フランスの作家ジュール・ベルヌの小説『月世界旅行』によって宇宙旅行が描かれて以来、宇宙を旅することは人類の夢となった。しかし、近年、それが現実のものとなりつつある。旅行会社「クラブツーリズム」では令和4(2022)年以降、アメリカの宇宙旅行ビジネスを担う企業と契約を締結し、運行を開始する予定だ。宇宙から見た地球は本当に丸く、青いのだろうか。無重力の世界を体験するのってどんな感じなのだろう。本で読んだことが実際に可視化され、体感できるのだと考えると、なんだかとても不思議な気持ちになる。
ところで200年近く昔の江戸時代、日本から宇宙を観ていた男がいた。彼の名は国友一貫斎(くにとも いっかんさい)。近江国(現在の滋賀県)国友村(現長浜市国友町)に生まれた鉄砲鍛冶である。本業とはまったく関係がない宇宙のことをどうして彼が知ったのか。どうやって望遠鏡を創ったのか。調べてみると興味深い史実がいくつか浮かび上がって来た。そしてその根底にあったのは、国友村で培われてきた優れた技術と一貫斎の類(たぐい)まれなる才能、科学的なものの考え方、そして未知の世界への飽くなき探求心であった。
※キャッチ画像は平成元年に一貫斎観測創始の地に建てられた「星を見つめる少年」像(デザイン:森雅敏、制作:馬場恭介)。地域の子どもたちに一貫斎の業績を伝えるために創られたという。
日本有数の鉄砲(火縄銃)生産地・国友村で生まれ育った一貫斎
時が止まったかに見えるまち
一貫斎の故郷・国友村は現在の長浜市北部にある。戦国時代に織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍が戦った古戦場として名高い姉川が町の北側を流れている。一見すると、鉄砲鍛冶の町として名を馳せた往年の面影は見られない。しかし、街中を歩いてみて驚いた。家屋敷は新しく建て替えられたり、更地になっていたりする所が多いが、武家屋敷風の白壁や「国友●●屋敷」という石柱が家と家の間に建っている所が何カ所もあるなど、昔の名残がそこかしこに色濃く残っているではないか。そのたたずまいを見ていると、あたかもここだけ時が止まっているかのような印象を受ける。歴史が風景からにじみ出しているような、とても趣深い街だ。
「国友鉄砲ミュージアム」に残る国友ブランドの鉄砲
国友町にはかつての鉄砲鍛冶たちの技術を今に伝える「国友鉄砲ミュージアム」が建つ。館長の川上幸夫さんは、「『国友』は単なる地名や苗字ではなく、鉄砲とその製造に従事していた職人たちを指すブランド名なのです」という。『国友』の名は誇りなのだ。
川上さんが館内を案内してくださった。ここには大河ドラマ「麒麟がくる」で使われた鉄砲も展示されている。長谷川博己演じる明智光秀が腕利きの鍛冶師を国友村に訪ねるシーンが放映されたが、そこで使われた鉄砲である。ぜひ、実際に訪れて見てほしい。ほかにも国友における鉄砲製造の歴史や街に残る各種鉄砲、また鉄砲製造で培った技術を生かしての製品など数多くの展示がなされている。
信長・秀吉・家康と、天下人たちの庇護を受けた戦国のハイテク集団・国友鉄砲鍛冶
刀鍛冶から鉄砲鍛冶へ 国友では全国に先駆けて鉄砲の生産が始まった
天文12(1543)年、ポルトガル人によって鹿児島県の種子島(たねがしま)にもたらされたとされる鉄砲が、どうして遠く離れた近江の国友で、早い時期から製造されるようになったのだろうか。国友に伝わる鉄砲鍛冶の歴史をまとめた「国友鉄砲記」では、次のように言われている。
この時、日本にもたらされた鉄砲は2挺(ちょう)あった。うち1挺は種子島の刀匠が国産化に成功。もう1挺は薩摩を経由して室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)に献上された。義晴の子義輝は管領(かんれい:室町幕府のナンバー2にあたる将軍の補佐役)の細川晴元に命じて、近江国(現在の滋賀県)国友村(くにともむら)の鍛冶に鉄砲を造らせ、半年後に将軍に献上した。
『国友鉄砲記』は江戸時代に国友の鍛冶年寄(かじとしより)4人によって編纂された。しかし、史料的な裏付けがないため、これらをまるっきり史実として鵜呑みにするのは難しいようだ。
鉄砲生産以前、国友は刀鍛冶の村であった。つまり、有能な技術者が多く集まっていたと考えられる。長浜市学芸専門監で自身も国友町に暮らす太田浩司氏によれば、浅井氏が領主の時代に国友で鉄砲が造られ始めたのは間違いなく、1555年~1558年ごろというのが確かなところだという(『長浜みーな』国友の町と鉄砲の歴史)。時期的には種子島に鉄砲がもたらされて10年ほど経っている。戦国時代の真っただ中で、どこも最新兵器である鉄砲の製造にしのぎを削っていたことだろう。
鉄砲の製造過程でネジが生まれた
鉄砲を造るにあたり、鍛冶師たちが一番苦労したのは銃の後ろをふさぐネジの製造だった。当時の日本にネジは存在しなかったのである。種子島の鍛冶・八板金兵衛は鉄砲を製造するにあたり、娘をポルトガル人に嫁がせて雌ネジの製法を習得したとされているが、国友では次郎助(じろすけ)という鍛冶がネジを発明したことになっている。彼は大根を刃の欠けた小刀でくり抜くことで溝のついたネジの形を取り出し、それをもう一度大根にねじ入れることで雄ネジと雌ネジの原理を悟ったという。真偽のほどは定かではないが、ともかくネジの発明により、鉄砲は完成した。
ハイクオリティな国友の鉄砲はいくさを変えた
国友で生産された鉄砲は、銃身には出雲で産出された品質の良い鉄を使っており、とても堅牢(けんろう)で機能美に優れ、命中率も高かったとされる。だからこそ、時の権力者たちはこぞって国友の鉄砲を買い求めた。大坂夏の陣のころ(1615年)には、73軒の鍛冶屋と500人もの職人が国友にいたという。
天正3(1575)年の長篠の戦い(織田・徳川の連合軍VS武田勝頼軍)で使われた3000挺の鉄砲のうち、500挺は国友で造られた鉄砲だった。この戦いで戦国の雄・武田氏は滅び、以後、鉄砲は戦略の中でいっそう重要な役割を果たすようになった。徳川家康も国友鍛冶のことを知り、たびたび鉄砲を発注。特に大阪冬の陣、夏の陣においては鉄砲の製造のみならず、鉄砲の修理のために国友鍛冶が従軍するなどの功績があったことから、家康は国友に諸役免除(江戸時代には年貢以外にも、商工業者に課せられた税金や特定の免許を取得した代償としての税金、宿場の労働不足をサポートするための人馬の供給などが課せられていた)の特権を与えたという。※後に国友は諸役免除を返上して、幕府から鉄砲の定数注文を受ける事とした。太平の世に入り、鉄砲の注文が激減したためと考えられる。
戦国から太平の世に 国友ハイテク集団の栄光と衰微
徳川幕府の天下統一に貢献した国友は「御鉄砲鍛冶」と呼ばれる幕府直属の鍛冶としての役割を担い、全国の藩からも鉄砲を受注していた。また彼らの求めに応じて各大名家の城下町に移住する者も現れたという。
国友では1挺の鉄砲を造るのに「鍛冶師(銃身を作る)」・「台師(銃身を支えるための銃床を作る)」・「金具師(引金やカラクリと呼ばれる火ばさみ部分を作る)」という3人の分業体制であった。また年寄(としより)・年寄脇(としよりわき)・平鍛冶(ひらかじ)と組織化することで、大量の注文をさばいていた。年寄とは高齢者という意味ではなく、組織化された国友鉄砲鍛冶のトップに立つ家柄である。
しかし、太平の世になり、いくさがなくなると鉄砲の受注は激減する。また原料の鉄板や炭の価格も高騰し、鉄砲だけでは食べていけなくなり、鍛冶たちは鉄砲製造で培った技術をもとに、刀の鍔(つば)や縁頭(ふちがしら)などといった刀装具の象嵌技術や曳山の飾金具、仏具の制作などに活路を見出していった。長浜は花火が有名だが、鉄砲鍛冶たちは火薬の製造や調合の技術を生かして、芸術的な花火づくりにも取り組んだ。
一貫斎が生まれたのは、そんな時代だったのである。
近江から江戸へ 一貫斎のターニングポイントとなった「彦根事件」とは?
一貫斎の生い立ち
国友一貫斎は、鉄砲鍛冶年寄脇の国友藤内(くにとも とうない)とミワという女性の間に生まれた。年寄脇とは年寄の補佐役をする家柄である。9歳で家名(いえな:居住地や職業などによる家の呼び名)を継いで「藤兵衛(とうべえ)」と名乗り、17歳で9代目藤兵衛として鉄砲鍛冶年寄脇を相続した。
彼はどんな少年だったのだろう。今も残る生家のほぼ真向いに「星を見つめる少年」像が建っている。平成元年に設置されたもので、イメージは少年時代の一貫斎だ。国友藤兵衛家の長男として生まれ、父から鉄砲製造の技術を受け継ぎ、まじめに家業に励む一方、知的好奇心旺盛で想像力豊かな少年だったのだろう。しかし、現実にはけっこう周囲に気を使わなければならない窮屈な生活を送っていたかもしれない。年寄脇は年寄と鍛冶をつなぐ、いわば村内での中間管理職。いつの世でも中間管理職とは辛いものだ。
一貫斎の母・ミワは後に茶道家となった辻宗範(つじ そうはん)の姉であった。辻宗範は国友生まれの江戸中期の茶道家で、後に将軍家の茶道師範を務めた。遠州流茶道(小堀遠州の起こした武家茶道の一派)の奥義をきわめ、廃れていた遠州流茶道の復興に尽力し、和歌や俳句、書道、華道、造園などにもマルチな才能を発揮した人物である。このような人が叔父にいたことは、彼に少なからず影響を与えたことだろう。
一貫斎VS年寄 「彦根事件」勃発
さて、鉄砲鍛冶として立派に成長し、技術に優れた一貫斎は、文化8(1811)年、求められて彦根藩御用掛(ひこねはんごようがかり)となる。そして発注された大筒(おおづつ)を完成させる。この時、彼は34歳になっていた。鍛冶としても心身ともに充実していたところに自分の腕が認められ、「さあ、やるぞ!」と意気込んでいたにちがいない。
ところがこの状況に「待った」がかかった。かけたのは同じ国友鍛冶の「年寄」である。前にも書いたが国友は大量の鉄砲の注文を受けるために鍛冶たちを組織化しており、「年寄」はそのトップであった。幕府や諸藩から鉄砲の注文があった場合は「年寄」を通すことになっていたため、彼らはルール違反だと抗議したのである。これが一貫斎にとっての大きなターニングポイントとなる「彦根事件」の始まりだった。
「彦根事件」の背景
これだけ読むと「なんだ! それじゃあ、ルール破った一貫斎が悪いよね」と受け取られかねないので、彦根事件の背景をかいつまんで紹介しよう。
「戦国から太平の世に」で、一貫斎の時代には国友も鉄砲だけでは暮らしていくのは困難になり、技術を生かして象嵌や花火製造などの仕事もしていたと、前に書いた。それに加えて国友の組織内部でもいろいろと問題が起こっていた。「彦根事件」当時、国友鉄砲鍛冶は4人の年寄と9人の年寄脇、その他の平鍛冶で構成されていた。一貫斎の家は年寄脇であった。幕府からの注文とその代金の配分を独占していたのは4人の年寄で、彼らが自分たちの分け前の残りを年寄脇や平鍛冶に分配していたのである。
しかも彦根事件が起こる以前にも、国友では大事件が起こっていた。天明5(1785)年、1年間の江戸詰めを終えた年寄・善兵衛が国友に戻って来た際、彼は幕府からもらった代金の3分の1しか持って帰ってこなかったのである。どうしたのかと尋ねても使い道がはっきりしない。国友の鍛冶たちは善兵衛らを相手取って訴訟を起こし、判決は幕府の法廷にまで持ち込まれることとなった。この事件で国友に不信感を抱いた幕府は、国友への鉄砲の注文を減らし、その代金も減額されてしまった。これではとても鍛冶全員に満足な給金を支払うことは不可能だった。
長期間にわたり組織の改編もないまま同じ体制が続くと、自浄作用が働かず、腐敗が起こる。これは現代も同じである。一貫斎の時代には年寄の権威はかなり失墜し、彼らに対する不信感も拭えなかった。だからこそ、彦根藩も一貫斎に直に注文を出したのだろう。また、一貫斎にはそれにこたえるだけの人望と信頼があったと考えられる。
一貫斎は国友の改革者
既得権を侵された年寄たちは一貫斎を訴え、訴えられた一貫斎も江戸へ赴き、年寄側と7年にわたる争いとなるが、闘争の末に彼は勝利する。「彦根事件」の後、一貫斎は村の代表的立場となった。独裁支配を続けていた年寄たちは完全に没落し、鍛冶職人たちは彼らの腕と努力で報酬を得ることが出来るようになったのである。何より大きかったのは、鍛冶職人としての行動の自由を得ることができたことだろう。一貫斎は国友の改革者でもあった。
科学者・一貫斎、宇宙を観る
四次元ポケットは一貫斎の頭の中に 日本初の空気銃(気砲)を発明
年寄たちとの闘争は一貫斎にとっては迷惑な話であったが、江戸へ出たことは彼にとって大きな収穫だった。国友村にいてはとうてい会えないような大物知識人たちと知遇(ちぐう)を得ることができ、未知の文化に触れることで科学者としての才能が大きく花開いたのである。
彼の発明の数々は、「国友鉄砲ミュージアム」の「国友の偉人」のwebサイトに詳しく紹介されているので、ぜひご覧いただきたい。一貫斎を例えて「日本のエジソン」と紹介しているところもあるようだが、彼は製品化こそしていないが、空を飛ぶ乗り物の平面図まで描き、幕府にその構想を申し述べている。つまり、飛行機だ。こうなると「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」!? いやいや、それはさすがに大げさか…
でも、「江戸時代のドラえもん」ぐらいは言ってもいいだろうか? なぜなら彼は39歳の時に日本で最初の空気銃「気砲(きほう)」を創り出し、そのマニュアル本まで出版している。そもそものきっかけは友達の眼科医・山田大円にオランダから伝来した風砲(ふうほう:空気銃)のことを教えてもらい、江戸に出向いた際、大円の屋敷で風砲の実物を見せてもらったことだった。この風砲は壊れていたので一貫斎が修理にあたり、わずか1カ月で修理は完了した。これによって空気には重力があることを知った一貫斎は、より精巧な空気銃「気砲」の製作にとりかかり、成功したのである。彼の頭の中こそが、まさに「ドラえもん」の四次元ポケットのようだった。
一貫斎、天体望遠鏡と出会う
そのほか、行灯(あんどん)や灯明(とうみょう)よりも明るく、経済的なガラスの照明器具「玉燈(ぎょくとう)」、現代の筆ペンのような「懐中筆(かいちゅうひつ)」、一貫斎の遊び心が感じられる、油を自動的に補充する照明具「ねずみ短檠(たんけい)」、光を当てると鏡の裏の模様が浮かび上がる魔鏡(神鏡)など、暮らしに役立つユニークな道具を彼は数多く発明している。
しかし、なんといっても一番大きな業績は、自ら反射望遠鏡を製作して天体を観測したことだろう。文政3(1820)年、江戸から国友村に戻る1年前、彼は犬山城主・成瀬隼人正(なるせ はやとのしょう)の江戸屋敷で輸入された天体望遠鏡を初めて目にする。江戸滞在中に国学者の平田篤胤らと親しくなっていた一貫斎は、彼らから天体に関する知識を得たと考えられている。当時の知識人の間ではコペルニクスの地動説も紹介されるなど、宇宙や天体に関して興味を持つことはごく自然だったようだ。おそらく彼は目をきらきらさせて、天体望遠鏡を見つめていたことだろう。「いつかこれを超えるものを創り、宇宙を自分の目で確かめる!」この時、一貫斎は自分に誓ったのではないだろうか。
一貫斎、日本で初めての反射望遠鏡を完成
一貫斎が反射望遠鏡の製作に取り掛かったのは天保3(1832)年。彼が初めて天体望遠鏡を目にしてから、10年以上が経過していた。この時、一貫斎は55歳。壮年期を迎えていた。この間、彼は本業のほかにも先に挙げた数々の発明を成し遂げ、国友村で負っていた役割もあっただろうから、超多忙だったことだろう。
さて、反射望遠鏡とはどのようなものだろうか。反射望遠鏡は対物レンズ(光を集めて像をつくる)の代わりに対物鏡(真ん中が凹んだ凹面鏡)を使い、これが作った像を接眼レンズで観察する。天体望遠鏡の一種で、本格的な天文観測には対物レンズで見る屈折望遠鏡よりも反射望遠鏡を用いることが多いようだ。
一貫斎は取り掛かってからほぼ1年で反射望遠鏡を完成させ、天保4(1833)年10月11日に初めての天体観測を行っている。この時、月面のクレーターや木星の衛星二つに気づいている。彼が創った反射望遠鏡はかなり精度の高いものであったことがわかる。
天保6(1835)年1月6日から翌年の2月28日まで、一貫斎は太陽の黒点観察を連続216回(1日2回)行い、翌年には月・太陽・金星・木星・土星を図面に書き残している。
天体観測と並行して、彼は反射望遠鏡の改良にも取り組んだ。天保7(1836)年には米不足からくる米価高騰のために、彼は苦労して製作した反射望遠鏡を売り払い、国友家の経済的困窮を助けている。
一貫斎が遺したもの
一貫斎はすぐれた科学者だったが、その能力を自分のためだけに使おうとはしなかった。文政元(1818)年、老中・松平定信に依頼され、『大小御鉄砲張立製作控』という鉄砲製作の解説書を出版しているが、これは異例のことであった。なぜなら鉄砲の製作は秘伝とされてきたからだ。ライバルを増やさないための職人たちの取り決めだったのだろうが、一貫斎はこれを打ち破った。誰が見てもわかりやすいように、図入りで詳しく書かれている。現代風にいうなら、鉄砲の製作を標準化したと言えるだろう。反射望遠鏡などについても同様である。
鉄砲は人を殺傷するための武器だ。しかし、天体望遠鏡や懐中筆、玉燈などはそうではない。実際にこれらを発明したことで一貫斎がどれだけの利益を得たのかはわからない。だがものづくりをするうえで、一貫斎は気づいたのかもしれない。ただお金を儲けるだけでなく、人を幸せにするものづくりはもっと楽しいことを。
一貫斎は、天保11(1840)年12月3日、63歳で世を去った。天保という時代は大飢饉や百姓一揆に端を発する全国的な騒動、また「大塩平八郎の乱」や末期的症状を呈してきた幕府への批判を封じ込めるための「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」など、世の中は不安要素に満ちていた。
星になった一貫斎
平成30(2018)年、国友町や関係者により、「国友一貫斎再評価委員会」が発足。ぜひ、一貫斎の業績だけでなく、彼の真価を明らかにしてほしいし、国友の街についても再検証してほしい。良いことばかりではなかったにせよ、国友が歴史で果たした役割には大きなものがあるはずだ。
また平成3(1991)年には、滋賀県犬上郡多賀町にある「ダイニックアストロパーク天究館(てんきゅうかん)」の職員が、火星と木星の間を公転している太陽系の小惑星を発見。平成10(1998)年にこの小惑星は「Kunitomoikkansai」と名付けられた。まさに、国友一貫斎は星になったのだ。はるか彼方の宇宙から一貫斎は現代の私たちををどのように見ているのだろうか。
【取材・撮影・協力】
「国友鉄砲ミュージアム」〒526-0001 滋賀県長浜市国友町534 T/F:0749-62-1250
開館:9:00∼17:00(入館:16:30まで)年中無休 ※年末年始(12/28日∼1/3は休館)
【参考】
『国友一貫斎のプロフィールブック』長浜市長浜城歴史博物館
『長浜みーな vol.139 火蓋を切れ 国友鉄砲』