清輝という軍艦を知ったのは、1890(明治23)年のエルトゥールル号事件を調査しているときでした。日本海軍としては、この事件により初めて軍艦(金剛、比叡)がトルコを訪問したと思っていたら、なんとその12年も前に清輝(せいき)という船が、訪問していることがわかりました。しかも、その清輝は1年3カ月ものヨーロッパへの長期航海の途中、戊辰戦争が終わってわずか10年だったことに驚き、細かく調べることにしました。
最初は、派遣報告書のようなまとまった文献を探していたので、全く史料を見つけることができませんでした。実は、そのようなまとまったものはなく、他の公文書に混ざって、日付順に綴られていることがわかり、それからはしらみつぶしに、公文書を探したところ、500件ぐらい見つかりました。
今回はその一部と、発刊後に判明した事柄を加えて、今から140年前の日本海軍の偉業を紹介したいと思います。
清輝を建造した造船所はフランスのツーロン港に似た横須賀港にあった
今は、米海軍横須賀基地になっていますが、ここは戦時中、横須賀海軍工廠という造船所でした。さらに時代を遡ると、156年前の1865(慶応元)年に建設にあたっての起工式が行われています。
建設に尽力したのは、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)、技術的な役割を担ったのは、フランス人ヴェルニーで、フランスのツーロン港に似た横須賀港を気に入り、造船台やドライ・ドック(船を建造、修理するための施設で、船を入れた後に水門を閉鎖し、ポンプで水を抜いて船底などの検査と修理ができる)などの施設を建設する計画を立てました。
実際に稼働するのは、起工式から3年後の1868(明治元)年で、当時は鉄を加工するところという意味で「横須賀製鉄所」と称され、初めて修理船をドライ・ドックに入渠させました。その後、江戸幕府から明治政府へと移管され、海軍の所掌となります。名称も横須賀造船所となり、そこで最初に建造された軍艦が清輝です。
清輝は、1873(明治6)年11月に建造が開始され、1876(明治9)年6月に完成しました。機関を有する帆船で、長さ60メートル、幅9メートル、排水量897トン、速力9.6ノットで、乗組員は、士官21名、兵員119名、雇人19名の合計159名でした。機関はフランス人技術者の設計で、日本職工により製造され、大砲を6門搭載していました。
反対を押し切ってのヨーロッパ派遣
過去の記事で紹介したイギリス製の比叡が2200トンなので、それに比べると随分小さい感じがしますが、おそらく、当時の日本の技術ではこのサイズが限界だったのでしょう。
清輝は、完成して約8ヶ月後1877(明治10)年2月に発生した西南戦争に従軍しました。そして、平定後の10月10日、横浜に凱旋すると、さっそく、ヨーロッパへの派遣に向けての準備が進められました。11月28日、海軍大輔(次官)川村純義は、太政大臣の三条実美へ、実地研究のため、約10ヶ月間の見込みで清輝をヨーロッパに派遣したいという上申を提出し、これが認められ、翌1878(明治11)年1月17日に清輝は、ヨーロッパに向けて出発したのです。なお、このとき海軍卿(大臣)は不在でしたので海軍のトップは川村純義でした。
清輝の艦長は井上良馨(いのうえ よしか。海軍中佐、のちの元帥)で、後日談によれば、ヨーロッパへの航海は、「あんな軍艦でヨーロッパなど行けるものか」と反対する者も多かったようですが、井上は「おはんら、中国や朝鮮へ行くときに歩いていくのか? 海を行くじゃろ、その海が続いているだけの話じゃ」といって1人で回りの反対論者を説得したようです。(『戊辰物語』より)
この派遣は、一般的な軍事視察を目的としたもので、行動の大綱を示して実行の細目は、艦長に一任されました。そして、香港を経由し、スエズ運河、ジブラルタル海峡を通過し、ヨーロッパ各国(イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、)を歴訪し、イギリスにたどり着きますが、途中で、10か月で日本に帰ることは不可能と判断し、期間の延長を本国へ申請し、5か月の延長が認められ1年3か月の航海となったのです。
イギリスで折り返して、復路となる9月、フランスのツーロンに約1ヶ月停泊して修理を実施し、トルコに寄って、出航から1年3ヶ月後の、1879(明治12)年4月に帰国しました。通常軍艦の海外派遣は 5〜6か月程度で、1年半も派遣されたのは、戦時中を除き、他に例がありません。さらに述べ60もの港に寄港しており、エピソードが盛りだくさんなので、2回に分けて掲載し、今回は往路(日本からイギリスまで)のエピソードを紹介したいと思います。
横浜出航後、宮崎県沖での医官の派遣
1月17日午後2時45分、清輝は、オーストラリアへ向かう筑波とともに横浜を出航しました。横須賀に海軍の基地(横須賀鎮守府)ができたのは1884(明治17)年のことで、明治初期は、横浜にある東海鎮守府が海軍の拠点でした。
清輝は、下田を経由して長崎へと向かう途中、宮崎県沖にて、イギリス商船(メードアリアン号)が、国際信号旗「汝ハ医者ヲ有スルカ」を掲げているのを視認しました。清輝が、「YES」を意味する信号旗を掲げると、メードアリアン号は、「汝ノ医者ハ船内ニ来ルテ有リカ」の信号を掲げます。これは医者の来船を要請する信号です。そして両船は停止し、清輝から軍医2名が搭載している短艇(救命艇)でメードアリアン号へ向かいました。
メードアリアン号の船内では、乗組員のイギリス人が、同じく乗組員の黒人奴隷に刃物で襲われ、腕に数カ所の重い刀傷を負っていました。2人の軍医は、これを治療し、薬を与え、その後の処置を教えて、処置を終え清輝へ戻りました。その後、この援助に対して、イギリス外務省を通じて、外務卿寺島宗則あてに感謝の書簡が送られたことで日本政府の知るところとなりました。当時の日本海軍は、国際的な船の慣行についても適切な措置がとれる知識と技量をもっていたのです。
この清輝の航海の多くは、当時イギリスがアジアへ進出するために整備した港を多く利用しています。そして様々な便宜をイギリスは図ってくれました。もしかしたら、最初のこのイギリス商船を助けたことが広まっていたのかもしれません。
海外での初めての入港、香港での出来事
清輝が初めて入港した海外の港は香港でした。
航海中に荒天のために流された短艇を調達するため、香港にあるイギリス海軍の造船所に購入を依頼したところ、その日のうちに納品されました。さらに清輝の士官たちは、現地イギリス海軍の士官から海軍ボールというパーティーに招待されます。それは、大きなホールに各国の軍人を招いてのダンスとディナーの催しでした。イギリス海軍の士官らは、清輝の士官らに大変親切に接してくれ、至れり尽くせりだったようで、報告書には次のように書かれています。
フランスやアメリカ海軍の士官も数多く参加していたが、イギリス海軍士官の彼らに対する接待は、通常の交わり程度であって、清輝の士官に対する接待ほど懇切なものではなかった。その理由は、清輝が東洋からの珍客であったことであろうが、フランスやアメリカの士官らよりも、ちょっといい思いをさせてもらった。これからの航海の先々に於いては、どのような交流があるのか楽しみである。
寄港地ローマは文章で表せないほどすごかった!
その後、香港から、シンガポール経由、マラッカ海峡を過ぎて、インド洋を横断し、スエズ運河を抜け、地中海のマルタ島に到着し、イギリス海軍の造船所で修理・整備をしてもらいます。そして病気の若い少尉補1名を退艦させ郵便船で帰国させました(帰国1年後に病死)。明治初期にこのような配慮があったのですね。
5月10日、清輝はナポリに到着しました。碇泊中には、イタリア海軍から非常に親切な扱いを受け、オペラ観賞、茶会、晩さん会などに招待されますが、時間をとれず断ることもあったようです。なぜなら、ナポリ碇泊中に、艦長他5名の主要な士官は、夜行列車に乗ってローマ観光へ行ったのです。当時からローマは有名な観光地で、一行はバチカン宮殿を見学し、その状況を報告書に載せました。報告書には、当時の日本人から見たローマの様子が詳細に書かれていますが、それは割愛して、最後の感想のみ紹介します。
この寺院の建築の概略を報告書に記そうとしたが、その建築の高大でかつ華麗なる状況はとても文章で表現できるものではない。ローマの名所旧跡をひととおり見物しようとするには、少なくとも3か月はかかるであろう。
清輝は、ナポリ市民に艦内見学を許可しました。市民には大変好評で、連日見学者が訪れ、最も多い日は、1500人を超えたと記録されています。見学の人々は、清輝が日本国内での建造であることと、艦内諸般の用具等が大変きれいに整頓されていることを称賛し、みな満足して帰ったそうです。
ナポリの後は、スペイン、フランスの港を訪問しつつジブラルタル海峡を抜け、6月26日イギリス(プリマス)に着きました。
イギリスでは清輝の艦上レセプションを開催!
プリマスでは、女王即位日の休日になっていました。当時の女王は、1837年に即位したビクトリア女王(約64年在位)で、この年は即位から41年目にあたります。6月28日清輝は、周りのイギリス軍艦に倣って、午前8時から満艦飾(数字旗、アルファベット旗を繋げて艦首からマストトップを経由艦尾へ掲揚したもの)を実施、正午に21発の祝砲を発射、夜には花火を挙げ、燈火を舷側に灯してイルミネーションを施して、即位の吉日を祝いました。これを現地のイギリス人は大変歓び、清輝の士官らは至るところで、謝辞を受けました。
そして清輝はプリマスを出航して、イギリス艦隊の泊地ポートランドに寄り、7月6日ポーツマスに入港しました。ポーツマスは、ロンドンから比較的近くにあり、入港後、井上艦長が、在ロンドン日本公使館を訪問したところ、公使から、イギリス政府の高官などを招いての艦上レセプション開催を依頼されました。招待者に関わる様々な準備と調整は日本公使館が担当し、清輝はロンドンに近い、テームズ川を遡ったグリンハイズというところに移動しました。招待客は汽車で港の近くに来て、そこから小型汽船で沖の清輝へむかう手筈になっていました。このとき日本公使館は、汽船の運航時間に都合がいいようにロンドンからの汽車のダイヤを変更させたそうです。なかなかやりますね。外務省!
7月26日に清輝の艦上でレセプションが開催されました。このときの様子が現地の新聞に掲載されていますので、その訳文を紹介します。
日本の軍艦「清輝」は、イギリスの港において艦上でのレセプションを開催し、イギリスの様々な高官及び、諸国の駐在公使等を招待した。この清輝の景状は、日本国の開化を想わせるものであった。外国人の手を全く借りることなく日本からイギリスまで航海してきたことは、感嘆に値する。清輝の甲板上の索具等はきれいに整頓されて清潔で、乗組員は士官から水夫等に至るまで皆敏捷で、適材適所に配置されている。この艦がいずれ我がイギリス軍艦に拮抗するというもあながち不可能ではないであろう。さらに、艦内を見学すると、この艦が国際法の規定を遵守していることがよくわかった。東洋にこのような一文明国があることに驚くほかない。
このように遠く日本からイギリスまで、日本人だけでの航海で来たことが高く評価されただけでなく、一国の軍艦としての威容も評価されました。これは、イギリスに限らず、コロンボ(当時イギリスの植民地)、イタリア、フランスなどにおいても、新聞記事や、その国の要人によって清輝は称賛されています。
そして清輝は、折り返して帰路につきます。
おまけ
このときイギリスには、末松謙澄(明治から大正期にかけてのジャーナリスト、政治家、歴史家)が滞在していました。末松は一等書記官見習いとして4月にロンドンの日本公使館に赴任したばかりで、本人から日本の兄にあてた書簡に清輝のことが書かれています。
末松の乗った船は、清輝よりも1か月近く後の2月10日に横浜を出航し、インド洋あたりで清輝を追い越したようです。清輝は通常は蒸気を使わずに航海練習のために帆走しているので、速力は遅いのだと末松は記しています。さらにロンドンでの艦上レセプションで大変評判がよかったことや、井上艦長を当時ロンドンで評判の芝居見物に誘って一緒に観賞したことなどが書簡には書かれています。
こんな書簡(のことが書かれている書籍)が見つかると、全く異なる側から物事をみることができます。これも歴史研究の面白いところです。
主な参考文献
大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』(芙蓉書房、2019年)
玉江彦太郎『若き日の末松謙澄』(海鳥社、1992年)
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(丸善株式会社、1938年)
海軍歴史保存会『日本海軍史 第一巻 通史 第一・二編』(第一法規出版、一九九五年)。
横須賀市HP https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/seitetsuzyo/main.html
東京日日新聞社会部 編『戊辰物語』(万里閣書房、1928年)
「記録材料・清輝艦報告全」JACAR:A07062108200(国立公文書館)
「帝国練習艦隊関係雑纂 第一巻(5-1-3-0-4_001)」(外務省外交史料館)