥が感染する可能性は極めて低いとされる。にもかかわらず、風評被害によって文鳥の飼育も大きな打撃を受けた。
平成21(2009)年6月、大島さんは自ら組合長を務めていた「弥富文鳥組合」の幕を下ろした。しかし、白文鳥発祥の地としての誇りを胸に、ふるさとの産業振興のために末長く文鳥村のことを語り継いでいきたいと語る。この7月には新しい本を出版すると、意気盛んな96歳だ。
弥富文鳥の復活をめざす「佐屋高校文鳥プロジェクト」
文鳥の飼育から繁殖まで、先輩から後輩へ引き継がれていく文鳥愛
最後に「佐屋高校文鳥プロジェクト」の活動について紹介しよう。
愛知県立佐屋高校は弥富市のお隣、愛西市にあり、初めて弥富に文鳥が伝わったとされる又八地区とは目と鼻の先だ。農業科と家庭科を併設しており、愛西市はもとより弥富市から通学している生徒も多い。農業科には園芸科学科と生物生産科があり、生物生産科のアニマルコースを専攻している生徒たちの有志で「佐屋高校文鳥プロジェクト」(顧問:鵜飼幸輝[うかい こうき]先生)が組織され、現在10名が弥富文鳥の復活を目指して活動中である。
文鳥プロジェクトが同校に発足したのは9年前。平成21(2009)年に「弥富文鳥組合」がなくなったことは前に述べたが、この時、残った文鳥が佐屋高校に寄付された。当時在学していた生徒の祖父が文鳥農家だったこともあり、「消えていく弥富の文鳥文化をなんとかしたい」と、わずかに残った文鳥繁殖農家の協力を得て同プロジェクトが発足した。
取材に行くと全員が笑顔で出迎えてくれた。まず、案内してくれたのは文鳥の繁殖部屋。ペアの文鳥たちのケージが並んでおり、壁には先輩たちから受け継いできた飼育マニュアルなどが貼られている。文鳥は気の強い鳥なので、ペアリングはなかなか難しい。最初は一羽ずつゲージに入れて隣同士に置いて、慎重に様子を見る。相性が良さそうだと判断したら同じゲージに入れるが、中にはつつき合ったりする場合もあるので、そうなったらすぐに離すなどして、文鳥同士の距離感を保つことが大事だとのこと。
文鳥たちの繁殖時期は夏から翌年の春ごろ(換羽期に入る直前ぐらい)までだそう。本来、白文鳥は突然変異で生まれたため、白文鳥どうしの繁殖だと体の弱い子どもが生まれてくる確率が高く、桜文鳥と掛け合わせることで白文鳥を作出する。
平成29(2017)年10月に初めての繁殖に成功。これまで約100羽もの文鳥の子どもたちが同校から巣立っていった。繁殖などの情報はTwitterで随時発信し、譲渡希望者には学校に連絡した後、取りに来てもらって販売している。
続いて愛玩用の文鳥部屋へ。長靴に履き替え、消毒して雑菌やウイルスを動物たちの小屋に持ち込まないように注意する。愛玩用の文鳥たちは文鳥イベントでの人気もの。人とのふれあいを目的に雛のうちから育てられているので、手乗りにも慣れている。
同プロジェクトの皆さんにどうして活動に参加するようになったのか聞いてみた。
部長で3年生の平川実奈(ひらかわ みな)さん「毎朝学校に早く来ていて、先生に誘われて入部しました。それまで文鳥について何も知らず、鳥を飼ったこともなかったのですが、初めて触れた文鳥はフワフワで、温かくて、とてもかわいかったですね。コロナが落ち着いたら、小鳥フェスタなど地元の鳥好きの人が集まるイベントなどに出て、手乗り文鳥の愛らしさをたくさんの人に伝えたいです」
メンバーの中で一番在籍日数の長い佐藤叶羽(さとう かのは)さん(3年生)「文鳥プロジェクトの発表を見て、とても気になって自分もやってみたいと思いました。弥富の文鳥文化を未来に伝えていきたいと思います」
唯一の男子メンバー・荒木陽向(あらき ひなた)君(3年生)「文鳥プロジェクトに興味があったし、就職に生かせる活動だと思って参加しました」
このほか、「生き物が好きだが家では飼えない。ブリーディングに興味があった」「友達に誘われて入部、イベントなどにも参加できて楽しい」「鳥が好きでテレビで文鳥プロジェクトのことを知って、佐屋高校に入学した」と話してくれたメンバーもいた。文鳥の世話や触れ合いは、メンバーたちにとって大きな楽しみとなっているようだ。何より、みんな明るい。そして目的意識がとてもはっきりしている。生き物の飼育は決して楽ではない。生ばかりではなく、時には死と向き合わなくてはならないだろう。体は小さくてもそこにいるのは紛れもない一つの命。弥富文鳥の遺伝子を宿した貴重な個体は、高校生たちの手で、次世代へと受け継がれていく。
プロジェクトの成果を競う「愛知県学校農業クラブ連盟」の発表会で、「佐屋高校文鳥プロジェクト」は最優秀賞を受賞
日本中の農業高校が加盟する「日本学校農業クラブ連盟」という組織がある。東海地方では愛知・三重・岐阜の農業高校が集まって「東海ブロック学校農業クラブ連盟」という組織をつくり、さらにその下に各県の農業クラブ連盟が存在する。「佐屋高校文鳥プロジェクト」では東海ブロックのプロジェクト発表会で2位に輝いた実績があり、昨年は「愛知県学校農業クラブ連盟」のプロジェクト発表会で最優秀賞を受賞している。
これらはすべてプロジェクトメンバーたちの日頃の努力の成果だ。この4月から同プロジェクトの顧問になった鵜飼先生は「プロジェクト関連の活動は教員が先頭に立って動くことが多いのですが、佐屋高校の場合は本当に生徒が主体的に動きますし、ここまで自分たちだけで自立した活動ができるのはすばらしいことだと思います」と語る。
未来にはばたけ! 弥富の文鳥
文鳥プロジェクトが有名になるにつれ、地元のお店からオファーが来るようになった。佐屋高校にほど近いパン屋「Boulangerie Akira(ブランジュリーアキラ)」では、同高校とのコラボによる「文鳥パン・トリトッツォ」を販売。
また、ある洋菓子店とはお土産用に長期保存可能な焼き菓子の販売を計画中だという。
このほか、弥富市の「ももの木」という洋菓子店では、白文鳥発祥の地という歴史にちなみ、「文鳥の里」、「ぶんちょうたまご」というお菓子を販売している。
また同市にある「鈴木紙工所」では同社の精密な紙の切断技術を生かして、同市を訪れた時のお土産にと、文鳥の栞などを作成している。
いったんは途絶えそうになっていた文鳥の伝統が少しずつではあるが、復活の兆しを見せている。ぜひ、金魚ともども弥富の看板として、大きく未来にはばたいていってほしいものだ。
【取材協力・資料提供】
佐屋高校文鳥プロジェクトの皆さん
「弥富市歴史民俗資料館」弥富市前ケ須町野方731 TEL:0567.65.4355 9:00~16:30
※同資料館には「弥富文鳥マップ」がある。
大島静雄さん
水野恵美子さん
【参考文献】
奥野卓司著 『現代日本文化としての「鳥と人間の関係」に関する一考察 』 関西学院大学社会学部紀要
細川博昭著 『鳥と人、交わりの文化誌』春秋社
『弥富町史 通史編』