私は一日のなかで、緑茶やコーヒーを飲むひとときが大好きです。お茶うけに何を食べるかを考えるのも、楽しみの一つ。旅先では、その地域に伝わるお菓子は、必ずと言っていいほど購入します。
関西人の私が子どもの頃から慣れ親しんできたお菓子に、おこしがあります。これが、なんと日本最古のお菓子と伝えられていると知りました。まさか、そんな歴史のあるお菓子だったとは! これは、気になる! 探ってみることにしました!
日本最古のお菓子・おこしとは
おこしとは、蒸して乾燥させたお米や粟を水飴や砂糖でかためたお菓子のことです。弥生時代の遺跡から出土した、ほしいい※1がおこしの原型なのでは? という説もあります。また、奈良時代に遣唐使が伝えた唐菓子の一つとも言われ、いずれにしても長い年月の間親しまれてきたお菓子のようです。
平安時代の書物『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』※2には、公卿の藤原忠通(ふじわらただみち)が正月に口にしたと記載されています。この時、おこしは「おこしごめ」と呼ばれていました。口元にあてて握り砕いたところ、衣の上にぱらぱらとふりかかったのを払う様子が、何とも優雅だったとか。雅な平安貴族たちに、愛されていたようですね。
江戸時代の蔵屋敷で誕生した大坂名物・おこし
江戸時代になると各地でおこしが作られるようになり、一般庶民にも馴染みのあるお菓子へと変わっていきます。「粟おこし」は大坂名物として知られるようになりますが、これは大坂商人の創意工夫があったからのようです。
創業200年になる株式会社あみだ池大黒は、創業時よりおこしを作り続けています。文化7(1810)年、菓子職人だった初代小林林之助(こばやしりんのすけ)は、おこしの製造販売を始めます。お米にちなんで大黒天※1から「大黒」を屋号としました。天保4(1833)年には、長堀川沿いあみだ池近くに製造所を併設した店舗を構えます。
当時の大坂は日本経済の中心地で、大坂から江戸間を菱垣廻船(ひがきかいせん)※2が航行していました。整備された水路には、各藩の屋敷へ年貢米を運ぶ千石船(せんごくぶね)が行き交い、水の都として賑わっていました。そのため、諸国大名や旗本は大坂に屋敷を設けて、年貢米や特産物販売の拠点としたのです。蔵が建ち並ぶ様子から、「蔵屋敷」と呼ばれ、堂島・中之島・土佐堀を中心に百軒を超える数だったと言います。
天下の台所だった大坂には、良質なお米が多く集まっていました。林之助はそこに目を付け、お米でおこしを作ることを思いつきます。粟おこしは、その名の通り、粟やはとむぎなどを原料として作られていました。当時貴重だったお米を原料にするのは、画期的でした。お米をあえて細かく砕いて粟のような形状にしたお米の粟おこしは、大坂名物として評判になります。
岩おこしは大坂人の遊び心が発端
粟おこしと共に関西人にとって懐かしい味である岩おこしは、お笑いの街である大坂のしゃれっ気が誕生の秘密のようです。
江戸時代中期の大坂の街では、運河を作るための工事で、岩がごろごろと掘り出されていました。その様子を元にして、しゃれで「岩おこし」とネーミングしたのです。お米をより細かく砕いて形作り、しょうがを入れた独特の堅いおこしは、人気を博します。そして大坂の発展を象徴する縁起の良いお菓子として、大ヒット商品に。しょうがの辛みが印象的ですが、これは江戸時代から変わらない味です。
一方江戸では「雷おこし」が誕生し、浅草寺参りのみやげとして知られるようになります。江戸では、大坂で人気となった堅いおこしは、好みの違いなのか販売されなかったようです。また大坂では板状のおこし、江戸では団子状と、形状も異なっています。
日露戦争時、切腹覚悟で「恩賜のおこし」を生産
明治32(1899)年、三代目を小林利昌が襲名します。日露戦争が起こると、明治天皇より戦地への慰問品として贈られる「恩賜のお菓子(おんしのおかし)」に、あみだ池大黒の粟おこしが選ばれます。とても名誉なことですが、注文量が35万箱と大量な上に、納期がたったの3か月。あまりのタイトな作業に、他に名乗り出る者はいなかったそうです。
「陛下のご用命を受けられぬとは大阪商人の恥」と、利昌夫妻は刀を床の間に置き、切腹覚悟の白装束で、不眠不休の生産に励みました。社員や親類縁者総出の体制で、遂に納期内に納めることに成功。当時は全て手作業だったことを考えると、どれだけ大変な作業だったのかが想像できます。
戦地で菊の紋章入りのおこしを受け取った兵隊たちは感激して、食べようとはせずに、皆故郷へ持ち帰ろうとしました。そして戦地から戻り、故郷の家族や大切な人と共におこしを味わったそうです。兵隊は日本全国から集められていたため、おこし人気が全国に広がるきっかけとなったようです。
受注に伝書鳩が大活躍!
大正11(1922)年には、小林利重が四代目を襲名します。不眠不休で恩賜のおこしを生産した経験から、量産可能なシステムが急務と考えて、近代工場を建設。順調に売り上げを伸ばしていきます。
昭和の初め頃、毎年秋に観艦式(かんかんしき)※が行われ、大阪湾に300隻あまりの連合艦隊が寄港していました。この時利重は、奇想天外な商売を展開します。艦隊の大阪湾滞在はわずか3日から5日ほど。停泊期間中に300隻を訪問、受注、納品は至難の技です。そこで考え出されたのが、伝書鳩を使う方法です。伝書鳩を十数羽ずつバスケットに入れて高速艇で各艦を巡って注文を取り、その注文書を鳩の足にくくりつけた後、放って伝達をさせたのです。びっくりするような実話ですが、利重が動物好きで大型犬や鶏などと共に、伝書鳩を飼って訓練していたからできた離れ業でした。当時は新聞業界など情報伝達に伝書鳩が使われていたようですが、商売で使った人は、おそらく他にはいなかったのではないでしょうか。
この伝書鳩作戦が縁となって、戦時中は軍の携帯食料の生産・納品を請けおいます。しかし、昭和20(1945)年大阪空襲によって、店舗や工場は全焼。壊滅的な被害を受けてしまいます。
進化したおこしが注目
戦争の影響は大きく、米や砂糖などの原料が入手困難となり、自粛休業を余儀なくされます。その後、協力者のバックアップもあって再建し、昭和45(1970)年には大阪千里万国博覧会に出店など活発に活動します。平成7(1995)年には阪神淡路大震災と、再び苦難に遭いながらも、あみだ池大黒は、おこしを作り続けてきました。創業者から続くチャレンジ精神は、大阪に根付く商人のど根性とプライドなのかもしれません。おこしという世間に認知されたお菓子がありながら、新商品の開発に力を注いでいるのも特徴です。
カラフルなパッケージに入った『pon pon Ja pon・ポンポンジャポン』は、ミニサイズの丸い形の進化したおこしです。軽い食感と、木苺チーズケーキ味や、カレー味などバラエティに富んだ味わいが若い女性を中心に人気を集めています。
「柔らかいおこしが食べたい」というお客さんのニーズにこたえて、マシュマロが入ったユニークな商品も販売しています。『マシュー&クリスピー』は、アメリカの家庭の味であるマシュマロとライスクリスピーを合わせたお菓子をヒントに開発されました。可愛いデコレーションが施されていて、しっとりとした食感で、まるでミニケーキのよう。
進化したおこしを購入した若い年代のお客さんが、親から昔ながらのおこしの話を聞くという現象も起きているようです。
古くから続くおこしと、どんどん進化していくおこし。大阪へ立ち寄ったら、是非どちらも体験して欲しいですね。
あみだ池大黒公式ウェブサイト:https://www.daikoku.ne.jp/
参考文献:『あみだ池 大黒社史』、『事典 和菓子の世界 増補改訂版』中山圭子著 岩波書店