「もしドラえもんのタイムマシンがあったら、どの時代に行ってみたいですか?」
文明開化の象徴である明治時代?それとも、幕府下の鎖国政策によりある程度の平和が保たれていたとされる江戸時代?豊臣秀吉が天下をとった安土桃山時代も何となく良さそう……。
それから、空には車が飛び交い、機械翻訳が完全に“ほんやくコンニャク”化し、世界中のあらゆる人々との会話が可能となっているであろう、今よりもずっと技術的に進んだ22世紀の未来もまた選択肢のひとつとしてはアリだろう。
選ぶ道はきっと人それぞれだが、学生時代に英語で苦労した人、もしくは現在進行形で苦労している人であれば、この記事を読み終えた後、きっと江戸時代と答えるかもしれない。
幕末に英語研究が本格化し、英語学習ブームに
まず、日本における英語研究の歴史は、江戸幕府が創設されて間もない慶長5(1600)年に遡る。ちょうどその頃、後に徳川幕府の外交顧問として「三浦按針(あんじん)」の名のもとで徳川幕府の外交顧問として仕えることになるウィリアム・アダムズ(William Adams)がオランダ商船のリーフデ号に乗って日本に漂着。と同時に、英語研究の門戸を叩いた。
慶長5年と言えば、日本では関ケ原で天下分け目の決戦が展開されていた時期とちょうど重なるようだが、厳密に言うとウィリアム・アダムズの来日は関ケ原の戦いが展開される直前の出来事である。
長崎の平戸にはウィリアム・アダムズのためにイギリス商館も開設された。が、江戸幕府のもとでの英語研究は好調な滑り出しを切ったわけではなかった。
当時はイギリスよりもオランダの方が日本にとってはるかに重要な通商相手と考えられていたこともあって、彼の死後三年にして商館は閉鎖され、日英関係は断絶する。そして、寛永十二(一六三九)年のポルトガル船来航禁止令をもって、日本は完全な鎖国状態に突入する。日本人がはじめて英語学習に目覚めるのは、その一七〇年後である。
(斎藤兆史『日本人と英語-もうひとつの英語百年史』)
そんななか、鎖国下の日本に転機となり得る出来事が起こる。文化5(1808)年に起きたフェートン号事件だ。
この出来事をきっかけに通詞(いわゆる、通訳)の語学力の低さを痛感した江戸幕府は、オランダ通詞に対し英語とロシア語の修学を命じた。
その後、日本国内において英語研究が勃興したわけであるが、さらにペリー来航後に開国へと踏み切ったことで、欧米人が続々来日。これらの出来事が重なり、日本国内は貿易・外交上の英語の必要性から英語学習ムードに包まれた。来日した英米の外交官や宣教師、ジャーナリストは英語を話せない日本人を日本語教師として日本語を習得した一方、日本語研究の傍ら、一般の日本人向けの英語の教科書も多数生み出した。
通詞らが日本初の英語の教科書を作成
まず、幕末の英語学習の受容と相まって登場した英語の教材には以下の類のものが含まれた。
・英語教科書(スペリングブック、リーダー、グラマー、カンバセーションなど)
・英語教科書の自習書(例. 『○○直訳』『○○独案内』『○○単語篇』)
・専門教科の英文テキスト(例. 『Universal History』)
・専門教科の英文テキストの翻訳書(例. 『Universal History』の翻訳書)
・英和辞典・和英辞典
英語教科書は外国人の作ったものを翻刻して利用することが多かったが、中には、外国人が日本語を学習するために作ったもの(外国資料)を、逆に日本人がテキストに利用したものもある。
(飛田良文『東京語成立史の歴史』)
ここで、筆者の中高時代を振り返るとしよう。と言っても、かれこれ20年ほど前のことなので記憶は定かではないが、確かグラマー、オーラルコミュニケーション、リーディングあたりの本を英語の授業で使用していた……はずだ。さらに、英語のスペルについてはリーディングやグラマーの授業の中で習得することはあっても、スペリング用の教科書というのはなく、あえてスペリング向けの授業が設けられることもなかった。これは江戸と現代の英語の授業に見る決定的な違いではないだろうか。
そして、以下は幕末の英語学習の黎明期に登場した日本初の英語の教科書である。(いずれも、当時国を仕切っていた江戸幕府による要請のもと、通詞によって作成されたもので、事実上の英語の教科書である)。
・諳厄利亜言語和解(あんげりあごんごわげ):日本最古の英語テキスト
・諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん):日本最古の英単語帳
・諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい):日本最古の英和辞書
『諳厄利亜言語和解』『諳厄利亜興学小筌』および『諳厄利亜語林大成』は、オランダ語や英語で書かれた対訳形式の語学書を日本語で翻訳したものである。例えば『諳厄利亜言語和解』はオランダ人のための英語学習書として出回っていた『Edward Evans A New Complete English and Dutch Grammar』の第2版以降を元に作成したものと見られる。
通詞らは「未知の言語に対して戸惑いを示している人々のために何とかせねば……」と危機感に駆られていたのだろう。要請が出てからわずか数年で仕上げた後、江戸幕府へ献上した。が、最終的にはいずれの教材も出版されることなく、写本という形でごく一部の通詞によって使用されたのみであった。
ちなみに、『諳厄利亜言語和解』は全3巻から成る英語テキストであるが、そのうち第3巻は全419語が収録された単語帳となっていた。当初、東京帝国大学(現在の東京大学)の図書館に所蔵されていたが、大正12(1923)年に発生した関東大震災で焼失してしまったため、『諳厄利亜興学小筌』が現存する日本最古の英単語帳である。(なお、『諳厄利亜興学小筌』は短い英語会話文も収録。英語テキストとしても使用されていた)。
日本初の英語文法書も登場
英語黎明期における以上の英語の教科書の登場から数十年後の時を経た天保11(1840)年。英文法は飛躍的に進歩し、日本初の『英文鑑(えいぶんかん)』も登場した。
開国から大政奉還までの14年間はまさに蘭学から英学への移行期であった。英語を学ぶ目的も単に「国防のため」ではなく、「積極的に西洋の文化や知識を吸収するため」へと変化していったと同時に、庶民の間でも英語学習に勤しむ人々が続出。その間、幕府管轄および民間の組織のもとで、合計15冊の単語帳が編纂された。
江戸時代における英語学習のココに注目!
基本的にローマ字読みで英語を習得
江戸時代にはすでに、オランダ通詞や唐通事のもとでオランダ語や中国語の研究が進められていたが、その影響は当時の英語の教科書からも読み取れる。その英語の教科書に記載された発音表記は現代とはかけ離れたものだが、当時のオランダ語に倣って表記されたものとされている。ちなみに、太陽を意味する「sun」の読みが「サン」ではなく「シュン」となっているのは興味深い。
weather(ウェードル/天気)、the(デ)、creature(ケレーテル/天地造物)、sun set(シュンセット/日没)、sun rise up(シュン・レイス・ヲップ/日出)、half moon(ハフムーン/半月)、flash of lighting(フレス・ヲフ・レイトニング/電光)、freeze(フリース/霜)、exhalation(エキセレーシン/蒸気)
英語を勉強し始めた中学生の頃、ヘボン式ローマ字読みでブツブツ呟きながら英単語を覚えたという人も少なくないはず。上記を参照する限り、おおよそその通りの読みとなっているのが分かる。
では、実際に江戸時代に使用されていた教科書を用いて英語レッスンを体験してみよう。
(以下は『諳厄利亜言語和解』第1巻の「天気」部門に収められた文例の一部である)。
How is the weather ? :天気は如何なるか。
(ホウ イズ デ ウェードル)
What weather is it ? :如何なる天気ぞ。
(ウァット ウェードル イズ イット)
It is very good weather. :好き天気なり。
(イット イズ グード ウェードル)
It is fine weather. :麗なる天気なり。
(イット イズ ファイン ウェードル)
It does’nt(※)blow at all. :少しも風吹事なし。
(イット ドラースンド ブロー アット ヲール)
It is quite calm. :全く静なり。
(イット イズ クウェイト カーム)
※この箇所は、通詞による誤写と見られる。
日常生活に必要な英語表現を習得
例えば『諳厄利亜言語和解』の第1巻の場合、「天気」「逍遥」「時刻」「通語」「思慮」「言辞」「作為」の7つのセクションによって構成されており、各セクションには対話形式で英語と日本語が交互に記されている。こうして、江戸の人々は日常生活に必要な英語表現を学べるようになっていた。
教科書を通じて日常生活に必要な英語表現を学ぶ……それは当たり前のことと思うかもしれない。残念ながら、その当たり前が通用しないのが現代の英語教科書だ。現代の英語教科書で取り上げられる例文をめぐっては英語教育者の間でも問題視されることが多いが、こんなフレーズを見たことがあるという人は多いことだろう。
This is a pen.(これはペンです)
This is a desk.(これはデスクです)
今の世代は「This is a pen」で始まらないとも聞くが、多くの世代にとって英語を学び始めの時に出てくるフレーズと言えばコレではないだろうか。
あるいは、こんなパターンもあったかもしれない。
Is this a pen ?(これはペンですか)
No, it isn’t. It’s an apple.(いいえ、それはりんごです)
普通に考えれば、ペンかデスクか分かるはずなのに、あえて口頭で尋ねるのもおかしな話である。また、ペンとリンゴの文脈にせよ、右手にペン、そして左手にリンゴを持ち、両者を合体させて「ペンパイナッポーアッポーペン」と叫ぶピコ太郎じゃあるまいし。少なくとも日常生活においてこのような会話シーンなどあり得ない。
第二言語習得領域における主要理論のひとつに、ガードナー・ランバート(1972)がある。人は「社会的地位を得たい」とか「試験に合格したい」とかいった実利的な動機と結びついていれば、自ずと学習意欲が湧き、結果的に習熟度にも繋がる。それが彼らによって提唱される理論だ。現代の英語の教科書だと上記で挙げた例文を見る限り、実用とは程遠いものであるがゆえに、学習の動機が薄れ、その結果学習の成果へと結びつかない。その点、江戸時代の教科書は「英語を使いこなしたい」という学習者の心理に即した教材であると言える。そして、江戸の人々はこの教材を用いて英語力を伸ばしていったのだろう。
漢学や蘭学時代に倣って素読を採用
現代の中学や高校の英語の授業で展開されるスタイルと言えば、教科書をベースに、文法を説明し、英語を解釈し、日本語に訳すという「文法訳読式」のパターンだ。英語を話せない現代の日本人を生み出した元凶とも言われるが、実はこの「文法訳読式」、元を辿れば漢学の時代に採用されていた「素読」がベースとなっており、その後蘭学や英学の時代を経て変貌を遂げ、現在に至る。ちなみに、素読とはどのような学習法を指したのであろうか。
素読:文書の意味・内容はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。
(岩波書店『広辞苑 第7版』)
つまり、素読とは中国古代の古典に対し、意味を理解することなく、声に出して暗唱する方法のことであった。一見「音読」と同義にも思えるが、その目的はあくまでも声に出して繰り返すことで暗記することにあった。こうして、人々は中国語のリズムや抑揚を身体で覚えていったのである。
その素読は、後に蘭学や英学でも採用された。ちなみに、英語の素読の方法として漢文訓読法を採用したのは、中浜万次郎の『英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)』が初であると言われている。ただし、漢文学習における素読と、蘭学や英学の素読とは若干違いが見られた。そもそも、オランダ語や英語の場合、訓読みができず、また言語体系も大きく異なるわけで……。
漢文学習における素読の目的が「何度も読んで暗唱する」ことであったのに対し、蘭学では「内容を解釈する=翻訳する」ために素読が行われた。漢学の時代には文法という概念が存在しなかったがゆえに、何度も暗唱することで身体で覚えていかなければならないという事情があったわけだが、蘭学後期において文法研究が発展したことで、「暗唱のための素読」から「解釈の方法を習得するための素読」へと切り替わっていった。
そして、一字一字に訳をつけるという逐語的な素読を重視したひとりが福沢諭吉である。後に、福沢が開校した慶應義塾などの私塾でもその素読が採用された。
近年では、英語をそのまま声に出して読むという、江戸時代回帰と言わんばかりの「音読」が見直されつつある。ただし、最新の英語の授業で採用されつつあるのはあくまでも「音読」。江戸時代の漢学・蘭学・英学時代の「素読」とは声に出して反復・暗唱するという点では共通しているものの、両者は全く同一というわけではない。
ズバリ!英語上達の秘訣とは?
現在第2シリーズが放送中であるが、平成17(2005)年に放送されたTBS系ドラマ『ドラゴン桜』の第6話は、英語上達に纏わるエッセンスが満載だ。以下は弁護士の桜木建二(阿部寛)が英語教師の井野(長谷川京子)や東大進学のための特進クラスの英語教師に抜擢された川口先生(金田明夫)とパブで会話しているシーンである。
川口:フィリピンパブで使う英語は東大英作文に実に役立つんです。あなた、英語の先生?なら、当然英語を話せますよね。
井野:え!そりゃ、ベラベラっていうわけにはいきませんけど。
川口:ダメダメ、そのスタンスがダメ。硬すぎ。そういう硬い先生が教えると、生徒も英語に対して硬くなる。殻が出来る。面白さを感じられない。出来ない。やらない。最悪のデフレスパイラル。
以下、同じく6話における特別進学クラスの教室での生徒同士の会話シーン。
川口:君はローラースケートできる?
矢島:うん、滑るだけなら。
川口:水野さん、あんた水泳できる?
水野:25メートルぐらいなら平泳ぎで。
川口:みんな運動ならちょっとできると、できるって言うんだよ。どうして英語だとできるって言わないんだろ。日本人は不思議なことにね、外国語になると途端に完全主義者になってしまう。例えば英語が得意なはずの英語の先生ですら、自分の英語力にコンプレックスを持っていたりする。外国人とネイティブな発音でベラベラと会話できないと英語できます!と胸を張れないと思っている。それに引き換え、うーん例えばアメリカ人に日本語できるか?と聞くと、「イエース!スシ!ニンジャ!カラオケ!セントー」、とどうだ!すげーだろってな顔をしてくる。
緒方:分かった。要はさ、気の持ちようってこと?
川口:そうなんだよ。だから、堂々と君たちも胸を張って「English is my second language. Oh you are very pretty!(日本語訳:英語は僕の第二外国語さ!!オー。君超かわいい!!)、どんどん開き直って英語を使えばいいんだ。言葉っていうのは使えば使うほど身に付くんだから。
要は、「とにかく英語を喋って喋って喋りまくれ!」というのが、『ドラゴン桜』に見る英語上達のスタンスであるわけだが、そのような英語に対する姿勢は江戸の人々の間でも垣間見ることができる。以下、「洋犬」の読みの成立をめぐるエピソードを参照してみよう。
かめ:洋犬のこと、新聞雑誌にも「洋犬(かめ)」と書いた、西洋人が飼犬を連れて散歩の際、カム(来れ)と云ったのを、洋犬の名と誤解したのが起り
(宮武外骨(※)『明治新聞』第3篇 大正14年)
※宮武外骨(みやたけがいこつ)は生前、江戸明治期の世相風俗研究家としても活躍した。
当時、江戸の人々にとって英語は未知の言語であった。そして、異国人が飼い犬に向かって「Come here!」と話しかけているのを「カメ」と聞き誤り、あまり聞き慣れないその単語を面白がって連呼していた。すると、その言葉は流行し、「洋犬(かめ)」という言葉が新聞雑誌に採用されるに至った。それは外国人が「スシ!スシ!」と連呼することで、いつの間にか「sushi」として英語の語彙体系へと取り込まれていった過程に類似しているようにも思われるのだ。
以上から読み解くと、とにかく江戸の町では英語を積極的に話そうという風潮にあった。『ドラゴン桜』によって示唆されるように、「正確に話さなければならない」という英文法の呪縛に囚われるがあまり、外国人を前に怖気ずく現代の日本人とは決定的に違っていたはずだ。そして、そんな江戸には英語上達のエッセンスがギュッと詰まっていた。
もしかすると英文法の呪縛がなく、大学受験とは無縁であった江戸時代は、多くの日本人にとって英語を学びやすい環境であったのかもしれない。
(主要参考文献)
『英語教育の危機』鳥飼玖美子 筑摩書房 2018年
『日本人と英語:もうひとつの英語百年史』斎藤兆史 研究社 2007年
『東京語成立史の研究』飛田良文 東京堂出版 1992年
「日本最初期英語研究書の依拠資料と編集」田野村忠温『待兼山論叢 文化動態論篇(51)』大阪大学 2017年
「訳読・音読へと続く「素読」の歴史的変遷」平賀優子『慶應義塾外国語教育研究 (11)』慶應義塾大学外国語教育研究センター 2014年