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2021.06.11

失敗したもう一つの「江戸開城」。和平交渉で何が起きなかったか

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戊辰戦争の江戸開城といえば、歴史に残る美談ですよね。その立役者は勝海舟と西郷隆盛、どちらも人気の高いキャラクターです。江戸開城にまつわる歴史的事実として知られていることは、ドラマや小説でも概ね踏襲されています。

ただし、本来なら主役は別な人たちがつとめるはずでしたし、もっとスンナリ決着がついて、上野戦争は起きなかったかもしれません。より良い結末を迎えるシナリオがありながら、筋書きどおりに行かなかったのです。今回の「なにが起きなかったか」は、江戸開城交渉の途中で頓挫した、本来の筋書きを御披露します。

徳川慶喜を討て

慶応4年(明治元年)1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが始まりました。圧倒的戦力を有した旧幕府軍、少ないながら健闘した新政府軍、双方ともに重大なミスをおかしながら初日の戦況は拮抗していました。翌4日、新政府軍が本営に錦旗を掲げると、新政府側に追い風が吹き始め、5日に錦旗を捧持した仁和寺宮嘉彰親王(のちの小松宮彰仁親王)が最前線まで視察に出たことで旧幕府軍は動揺、6日には徳川慶喜が大坂城を脱出して江戸へ向かいました。戦勝ムードに乗って、7日に新政府は徳川慶喜に対する「征討大号令」を発しました。

ここまで一直線に事態が進んできたわけではありません。紆余曲折は多々あって、嘉彰親王が錦旗を捧持して戦場に赴いたあとも、前土佐藩主の山内容堂は、なおも「徳川と薩長の私闘」だと主張して、征討大号令の発出に反対しました。

岩倉具視は6日の夜半、容堂のもとへ直談判に赴いています。

夜半具視ハ豊信カ洛南大仏ノ旅館ニ往キ之ヲ譲ム豊信後藤象次郎之ヲ論争シテ已マス具視怫然色ヲ作シテ曰ク朝議已ニ決シ徳川慶喜ノ罪ヲ声ラシ以テ四方ニ号令セントス而ルニ卿等猶ホ徳川氏ヲ扶助シ其罪ヲ回護セント欲スルハ抑何ソヤ若シ必ス徳川氏ヲ扶助セント欲セハ速ニ治装シ部下ノ兵ヲ率ヰテ大坂ニ赴援スヘシ

多田好問 編『岩倉公実記』下巻1 p246より

夜中に、容堂の宿に馬で駆け込んだ具視が、「怫然、色をなして」抗議したというのです。
 
既に朝議(朝廷の会議)で徳川慶喜征討令を発することが決まったのに、まだ徳川氏の肩を持つのか! 徳川氏を扶けたいなら、いますぐ兵を率い大坂へ援軍に行け。

そんな過激なことを言うと、馬を駆って帰って行ったということです。しばらくすると、象二郎が具視を追ってきて、「朝命を奉じて、征討に従事します」と方針転換し、ようやく薩長土の足並みが揃いました。

翌7日、『征討大号令』が発せられ、いよいよ慶喜は、書類上の形式も整って正式に「朝敵」になっちゃいました。

大号令の本文は長いので全文は引用しませんけども、『復古記』の該当部分は第一冊p277です。

その大意は「大政奉還して、将軍を辞職して、日本全土を支配する名目を失ったのに、領土や領民を朝廷に返さないのはどういうことだ」と、慶喜の姿勢を批難するところからはじまり、「慶喜は(土地人民の返還を)了承したが、旗本と会津・桑名が承服せず暴挙に及ぶかもしれないから鎮撫に力を尽くしていると、(交渉にあたった)徳川慶勝と松平春嶽から報告があったので、朝廷は慶喜が真に恭順を尽していると信じていたのに、旗本を動員したうえ帰国を命じられていた会津や桑名の兵をも引き連れて攻め上ってきたのは許しがたい」おおよそそんな趣旨で、慶喜を征討すると宣言しています。また、降伏勧告も兼ねていて徳川氏の譜代臣下の者であっても悔悟憤発、国家のため尽忠の志があるなら寛大の思し召しで新政府への採用も有り得ると、揺さぶりをかけてもいます。

静寛院宮(和宮)をどうするか?

慶喜に対してキビシイ方針を示した具視ですが、気がかりなのは静寛院宮(和宮)親子内親王のことでした。かつて将軍家茂との縁談を推し進めた具視としては、夫を亡くして頼る者もなく、江戸城に取り残された身の上を案じずにはいられません。いってしまえば、朝廷が幕府に人質を差し出す意味での政略結婚でした。その引き換えに「攘夷」決行を迫ったのも、開国貿易が必然であると悟ってからは、もはや過去のことでした。穏便に内親王の身柄を引き取るためには、戦争せずに徳川氏を降参させたいところです。

江戸城西の丸に入った慶喜は、すでに降参する気マンマンです。まずは朝廷とのパイプを持つ内親王に縋って、和平への道を模索しますが、内親王は慶喜の軍勢が錦旗に向かって発砲したことをどう思っておられたか……

之より先き、徳川慶喜大阪城を退去し、突然関東に帰航し、江戸城に閉居して、謹慎謝罪の実を表せんとするに当りてや、先づ静寛院の宮の御袖に縋り、鳥羽伏見に於る失体の御詫言を天朝に願はんと決心し、此事を懇願せんがため、宮の御所に到りて御面会の儀を請ひ奉りたり、然れども宮様に於ては、曩に既に徳川慶喜朝廷に対し奉り、謂れなく叛逆を企て、鳥羽伏見の両地に於て、錦旗に向ひて発砲狼藉せしことを伝聞あらせられ、御心中甚だ其失体不敬を怒り居られしにより、慶喜を見るを快しとし給はず、断然面会の願ひを却け給ひしかば、慶喜策の出づる所を知らず、是非なく天璋院大御台にお縋り申し上げ、静寛院の宮様御面会下さるやう、大御台の御骨折を以て御周旋下されたき旨願ひ出でしゆゑ、天璋院殿に於ても黙止難く、静寛院の宮に対し、懇に御口添を為し給ひ、一度なりとも慶喜御面会の願を御許容ありて、同人今回失体の儀を、親しく御聞き下されたしと、頻りに御執り成しあられしかば、静寛院の宮に於ても無下に御却下もなされ難く、進まぬながらも其願ひを許し、御面会あることとはなれり。

高橋幸義 著『幕末裏面の活動』p125~126より

錦旗に向かって発砲しちゃったのは、とっくにバレていて、内親王さまはたいへんお怒りです。そこで内親王の姑にあたる13代将軍家定の正室だった天璋院に取りなしを頼んで、どうにか面会まで漕ぎ着けました。

内親王と天璋院は嫁と姑の間柄であるうえに、出身は公家と武家、馬が合ったとは思えませんが、人質同然の輿入れをしたのは薩摩藩島津家に生まれた天璋院も同様でした。その二人が徳川の家名を残そうということでは意見が一致、慶喜の謝罪嘆願に手を貸します。

そもそも慶喜が体調を崩して「するなら勝手にしろ」と投げやりな態度をとったことが、徳川の家名断絶が懸念されるような一大事に至ったわけで、「慶喜に責任なし」とはいえません。ただし、「慶喜公を刺し奉りても」などと言いながら勝手に戦争を始めた連中の尻拭いをさせられていると思えば気の毒な立場です。このあたりの事情は【鳥羽伏見の戦いの回】を御覧ください。

ともあれ、慶喜が内親王に説明した謝罪歎願の主旨は、以下のとおりです。

既に失体之ある上は、拙者一身は、指揮不行届の罪科之あるゆゑに、如何様なる御処分仰せ付けらるるとも、決して異存なく謹んで服罪仕り申すべく候儀に付、徳川家家名の滅亡するが如き大変に陥らざる様、特に宮様より天朝に対して御嘆願成下され度候、此儀は偏に御聴許の上、充分御尽力を願ひ度候。

高橋幸義 著『幕末裏面の活動』p127~128より

慶喜の方針は、徳川の家名を残すことでした。そのために「自分に対しては、どんな処分を仰せ付けられても、けして異存なく謹んで服罪します」という覚悟を示しました。この線で嘆願して、どうにか江戸での武力衝突を回避できたなら、そのきっかけは内親王がつくったといえそうです。

嘆願は彗星のごとく

和平の道筋を模索していた具視に、江戸から耳寄りな情報が入ります。1月22日、かねて江戸に送り込んでおいた伊藤謙吉という人が京都に戻ってきて「慶喜ヲ廃錮シテ謝罪ノ実効ヲ立テ徳川氏ノ社稷ヲ存センコトヲ」図る動きがあることを伝えたのです。慶喜一人に罪を負わせて座敷牢にでもぶち込んで朝廷に謝罪したことにして、徳川氏を存続させようという話です。これは前橋藩家老の山田太郎左衛門、韮山代官所手代の柏木藤蔵らの発案で、前橋藩主の松平直克にまで話がまわっているけれど、さすがに躊躇しているらしいと、慶喜の側近である川村恵十郎から聞いた……とのことでした。

その翌日、具視は前越前(福井)藩主の松平春嶽に、謙吉からもたらされた情報を伝えました。そして、

卿東西ニ周旋シ徳川氏ヲシテ謝罪ノ実効ヲ立テシメハ予ハ当サニ東照公ノ功徳ト静寛院宮降嫁ノ縁故トヲ以テ徳川氏血食ノ絶エサランコトヲ商量スヘシ

多田好問 編『岩倉公実記』下巻1 p288より

徳川氏に「謝罪の実効」を立てさせるよう、春嶽に根回しを依頼したのでした。慶喜みずから悔悟して謹慎するのと、臣下が座敷牢にぶち込むのでは、そりゃあ心証は違いますからね。

和平交渉の下準備が進んでいた2月8日、内親王の歎願書を携えた土御門藤子が京に到着します。

江戸と京を陸路で旅すると、およそ500kmの道のりです。徒歩の軍隊が行軍する場合、陸軍の『作戦要務令』では一日24kmが標準で、急行軍の場合は一日40kmです。急ぎ旅で一日40kmとすると川留めがなくても13日かかる計算です。高貴な女性が駕籠にゆられて旅する場合には20日くらいかかるでしょう。ところが、大納言橋本実梁に宛てた内親王の嘆願書は2月1日に発せられたということで、なんと7日目に届けられていて、通常の3倍のスピードです。ふつう、こんな速度で上洛できる女官など、ありはしません。あたかも彗星のような速さです。土御門といえば陰陽道宗家ですから、なにか術でも使ったのかとさえ思わされます。

内親王の嘆願書は2月1日付けの一通目に加えて、9日と20日にも後追いの書簡を発していますが、三通とも文面は概ね以下のようだったとのことです。

兎も角、慶喜の不調法は申すまでもなき儀に候、殊に同人の先供中に加はりたる会津桑名の兵士等、禁廷の命令を受けて伏見鳥羽の関門を守りたる薩長の衛兵に敵対し、戦争に及びし事、重々不埒の儀に存じ候、之がため朝廷に於せられても、其罪を問はせられんがため、官軍を差下され、徳川家御取潰しのことに御評議一決せられしとのこと、御尤至極の儀と存じ奉り候、然りながら一朝徳川家御取潰しと相成りし暁には、自儀は、既に徳川家先代の未亡人にして、徳川一家の一人たる身に候へば、徳川宗家の滅亡を空しく他所に観過して、独り存命も致し難き筋合に候、随て若し斯る場合にも立至り候へば、自は一死を以て徳川家に殉ずるの覚悟を為し候外致し方なき儀と存じ候ゆゑ、何卒何卒自の身の上を御不愍と思し召され、徳川家討伐の官軍御差下しの儀は、自が身命に換へての御嘆願に候間、御差止め下さる様御取扱に預り度候

高橋幸義 著『幕末裏面の活動』p135~136より

この内容は「慶喜を助命して下さい」ではなく、「徳川宗家の家名存続を許して欲しい」ということです。慶喜の意図するところは、ちゃんと内親王も理解してますよね。そのうえで「徳川家が取り潰されるなら、自分も生きてはいられない」と、訴えているわけです。

無言のメッセージ

かつて徳川は豊臣を根絶やしにしましたが、新政府は、よりよい決着を目指します。そのことは討伐軍のトップ人事という、言葉によらないメッセージとして伝えられました。

内親王の嘆願書が届いた翌日、慶応4年2月9日(1868年3月2日)、新政府軍の総司令部たる東征大総督府が設置されます。トップの大総督は熾仁親王で、慶喜の従兄弟にあたる有栖川宮幟仁親王の子です。慶喜に対して「殺しはしないよ」と伝えているのも同然です。

江戸の占領を担当した御親征東海道先鋒総督府(東海道方面軍)の総督は橋本実梁で、内親王からの嘆願書を受け取った人です。橋本家は内親王の生母である橋本経子の実家であり、内親王を養育した家でもあります。内親王は、父である仁孝天皇、兄である孝明天皇、夫である徳川家茂、すべて死に別れていましたから、身寄りといえるのは橋本家だけでした。実梁は養子として橋本家に入った人でしたが、内親王の江戸への輿入れの際には、実梁が随行していたり、家族としての親しみはあったでしょうね。その実梁が問答無用で江戸城総攻撃なんかするわけないんですよ。話があるなら聞きましょうという、言葉によらないメッセージになっている人選です。

春嶽の和平運動

2月13日、具視から慶喜への根回しを依頼された春嶽のもとに、慶喜からの書簡が届きます。

○徳川慶喜、松平慶永ニ因リテ、書ヲ上リ、屏居シテ罪ヲ待ツヲ陳シ、又書ヲ慶永ニ致シ、鎮撫使ノ東下ヲ止メンコトヲ請フ、松平直克及ヒ大久保忠寛モ亦慶永ニ復書シ、慶喜謝罪ノ意ヲ陳ス

『復古記』第2冊 p344より

慶永は春嶽の実名、大久保忠寛は一翁と呼ぶ方が通りが良いでしょう。春嶽とは親しい人で、この時期は徳川家の会計総裁をつとめ、2月8日に若年寄に異動しているので、徳川陣営の閣僚級の人物です。

慶喜から春嶽への書簡は、「ちゃんと謝罪するので、(討伐軍を率いた)鎮撫使を江戸に差し向けるのは待って下さい」という内容でした。春嶽と一翁は、このあと頻繁に書簡を往復させています。戦争状態にある両陣営の閣僚級の人たちが親しく私信を交わしているというのは、さすがにいかがなものかと思いますけどね。
 2月15日、春嶽は大総督一行の江戸行きを中止すべきことを提案します。

松平慶永、書ヲ上リ、徳川慶喜既ニ其罪ヲ謝ス、宜ク大総督ノ行ヲ止メ、速ニ諸路ノ師ヲ班スヘキヲ建議ス。

『復古記』第二冊p372より

とはいえ「綸言汗の如し」というくらいで、天皇の発した命令は、出た汗を引っ込めることが出来ないのに似て、易々と撤回するわけにはいかないものです。また、西郷隆盛なんかは強硬姿勢で、大久保利通への書簡に、こんなことを書いています。

慶喜退隠之嘆願、甚以不届千万是非切腹迄には参不申候ては不相済

勝田孫弥 著『西郷隆盛伝』第四巻 p94より

慶喜の処分は退隠なんかじゃ生温い、是非とも切腹まで持っていきたい……というのですよ。みなさま御存知とは思いますが、このあと隆盛は慶喜の助命を請け合っていたりします。

それはさておき、結局、春嶽の努力は報われませんでした。2月21日、徳川慶喜から朝廷ヘの謝罪は、いったん却下されました。

慶喜謝罪之状、東征大総督ヲ被置候上ハ、右手ヲ経スシテ言上之儀ハ難被 聞召筋ニ付、宜ク其順序ヲ以執 奏有之候ハヽ 思召之旨可被仰出候事

『復古記』第二冊 p476より

大総督府を設置したからには、その頭越しに朝廷が慶喜の謝罪を受け入れるわけにはいかないので、謝罪は大総督府を経由してから受け付けるというのです。まず、慶喜は大総督の熾仁親王に謝罪を受け入れてもらわねばならないわけですが、前述のとおり、慶喜と熾仁親王とは親戚ですから、高いハードルではありません。

まあ、しかし、和平のヒーローになるつもりでいただろう春嶽にとっては、不本意な成り行きだといえそうです。

お手柄は宮様に

3月3日、大総督府から、慶喜の代理人である輪王寺宮公現法親王へ書簡を発し、駿府で会見する手筈となりました。

3月5日、大総督熾仁親王は、鞠子宿で先行していた大総督府下参謀の西郷隆盛の出迎えを受けたあと、駿府に入りました。東海道先鋒総督の橋本実梁とも合流し、来たるべき駿府会談の新政府側の役者が顔を揃えたのです。

同日、勝海舟は「軍門参謀閣下」にあてて和平を求める書簡を山岡鉄舟に持たせ、駿府に派遣しました。すでにトップ会談が準備されている場面なので、くどいと思わせられるほどの念押しです。ところが、あとになって念押しが効きました。一大事が起きて、本来のシナリオは筋立てが崩壊してしまったのです。

駿府会談はじまる

3月6日、大総督府は15日を期して江戸城を攻撃すべきことを三道(東海道、東山道、北陸道)の先鋒総督に通達しました。

東海道先鋒総督あての命令書では旗本や諸大名から慶喜の助命嘆願などがあっても「先鋒にては決して御取り上げあるまじく」と指示されています。そのあとに「大総督府へ申し出るよう、あい答えらるべし」と記されているので、これは和平交渉を大総督府で一元化するための措置だと考えられます。また、「嘆願などには無頓着にて」攻撃準備にかかることを求めていますので、先鋒総督に嘆願を受けつけさせない措置と併せると、あたかも大総督が問答無用で総攻撃を命じているかのようにも受け取れます。しかし、このとき宮様お二人でのトップ会談が目前に迫っていたのは、これまで述べてきたとおりです。この辺りの事情は、『復古記』第九冊p262に記載されています。

3月7日、いよいよ駿府城で大総督の熾仁親王と公現法親王とが御対面となりました。大総督府の側は公家参謀の正親町公董と西四辻公業が同席で、公現法親王の側は竜王院尭忍、覚王院義観、自証院亮栄、戒善院慈常という身分の高い僧侶を従えていました。

この席で徳川慶喜の謝罪状と公現法親王の嘆願書が出され、ひとまず受理されたあと公現法親王は下城、義観と亮栄が残って「一応の御沙汰を待つ」ことになりました。やがて武家参謀の西郷隆盛と林通顕が出て来て、隆盛が「大総督御熟考の儀、後日回答及ばる旨」を申し渡します。この辺りの事情は、『復古記』第二冊p805に記載されています。

ここまでのやりとりで、出身身分が低い武家参謀を公現法親王と同席させなかったことからしても、大総督府は鄭重な扱いぶりを示したといえます。

交渉決裂!

二日目はトップ会談後の事務レベル交渉です。『西四辻公業家記』によると、亮栄と慈常が登城して、隆盛と通顕とが交渉の席に着きました。その席で亮栄は「慶喜謝罪の事、なお今日先鋒総督御進軍にあい成り候儀」について「如何の御模様に候哉」と切り出します。和平交渉が開始されたのに進軍が猶予されないことを、やんわりと指摘しています。これは理に適った申し分ですし、いきなり討伐を中止すべきだと主張したわけではないので、むしろ控えめな姿勢だといえましょう。

対する隆盛は「只今取調中に付、御返答はこれより」と回答を留保し、「しかしながら甲府賊兵追い追い繰り出し、既に兵端を開き候儀は(輪王寺)宮に於いても御承知と存じ候」と衝撃的なことを言い出しました。

甲州勝沼近傍で、大久保剛(近藤勇)が、板垣退助の率いる新政府軍と交戦した、その第一報が駿府まで伝わってきていたのです。徳川方が和平を求める一方で戦いを仕掛けたことは、騙し討ちだということになります。早い話が、隆盛は公現法親王が謀略に一枚噛んでいるのではないかと、相手の腹を探りに出たのです。もし、公現法親王までが謀略に加担していたとなると「天朝を御欺き遊ばされ候御次第」だということになります。また、「大総督宮ならびに参謀も甚だ疑惑をあい生じ候」というのも、もっともな申し分ですから「使僧、大いに恐縮」したのも無理からぬところでしょう。寛永寺側の『自証院記』によると、亮栄は「なにとぞ実際を重ねて伺い奉るべし」と、事実を確認したうえでの再交渉を求めています。

この辺りの事情は『復古記』第九冊p269に記載されています。

このように、勝沼の戦いで宮様の面目は丸つぶれですし、芝居の流れが止まってしまいました。そこへ、急遽、駿府まで飛び込んできた山岡鉄舟が、とっさに幕間を繋ぎまして、控えメンバーだった勝海舟登場まで間を持たせ、そこからみなさま御存知の歴史的美談が紡がれるわけです。いや、でも本当は、そんな筋書きではなかったのですよ!

駿府会談で何が起きなかったか

ここで、ワタクシの妄想するところをお話ししましょう。駿府会談までの経緯を見れば、江戸開城は決まったようなものでした。慶喜には戦意がないとわかっていたし、あえて総攻撃で血を流す意味はありません。

ただ、政治劇のクライマックスですから演出は必要です。岩倉プロデューサーにとって、ヤラレ役の慶喜に箔を付ける意味で、征討大号令を出すことが必要だと思ったのでしょう。この記事の冒頭、容堂との論戦は、クライマックスに向けての布石だと思えます。

また、岩倉Pにとって江戸開城という歴史的美談の主人公となるべきは、春嶽ではなく熾仁親王でした。なので春嶽がお膳立てした慶喜の謝罪嘆願を、そっくりそのまま召し上げ、あらためて熾仁親王を主役に据えました。

そして、内親王が和平の序曲を奏で、上野寛永寺におわす公現法親王が慶喜の代理人として駿府に赴き、熾仁親王とめでたく手打ちをする……本来は、そういう筋書きだったろうと思います。お手柄は、三人の宮様で山分けして、めでたしめでたし大団円であります。

総攻撃するぞと、キビシイ態度を示しながら、三人の宮様たちが「まあまあ落ち着いて」と丸くおさめるという、この筋書きどおりに事が進めば、西郷隆盛は「慶喜は切腹だ」と舞台の端っこからヤジを飛ばすだけの脇役だったでしょうし、勝海舟には出番すらなかったでしょう。

駿府での交渉決裂は、寛永寺使節団に深い遺恨を残しました。そのことが上野戦争まで引き摺られていくのですが、いつか機会があれば御披露しましょう。

ここでは「何が起きなかったか」がテーマなので、甲州勝沼の戦いについてのことと、実現した勝・西郷ルートでの和平については、あえて書きません。それは「何が起きたか」を論じている人たちが、いっぱい書いてますからね。あしからず御了承ください。

アイキャッチ画像:葛飾北斎「富嶽三十六景 江戸日本橋」(出典 国立国会図書館デジタルコレクション)

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。