咸臨丸はなぜ太平洋を渡ったのか?
最初に太平洋を渡った日本の船は咸臨丸、1860(安政7)年1月(安政は3月に万延に改元)に品川を出航しました。それは浦賀にペリーが来航した1853年(嘉永6)年から約8年後のことでした。
事の発端は、1858(安政5)年に徳川幕府と米国公使ハリス(Townsend Harris)との間に調印された日米通商条約の条項に批准交換がワシントンで行われることになっていたからです。批准交換のための使節一行はアメリカの軍艦ポーハタンに乗艦したのですが、使節の内に何か事故があった場合の補充という意味で咸臨丸が随行することになりました。(といっても航海中は全くの別行動となるのですが)
このとき日本人だけで航海しようという動きもありました。咸臨丸の乗組員の多くは、長崎海軍伝習所でオランダ人教師から航海術などを習い、そして幕府が築地に開校した軍艦教授所の教員だったのですが、海外となると不安があったようです。
たまたま、浦賀で難破した米国測量船「フェモニア・クーパー」(Fenimore Cooper)の乗組員一行が本国に帰国するための便船を待っていたので、ハリス公使と咸臨丸の司令官相当の軍艦奉行木村摂津守の思惑が一致し、ブルック(John M. Brooke)海軍大尉を始めとする11名のアメリカ人が乗り込むこととなりました。
ジョン万次郎も同乗!フランシスコへ向かう一行
この時期の軍艦というのは帆船でした。といっても蒸気機関(石炭を燃やして水を沸騰させ蒸気を発生し、この蒸気の力で動く)は持っていたので、今でいう機帆船という分類になります。外洋を航海するときは帆を使って風による推進力で航行し、風が逆風のときや、出入港のときだけ機関を使用します。
船を動かす技量は、大きくわけて3つに分類できます。ひとつは、航海術つまり、どこへ行くかを決定し、適切な航路を選定、そして今どこにいるのか、どの方向へ行けばいいのかを決める術です。ふたつめは、風を見ながら、航海術により示された方向へ向かうため帆の角度を調整し、風の強さによって展帆する縮帆するといった運用術と言われるもの。みっつめは、エンジンを扱う機関術。軍艦であれば、これに戦うための術(砲術など)が加わることになります。(会計、食事や衛生面も必須事項ですがここでは割愛します)
サンフランシスコに向かう航海の様子は、咸臨丸に乗艦していた福沢諭吉(木村摂津守の従者)の自伝に
航海中には一切ブルック大尉の助力は借りず、測量(自船の位置を天体観測により測定すること)するにも日本人が測量し、彼の測量したものと見合せるだけで、米人に少しも助けは借りなかった
と書かれています。
一方でブルック大尉の日記によれば、長崎海軍伝習所出身の小野友五郎を優れた航海士、またアメリカの商船学校を修業したジョン万次郎を高く評価しており、航海術に問題はなかったとされています。機関についても、便乗していたアメリカ人に機関関係者はいなかったが、機関士の肥田浜五郎を一番有能と評価しています。これらのことから、航海術・機関術については、不安はなかったようです。
(ジョン万次郎:中浜万次郎のこと。高知県の漁師で、船が遭難して、米国の捕鯨船に助けられ米国に渡り、商船学校で航海術を学んで帰国。帰国後は軍艦教授所の教師となっていた)
しかし帆走時に帆を広げる(展帆)、一部の帆を畳む(縮帆)、帆の向きを変えるといった運用術には大きな問題がありました。長崎海軍伝習所での訓練は好天時、昼間の航行訓練が主で、悪天候下での航海の経験はなく、荒れた海でマストに登って帆を広げる、畳むといった訓練はほとんど受けていなかったのです。
咸臨丸が日本を出航した翌日には荒天となり、齋藤留蔵(木村摂津守の従者)の日記によれば「初めての荒天に遭って皆大変疲労、狼狽し」、「帆布を縮長上下する等の事は全てアメリカ人の助力を受けた」とあります。
一方、ブルック大尉は、「日本人達は全く我々に頼り切っている」、そして「アメリカ水兵が当直を行い、荒天の場合も見張りに立ち、舵をとりまた舵手の指揮をとった。」と記しています。
日米どちらの記録からも、帆布の操作に関わる運用作業にあっては、当初、日本人のレベルには不安があり、アメリカ人便乗者に頼らざるをえなかったようです。
ちなみに艦長とされていた勝海舟(麟太郎)は、「全航海中病気にて殆ど臥床せられ、医官達の看護の下に置かれたが、同氏は甚だ聡明の人格者である」とサンフランシスコの新聞に記載されていて、あまり出番はなかったようです。勝は十分な技量と経験を有して艦長となったというよりも、軍艦操練所教授方頭取という職務から艦長格とされたようです。階級的には、司令官格の軍艦奉行木村摂津守の下、他の乗組み士官(教授方)より上だったのですが、技量・経験としては、伴に長崎海軍伝習所で学んだ同期でした。
咸臨丸が日本を出航後、荒れた海でまずその作業を実施したのはアメリカ人便乗者で、航海する中でアメリカ人便乗者らに実地で教育をしてもらったのです。そして37日間のサンフランシスコへの航海を終えてのブルック大尉の日記には「日本人も経験を積むに従って腕をあげ、充分船をあやつる事ができるようになった」と記されています。そして、復路にあっては、まだ運用作業の不安があったので5人だけアメリカ人を雇いましたが、好天にも恵まれ、日本人だけの運行で無事に品川帰還しました。
アメリカでの咸臨丸、その評価は?
咸臨丸のアメリカでの状況については、大歓迎を受けたようで、勝海舟の後日談として、次のような記載があります。
サンフランシスコ港に着くと日本人が独力で、こんな小さい軍艦で遥々遣って来たというので、新聞で大変褒められ、またアメリカの紳士等も大いに歓迎してくれた。それのみならず、船底の付着物やペンキの塗り替えまでも厚意でことごとくみな世話してくれた。
ペリー来航時の旗艦サスクハナが長さ約80メートル、約2500トンと比べるとかなり小さな船ですね。
一方でこんな評判もあったようです。
咸臨丸の様子は、当時の欧米海軍の軍人にとって全く恐れるものではなく、咸臨丸の乗組員の姿、諸動作を見て批判し、笑う者も多かった。(確かに羽織袴に髷(まげ)、脇差しという出で立ちでは仕方がないことだったのでしょう)
その「咸臨丸」の派遣から8年後に日本は、明治維新をむかえ海軍を創設しました。さらに維新から8年後の1875(明治8)年、日本海軍の軍艦「筑波」が初めて北米へと派遣されたのです。筑波は38日間の航海によりサンフランシスコに到着しました。この筑波の派遣は、ペリー来航から24年、咸臨丸の派遣から16年が経過していました。
このときのサンフランシスコにおける記録では咸臨丸と比較して紹介されています。
咸臨丸乗員の日本服姿を記憶するサンフランシスコ港の人々は、全く欧式海軍に変わった筑波の威容に対し、驚きの眼を見張った
筑波は日本人だけで航海したとされていますが、イギリス人教師3人が乗艦していました。それは士官ではなく、帆布の操作など運用作業を教える下士官でした。実は咸臨丸で運用方の取りまとめの職にあった佐々倉桐太郎は、幕臣から明治海軍に採用され、このとき筑波が所属していた海軍兵学校の教頭職にあったのです。咸臨丸の教訓は16年後も生かされ、佐々倉の意向によって、航海の安全のために運用術の教師を念のために乗艦させたのだと筆者は思っています。
参考文献:
文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』
広瀬彦太『近世帝国海軍史要』
日米修好通商百年記念行事運営会『万延元年遣米使節史料集成 第五巻』