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2018.02.22

新薬師寺 十二神将・瓢鮎図〜ニッポンの国宝100 FILE 43,44〜

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

十二神将

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、天平塑像の傑作、「新薬師寺 十二神将」と禅の知的な謎かけ、「瓢鮎図」です。

日本最古の十二神将「新薬師寺 十二神将」

十二神将

奈良市高畑町にある新薬師寺は、天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建したと伝えられます。宝亀3年(772)には主要な伽藍がほぼ完成、金堂に7組の薬師三尊像と十二神将像の33軀が安置された壮大なスケールの寺院でした。しかし、応和2年(962)に台風で金堂と七仏薬師像が倒壊するなど、たびたび災難に見舞われ、寺域が縮小しました。

現在の本堂中央にある円形の土壇には、奈良時代末期から平安時代初期に造られた木造の薬師如来坐像(国宝)が安置され、その周囲を奈良時代後期に製作された塑像(粘土で形作った像)の十二神将像が取り囲んでいます。変化に富んだポーズと迫力ある表情の十二神将は、日本の十二神将像を代表する名作です。2体1組で対となる姿勢や、静と動など、対照的な造形で構成されていることも特徴といわれています。
 

十二神将は、病を癒やす仏として信仰を集める薬師如来の眷属(従者)。薬師を信仰する人々を護り、12方位を守護する12の天部(善神)です。忿怒の表情で仏敵を威嚇し、甲冑に身を固めて、武器や武具を手に持つ姿で表現されます。江戸時代の記録では、この十二神将像は近くにあった岩淵寺から新薬師寺に移されたとありますが、創建当初から新薬師寺にあった像である可能性も残されています。

大正時代の修理の際に、因達羅(迷企羅)像の台座から天平の年号と、「七世父母六親族のため」に造ったとの銘文が見つかり、12軀が天平年間(729~749)に造立されたことがわかりました。同時代の塑像の傑作である、東大寺法華堂(三月堂)の執金剛神立像や、同寺戒壇堂の四天王立像(ともに国宝)と同じ技法で造られていますが、官営工房で造られた東大寺の像とくらべ、私的な祈願のため造立されたと考えられるこの十二神将像からは、荒削りなエネルギーや、どこかユーモラスな親しみやすさが感じられます。

1軀は昭和初期の補作ですが、その他の11軀は天平塑造彫刻の傑作であると同時に、日本最古の十二神将像としても、きわめて貴重な群像です。

国宝プロフィール

十二神将立像

8世紀中頃 塑造 漆箔 彩色 11軀 像高153.6~170.1cm 新薬師寺 奈良

新薬師寺の本尊・薬師如来坐像の眷属として本堂に安置される塑造の十二神将像。うち宮毘羅(波夷羅)像は幕末の安政元年(1854)の大地震で損壊したため昭和6年の後補。11軀が天平年間(729~749)の作で、日本最古の十二神将像。

新薬師寺

禅問答を描く「瓢鮎図」

十二神将

靄に煙る水辺にひとりの男が立っています。前に伸ばした両手の先にあるのは瓢簞。足もとの小川には1匹のナマズが泳ぐ姿が描かれ、絵の上部はびっしりと文字で埋め尽くされています。この「瓢鮎図」は、「つるつるした瓢簞で、ぬるぬるした鮎を押さえることができるか?」という問いかけを絵に描き、それに対する回答を31人の禅僧が漢詩で寄せ書きしたものです。ちなみに「鮎」という字は中国ではナマズを指します。

描かせたのは、室町幕府4代将軍足利義持。3代将軍義満の子として生まれ、禅宗を重んじた歴代足利将軍のなかでも、とくに禅文化に傾倒した人物でした。義持は、禅寺へ参詣しては坐禅ののち詩を詠じたり、自邸に京都五山(南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の6寺)の禅僧を集めて庭園をめぐりながら漢詩を作るなど、禅僧らと知的な文化サロンを形成しました。

「瓢鮎図」の画題は、義持が禅の「公案」を念頭において出題したものといわれます。公案とは、禅の修行者に師から出される問いかけです。

義持は、新築した三条坊門(現・京都市中京区)の邸宅の調度として「瓢鮎図」を制作させました。公案に倣って難問を自ら作り、サロンに集まる禅僧たちが、いかに答えるかを競わせて楽しんだのです。

水墨画を描いたのは、幕府の御用絵師であった画僧・如拙(生没年不詳)でした。水墨画は鎌倉時代に中国から禅とともに伝わりましたが、室町時代には禅文化の隆盛とともに全盛期を迎えます。とりわけ義満が創建した臨済宗の禅寺・相国寺は、御用絵師を輩出するなど、室町画壇の中心として水墨画の発展に寄与しました。如拙はその相国寺の僧で、宗教的な人物画が多かった初期の水墨画から、山水図を中心とした新しい水墨画への転換を主導した画僧のひとりです。
「瓢鮎図」は、義持が高度な知的遊戯として自ら企画し、如拙が中国の新しい画法を取り入れて描いた類例のない水墨画でした。さまざまに解釈できる奥深い謎を秘めた作品として、日本絵画史のなかで異色の光を放っています。

国宝プロフィール

如拙 瓢鮎図

大岳周崇ら31僧賛 応永22年(1415)以前 紙本墨画淡彩 1幅 111.5×75.8cm 退蔵院 京都

室町幕府4代将軍足利義持が、瓢簞で鮎を押さえることができるか、という問いかけを、相国寺の画僧・如拙に絵画化させた水墨画。図上に31人の禅僧がその答えを記した漢詩がある。もとは小屛(衝立)であったが、後世、掛軸に改装された。

退蔵院