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2022.02.04

亡くなる日を歌で予言!ベストセラー歌人、西行のドラマティックな生涯

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「願いが叶うなら、春、満開の桜の木の下で、満月(2月15日)のころに死にたいなあ」

そうつぶやいた10数年後、自分が予告した日から1日だけ遅れて、2月16日に静かにあの世へ旅立つーー

そんな奇跡を起こした人物が、およそ800年前の日本にいました。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した歌人、西行です。

西行は多くの和歌を詠み、勅撰和歌集にも合計265首が採用されたベストセラー歌人。後に続く歌人に大きな影響を与え、能や落語、多くの文学作品の題材にもなっています。

魅力的な作品を多く残したんですね!

武士の家に生まれて将来を期待されながら、西行は23歳で突然、家も名誉も捨てて出家してしまいました。高貴な女性と禁断の恋に落ちて、思いを断ち切るため出家したという説もあり、その生涯はドラマティックです。

和歌の世界では真っ先に名前が挙がる有名人でありながら、謎も多い西行。その足跡をたどりながら、花と月をこよなく愛した西行の、歌の魅力をご紹介します。

23歳。高貴な女性との恋に破れて出家?

西行は1118(元永元)年、名門の武士の家に生まれます。「西行」は出家してからの呼び名で、もともとは「佐藤義清(のりきよ)」という名前でした。上皇を警護する「北面の武士」という役職について働き、蹴鞠や馬術にも優れていたようです。

結婚して二人の子どもがいましたが、23歳のとき、突然出家してしまいます。年をとり、人生の酸いも甘いも噛み分けた老人ならいざ知らず、前途ある若い武士がすべてを捨てて仏門に入ることは、当時の人びとにとっても驚きだったようです。『西行物語』や『源平盛衰記』という書物には「同僚が亡くなって世の無常を悟ったらしい」「いやいや、高貴な女性に叶わぬ恋をしていたんだよ」とさまざまな推測が書かれています。

「失恋説」を採用している『源平盛衰記』には西行の歌として、こんな和歌が紹介されています(この歌自体が、源平盛衰記の作者による創作であるという説もあります)。

思ひきや富士の高嶺に一夜寝て 雲の上なる月を見んとは

(高嶺の花だと思っていたあなたと一夜を過ごすことができるなんて、思いもよらないことでした。富士山よりもさらに高い、雲の上に浮かぶ月のように、あなたは私にとって遠い存在です)

西行が出家したのは、口にするのも恐れ多い高貴な女性に恋をしたためである、と源平盛衰記は伝えています。叶わぬ恋に身を焦がす西行に、相手の女性は「あこぎの浦ぞ」と言いました。その言葉を聞いた西行は恋をあきらめ、出家を決意したというのです。

「あこぎの浦」は、神様に捧げる魚を獲るための漁場です。一般の人が漁をすることは禁じられていました。ある漁師が、あこぎの浦でたびたび魚を獲っていたため、海に沈められてしまいます。この故事をもとに、人びとは「伊勢の海あこぎが浦に引く網も 度重なれば人もこそ知れ」という恋の歌を口ずさむようになりました。秘密の恋も、逢瀬がたびかさなれば人に知られてしまうよ、という意味です。

西行が恋をした相手の女性は、鳥羽天皇の中宮「待賢門院璋子(しょうし/たまこ)」とも言われています。璋子は幼いころからとても美しく、鳥羽天皇のおじいさんにあたる白河法皇にも寵愛されていました。恋愛について現代よりもかなり自由だった平安時代ですが、祖父と孫が同じ女性を愛するということはさすがに珍しく、このことが、後の歴史的大事件につながっていきます。

源平盛衰記の記述がどこまで真実なのかはわかりませんが、魅力的な姫君と若い武人の悲しい恋物語は、当時の人びとの心を惹きつけてやまなかったようです。

確かにストーリーが切なくて印象的です

煩悩を断ち切るため、4歳の娘を縁側から蹴り落とす!?

タイトルが衝撃的すぎる!どういうこと?

『西行物語』には、出家を決意した西行が、かわいい盛りの4歳の娘を縁側から蹴り落とすという残酷な場面が描かれています。

西行が家へ帰ると、娘が駆け寄り、袖をつかんできました。その姿をこの上なくいとしく思いながらも、これこそが出家をさまたげる「煩悩の絆」だと言って、縁の下へ蹴り落としてしまうのです。娘はなおも父を慕って泣きつづけたと西行物語は伝えています。この記述も真偽はわかりませんが、妻子のある若い武士が出家するということは、当時からそれほど重い覚悟が必要なことだったのかもしれません。

西行法師行状絵巻
出典:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)をもとに加工して作成

出家を決意した西行は、こんな歌を読んでいます。

そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひ立つかな

(心が春の霞のように落ち着かず、空へ向かって立ちのぼっていく。出家しよう、と思い立った)

「そら」は雲が浮かんでいる「空」だけではなく、空っぽである様子や、むなしさのような感情もあらわしていると考えられます。

「そらになる心」という歌いだしに、失恋の痛みや、娘を足蹴にするような葛藤の重さは、あまり感じられません。むしろ、春の空に向かって気持ちがどこまでものぼっていくような高揚感、迷いが吹っ切れた後の穏やかさがあるような気がしませんか?

悩んだ末に決意をした後って結構すっきりするもんね

「春風が花びらの布団をかけてくれる」ロマンチックな桜の歌

出家後の西行は、しばらくの間、東山や鞍馬、嵯峨など、都の郊外に庵を結んで暮らしていました。その後、2年間にわたり陸奥(現在の東北地方)へ旅をしています。

1149(久安5)年、西行32歳のとき、現在の和歌山県にある高野山の大塔が落雷で炎上するという事件が起こりました。その再建をきっかけに、西行は高野山へ入山。以降、およそ30年間を高野山を拠点として過ごします。と言っても、ずっと高野山に閉じこもっていたわけではなく、都や四国など各地へ旅をして歌を詠んでいます。

中でも西行がお気に入りだったのは、桜の名所として知られる吉野山(現在の奈良県)。今でこそ花の季節には多くの人が訪れる観光名所ですが、平安時代には、まだ知る人ぞ知る秘境でした。

木のもとに旅寝をすれば吉野山 花の衾(ふすま)を着する春風

(旅の途中、吉野山の桜の木の下で眠っていると、春風がそっと花びらの布団をかけてくれる)

情緒にあふれていて素敵!

修行中の身である自分のほか、人の姿もない山の中で満開の桜と出会い、花びらに抱かれるようにして眠る西行の姿が目にうかぶ、ロマンチックな歌です。単純に花の美しさをたたえることを超えて、まるで花に恋しているような歌いぶりですね。

あくがるる心はさても山桜 散りなんのちや身に帰るべき

(山に咲く桜の花を見ると、心がふわふわと体を離れて飛んでいってしまいそうだ。桜が散った後には、体に戻ってきてくれるといいのだがなあ)

吉野の桜に恋焦がれるあまり、西行の魂は肉体を離れて花と一心同体になってしまったようです。それにしても、先にご紹介した「そらになる心」の歌といい、西行の心は何かに夢中になったり深く思い詰めたりすると、すぐに体を離れて飛んでいってしまうのですね。ひとつの場所に長くとどまっていられない、生まれながら旅人の魂を持っていたのかもしれません。

自分の頭の中は私だけのものですものね

「心がどんどん澄んでいく」西行が愛した月の歌

桜とならび、西行がこよなく愛した和歌のテーマが「月」です。

歎(なげ)けとて月やはものを思はする かこちがほなる我が涙かな

(「なげきなさい」と言って、月が私に物思いをさせるのだろうか。そうではない。それなのに、まるで月のせいにするかのように、涙があふれてくるのだ)

百人一首に採用されている歌なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。西行の和歌を集めた『山家集』では「恋」の部に分類されており、ここでいう物思いは、恋の悩みのようです。

月を見上げると、いとしい人を思い出して涙がこぼれる。今夜の月が美しすぎるせい……なんて、何だかかぐや姫みたいですね。

西行が恋をテーマに詠んだ歌はその多くが「題詠」、お題をもとに作られた作品です。西行自身の経験をそのまま歌にしたというよりも、想像をふくらませて創作した可能性が高いと考えられます。この歌を詠んだとき、もしかすると西行の脳裏には、世を捨てる以前に経験したほろ苦い恋の記憶がよぎっていたかもしれません。

月の歌をもう一首、ご紹介します。

行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん

(月を眺めていると、心がどんどん澄んでいく。私はこの先、どうなってしまうのだろうか)

きれいな満月をじっと見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうな気持ちになることがあります。海外には、月を見るとオオカミに変身してしまう男の伝説がありますが、古今東西、月の姿には人の心をざわつかせる何かがあるようです。西行もまた、孤独な修行の日々の中でふと月を見上げ、心がどんどん透明になっていく感覚を味わったのかもしれません。

心のおもむくまま、安定した暮らしも、家族もすべて捨てて生きてきたけれど、自分はいったいどこへ向かおうとしているのか……と不安になる瞬間もあったでしょう。月や花の美しさを描写するだけでなく、自然によって引き起こされる心の揺らぎをありのままに詠むのが、西行の歌の古びない魅力だと思います。

いつの時代にも不安はあって、西行の歌はそういった感情にそっと寄り添ってくれる感じがしました

讃岐へ……崇徳院の御霊を慰める旅

1156(保元元)年、西行にとって衝撃的な事件が起こります。後白河天皇と崇徳院が皇位継承をめぐって争った保元の乱です。崇徳院は表向き鳥羽天皇と、西行と恋の噂があった待賢門院璋子の子どもということになっています。けれど、実の父は鳥羽天皇の祖父である白河法皇とも言われ、鳥羽天皇から疎んじられていました。崇徳院は幼くして天皇となりますが、異母弟に譲位させられ、鳥羽上皇をうらむようになります。

お互いに和歌を愛し、年齢も近かったことから、崇徳院と西行は歌を通じた交流がありました。保元の乱に敗れた崇徳院が出家した際も、西行は身の危険をかえりみず、崇徳院がいる仁和寺に駆けつけています。出家した身とはいえ、かなり大胆な行動です。

崇徳院は罪人として讃岐に流されることになりました。西行は「心をしずめ、修行に専念してください」という主旨の歌をたくさん書き送っています。崇徳院は熱心に写経をし、「寺に収めてください」と朝廷に送りましたが、呪いを恐れた後白河天皇から送り返されたと言われています。

朝廷から排除され、心をこめた写経すらも受け取ってもらえないーー。
『保元物語』によると、崇徳院は烈火のごとく怒り、爪を切らず髪も剃らず、舌を噛み切った血で「大魔王となって祟ってやる」と写本に書きつけて天狗になった、とも言われています。崇徳院が讃岐で亡くなった後、都では火事や謀反事件が相次ぎ、人びとは崇徳院のたたりではないかと噂しました。

歌のやりとりを通して崇徳院の真心にふれていた西行は、この結末をどんなふうに受けとめたでしょうか。崇徳院が崩御したのち、西行は讃岐へ、御霊を慰める旅に出ています。

よしや君昔の玉の床とても かからん後(のち)は何にかはせん

(陛下、もう終わりにしましょう。崩御された今となっては、たとえ昔のままの玉座にあられたとしても、それがいったい何になるというのですか)

崇徳院の魂に呼びかけるこの歌からは、西行の深い悲しみとむなしさがにじみ出してくるようです。

西行の自信作「鴫立つ沢の秋の夕暮」

1180(治承4)年、平清盛が平安京から福原へと遷都をおこなった年、西行は30年暮らした高野山を下り、以前から憧れていた伊勢の二見浦へと引っ越しをしました。6年後、69歳のときには、平家によって焼き討ちにされた東大寺を再建するため、「砂金を寄付してほしい」と奥州藤原氏に依頼する旅に出ています。

歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』によると、旅の途中、西行は鎌倉の源頼朝に会って、銀で作った猫の置き物をもらったといいます。高価な銀の猫を、西行は門の外で遊んでいた子どもにあげてしまいました。世間の常識や私欲にとらわれない、自由な性格が伝わってくるエピソードですね。

西行投猫図
出典:ColBaseをもとに加工して作成

北へ向かう西行が、湘南のあたりで詠んだとされる歌を見てみましょう(この歌が詠まれたのは、出家間もない20代の頃だったという説もあります)。

心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮

(出家して、もののあわれを感じる心とは遠く隔たっている世捨て人の私にも、シギたちが飛び立つ沢の秋、夕暮れのものさびしさがしみじみと感じられることだ)

シギは干潟や田んぼのような沼地に住む、くちばしの長い茶色の鳥です。シギが沼地でエサをとっている様子に、鶴や白鳥のような華やかさはありません。おそらく夕闇に紛れて、姿も見えなかったことでしょう。何かに驚いたのか、シギたちがいっせいに飛び立ち、あたりの静けさが破られます。はっとして顔を上げると、鳥の群れが飛んでいく山の稜線を、秋の夕日が赤く染めているーーそんな光景が目にうかぶようです。

西行自身、この歌の完成度の高さにはかなり自信を持っていたようです。勅撰和歌集『千載集(せんざいしゅう)』に自身の歌が複数選ばれていると聞いて、東北から京都へ向かった西行。途中の道で知人に会い、「『鴫立つ沢』の歌は千載集に採用されたでしょうか?」とたずねます。「選ばれていないようですよ」と聞き、がっかりして東北へ引き返してしまったという逸話が残っています。

「鴫立つ沢」の歌は、西行の死後『新古今和歌集』に掲載され、秋の夕暮れをテーマにしたすぐれた3首の和歌「三夕(さんせき)」の歌のひとつとして有名になりました。

あの世で喜んでるかな〜

和歌で亡くなる日付を予言

西行が奥州への旅の途中で詠んだとされる和歌を、もう一首ご紹介します。

風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな

(風になびく富士山の噴煙が、空にのぼって消えていく。その煙のように、私の思いがどこへただよっていくことやら、行方もわからない)

亡くなる2〜3年前に詠んだこの歌を、西行は「わが随一の自嘆歌」、つまり一番よくできたお気に入りの歌と語っていたようです。

花を見ては体を抜け出し、月を見ては不安になるほど透き通っていた西行の心は、ここでも煙のように大空へ舞い上がっていきます。西行は「漂泊の歌人」と言われますが、体だけではなく心も、時間や空間にしばられることなく自由に羽ばたいた人でした。

富士見西行
出典:メトロポリタン美術館データベースをもとに加工して作成

願はくは花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ

(願いが叶うなら、春、満開の桜の木の下で、お釈迦様が入滅した2月15日の満月のころに死にたいなあ)

60歳のころ、西行が詠んだ歌です。実際に西行が亡くなったのは、それから10数年が過ぎた1190(建久元)年2月16日。死ぬ日付までほぼ言い当てた見事な去りぎわは、西行という歌人の存在を伝説にします。

西行にとって桜という花は、ただ美しさを愛でるだけの存在ではありませんでした。見事に咲き誇り潔く散る、そのサイクルに生と死を見ていたのかもしれません。

若くして世を捨て、花と月を愛し、権力者の栄枯盛衰を見守り、膨大な数の和歌を後世に残して旅立った西行。歌集をめくり、時空を超えて語りかけてくる西行のことばに、耳をかたむけてみませんか?

西行の歌にふれてみたい方へ。おすすめの入門書

ビギナーズ・クラシックス日本の古典「西行」(角川ソフィア文庫)
コレクション日本歌人選「西行」(笠間書院)
白洲正子「西行」(新潮文庫)

【トップ画像】
後小松院本歌仙絵 西行法師
出典:ColBaseをもとに加工して作成

書いた人

北海道生まれ、図書館育ち。「言編み人」として、文章を読んだり書いたり編んだりするのがライフワーク。ひょんなことから茶道に出会い、和の文化の奥深さに引き込まれる。好きな歌集は万葉集。お気に入りの和菓子は舟和のあんこ玉。マイブームは巨木めぐりと御朱印集め。