Culture
2021.11.10

ある美少女の悲しみから始まった「六阿弥陀詣」とは?

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あたたかな陽気に誘われて、すこし遠くまで。そんな人の心情は、今も昔も変わらない。
江戸時代、春秋の彼岸の頃になると庶民のあいだで「六阿弥陀詣(ろくあみだもうで)」なるものが流行った。六阿弥陀詣とはその名のとおり、江戸近郊の六つの寺にある阿弥陀仏を巡るというもの。この巡拝が人びとを、とくに女性たちを夢中にさせたのには理由がある。

なぜ女性??

今もなお東京に現存する六つのお寺に秘められた歴史と、巡拝の始まりとなったある娘にまつわる悲しい物語。庶民の信仰と行楽を兼ねた六阿弥陀詣とはどんなものだったのか、想像をたくましくして読み解いてみたい。

いざ、行こう。みんなこぞって六阿弥陀詣

『江戸名所圖會』に描かれた「六阿弥陀参」 『江戸名所圖會』天保7年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

春と秋の彼岸前後になると、老若男女は御仏やご先祖さまを訪ねるためにお寺に参詣した。そうして清浄な気分に浸る人たちもいれば、参詣とは名ばかりの小旅行を楽しんだ不届きものもいたにちがいない。

寺社地に関する情報や挿絵が描かれた『江戸名所圖會』は、当時の様子を今日に伝える貴重な資料のひとつだ。たくさんの人が描かれた「六阿弥陀参」の絵図からは、当時の賑やかな様子が伝わってくる。
お詣りの道を急ぐのは、坊主に武士、親子の姿も見える。物売りに声をかけているのは夫婦だろうか。気になるのは、女性の姿がおおいこと。

六阿弥陀詣を描いたべつの絵図、『滑稽六阿弥陀詣』をよく見ると「世をすてぬ尼」「ていしゅのある後家」なんて言葉がちらほら読める。

『滑稽名作集 上』にみられる『滑稽六阿弥陀詣』 明治43年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

尼も生娘も母親も、江戸の女性たちがこぞって出かけたのには理由があった。

一番寺から六番寺までを巡る六阿弥陀詣は、ある娘にまつわる古い伝説と結びついたことで女性の幸せを祈願するものになったらしい。となれば、出かけずにはいられないのが乙女心。

当時の女性たちは道すがらよもやま話でもしながら、心地よい春秋の一日を楽しんだのかもしれない。江戸の女性たちの一番の悩みはなんだったのだろう。彼女たちも子どもに手を焼いたり、夫の給料の低さに頭を悩ましたりしたのだろうか。絵図を眺めていると、そんな疑問が浮かんでくる。

若返りたいとか、お金が欲しいとか……?(私の願望)

足立姫と十二人の侍女たち


六阿弥陀詣が流行するきっかけとなった娘の伝説とは次のようなもの。

今から千二百数十年も昔のこと。
武蔵国足立郡に、足立姫という娘が住んでいた。
足立姫は、子宝に恵まれず困っていた土地の長者が紀州の熊野権現に願かけをして授かった子で、その美しさは天女のようだったという。

さて、足立姫は隣の郡の長者に嫁ぐことになった。しかし性悪の姑との暮らしに耐えきれず、悲しみを胸に日々を送っていた。

事件は足立姫が十二人の侍女と里帰りをしている途中、荒川のほとりで起こった。
足立姫は手を合わせて「南無…」と唱えると、水中に身を投じたのだ。水の流れを見つめているうちに、こらえていた苦しみが溢れてしまったのだろうか。慌てた侍女たちが助けようとするも空しく、足立姫は水底深くへ沈んでいってしまった。

しばらくして、足立姫を追って身を沈めた十二人の侍女の遺体が見つかった。十二人の侍女は船方村に埋葬され、以来、その場所は「十二天の森」と呼ばれるようになったという。だが、足立姫の体だけはなぜかいつまでも見つからなかった。

どんだけ意地悪な姑だったんだ(T_T)

六体の阿弥陀仏に託された願い


足立姫の伝説はさらにこう続く。

彼女たちの死を悲しんだ長者夫婦は、姫と侍女の霊を弔うために諸国修行の旅へ出た。そして紀州の熊野権現でおこもりしていたときに、お告げを聞いたのである。「あなたに霊木を授けよう。その木で仏像を作り、亡き姫らの菩薩を弔えば成仏するであろう」

夜が明けると、川べりに光り輝く良木が流れついていた。そこへ巡歴の途中だという名僧行基がたまたま立ち寄った。長者の話を聞いた行基は、その霊木で六体の阿弥陀仏を造刻し「至心に礼拝供養すれば、一切衆生二世安泰であろう」と、それらを六ヶ所の寺に一体ずつ安置した。

こうして六阿弥陀の伝説は人びとに来世の至福を約束し、信仰を集めるようになったという。

ちなみに、足立姫の伝承は寺院によっていくつかバリエーションがある。たとえば十二人の侍女を指す十二天とは帝釈天(たいしゃくてん)のことだとか、足立姫の侍女の数は本当は五人で、姫をいれて六人とする説もある。

私だったら姑に復讐しに行くなぁ。

六阿弥陀詣ならこちらへ

足立姫の伝説を知れば、ぜひ六体の阿弥陀仏とやらを訪ねてみたくなる。六ヶ所の寺はいったいどこにあるのだろう。

六ヶ所の寺とは、東京の北区にある西福寺、無量寺、与楽寺、足立区の恵明寺(もとは延命寺)、常楽寺、そして江東区の常高寺だ。江戸の庶民たちが使っていた『江戸切絵図』には、六阿弥陀詣のすべての寺院名が表記されている。ぜひ目をこらして探してみてほしい。寺は今もあるので、もちろん私たちだってお詣りに行ける。

『江戸切絵図』に描かれた「六阿弥陀参」 『江戸切絵図 根岸谷中辺絵図』嘉永2年~文久2年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

さらに付け加えるなら、当時の江戸の年中行事を季節ごとに記した『東都歳事記』には、六阿弥陀詣を廻る順路が細かく掲載されている。全行程を巡るとその距離は約24キロにもなるらしいから、屈強な大人でもけっこう厳しい旅になる。記録によれば、体力に自信のない人は2日に分けて歩いたり、手近の寺からはじめた人もいたそうだ。

行けるところから行ってもいいのですね!

おわりに

明治生まれの作家、永井荷風の『放水路』にはこんな記述がある。

「大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

かつて江戸の庶民も歩いた道を、永井荷風も歩いたのだろう。

江戸の雰囲気を伝えてくれる挿絵や川柳を読んでいると、六阿弥陀詣がいかに賑やかだったかが伝わってくる。どれも当時の庶民の信仰を生活や行動を知る手がかりになるので、ぜひじっくり読み解きたいところ。

【参考文献】
『江戸風俗 東都歳時記を読む』川田寿、東京堂出版、1993年
『面影 小説随筆集』永井荷風、岩波書店、1938年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。