今年は、イギリス史上最長の君主となっているエリザベス女王の在位70年(プラチナ・ジュビリー)となる年で、パレードをはじめ様々な祝賀行事が年間を通して予定されています。エリザベス女王の戴冠式は戦後1953(昭和28)年なので、日本海軍との関係はありませんが、エリザベス女王に次いで在位が長いヴィクトリア女王(1819-1901)の在位60年(ダイヤモンド・ジュビリー)にあたる1897(明治30)年に行われた祝典は、日本海軍と関係が深いので、これを紹介したいと思います。
ヴィクトリア女王在位60年式典まで残り1ヶ月半!時間がない中日本がとった方法は
1897年5月4日付で外務大臣の大隈重信はイギリス外務大臣からの書簡を受け取ります。それは、「女王在位60年祝典に際し観艦式挙行を決定した。日本政府からの将官旗を揚げた軍艦派遣を歓迎する」という招待状でした。祝典にともなう儀式は6月21日から28日、もう1ヶ月半しかない。こりゃ大変と、大隈大臣は直ちにこの書簡の内容を海軍大臣の西郷従道に伝えました。
観艦式とは各国の君主又は大統領が、軍艦上から海上の式場となる錨地に停泊する艦船の威容を観閲することで、最も荘厳なる儀式とも言われています。歴史的な起源は1341年イギリス国王エドワード3世が自らの艦隊を率いて英仏戦争に出征の際、その威容を観閲したときとされています。(『近世帝国海軍史要』より)
イギリスとは幕末からの親しい付き合いです。日清戦争後のフランス・ドイツ・ロシアによる三国干渉などで苦しめられている日本としては、イギリスに近づきたい思惑もあり(5年後には日英同盟が結ばれる)、それなりの敬意を示す必要がある。このため軍艦を派遣したいが、今から艦船を選定して渡英させるのには準備期間が短すぎて間に合わない。そこで海軍省は、イギリスの造船所に発注して建造中の戦艦「富士」に白羽の矢を立てました。
当時の日本は、ロシアが南進してくるという脅威に対抗するため、軍備増強を図ろうとするも、予算不足により、必要とされる軍艦を調達できない状況にありました。そのような中で「富士」は、明治天皇が自ら宮中費を節約し、さらに文武官の俸給10分の1を献金(要するに公務員と軍人の給料を1割減)することでようやく予算が認められ、イギリスの造船会社に発注して建造、完成間近となっていたのです。「富士」の日本への回航は、発注先のイギリスに任せるのではなく、自らの手で運航することになっており、すでに艦長以下230名余りの乗組員が渡英していました。
「富士」を観艦式前に一旦受領し、日本の軍艦である証として軍艦旗を掲げる。そして、便宜上常備艦隊(いつでも出動できる状態を維持している艦隊)に編入し、その旗艦に指定するという手続きを遠く日本で行いました。これで艦隊司令官が将官旗を掲げる軍艦という形が整ったわけです。そして終わっていない工事については観艦式終了後に施工することになりました。
加えて、海軍少将でもある有栖川宮威仁親王をこの祝典の日本側全権として出席させることで、皇室の面目も立ち、将官旗も掲げられるという一石二鳥の解決策がとられ、さらに随行員として前首相でイギリスに留学経験のある伊藤博文が随行することで政府からも祝典に参加という形も出来上がったのです。
戦前は男子たる皇族は軍隊に入ることになっており、威仁親王は1874(明治7)年に海軍兵学校に入校し、在学中のままイギリス東洋艦隊旗艦のアイアンヂューク(Iron Duke)で実習後、イギリス留学、帰国後は軍艦乗組みのキャリアを歩み、日清戦争では軍艦「松島」艦長として出征、明治29年海軍少将に昇任とともに常備艦隊司令官に任じられていました。そして、現職のまま在位60年祝典参加のため、フランスの郵便船に乗って渡英したのです。6月22日からロンドンでの式典や祝賀行事に出席し、25日にロンドンに近いポーツマス沖の観艦式会場に移動して「富士」に乗艦、そして26日の観艦式に臨むという計画でした。
このとき「富士」の艦長は、神様と呼ばれるほどの抜群の操艦技量をもつ三浦功(海軍大佐)です。三浦は、幕末には幕府海軍に所属し、1869(明治2)年の箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍の一員として軍艦「回天」に乗艦して政府軍と戦い、1875(明治8)年の初の遠洋練習航海には副長に次ぐ士官として乗艦、1890(明治23)年のトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件では、救難艦「八重山」艦長として尽力し、その功績によりトルコ政府から勲章を贈られています。明治天皇自らの宮廷費を節約してまで購入した新鋭戦艦「富士」の艦長として最適任の船乗りでした。
いよいよ祝典へ!
6月19日、「富士」は、一応完成して造船所内で日本側に引き渡され、直ちに軍艦旗を掲揚し、翌20日造船所を発し、21日に観艦式会場となるポーツマス軍港外スピットヘッドと呼ばれる海面へ向かいました。観艦式にはイギリス軍艦162隻、諸外国軍艦14隻が参加、各艦は5列に並んですでに所定の位置に錨泊しており、「富士」は、それらの艦船の間を堂々と航行し、指定の位置に投錨しました。その操艦は模範的で全く非の打ち所がなかったと言われています。そして「富士」の投錨後には歓迎の意味から「君が代」が軍楽隊乗艦の外国艦船上で演奏されました。
在位60年の祝典は21日から始まり、威仁親王はバッキンガム宮殿に王室用の馬車に乗って向かい、ヴィクトリア女王に謁し、明治天皇からの祝辞を述べ、刺繍屏風などの贈り物(目録)を披露しました。そして、女王からは御厚意に感謝するとの答詞を受けました。その夜はバッキンガム宮殿での公式晩さん会に出席し、翌22日はパレードが実施され威仁親王も女王の馬車の列に加わっての参加でした。この日、スピットヘッドでは、停泊中の全艦船が朝から満艦飾(数字旗、アルファベット旗を繋げて艦首からマストトップを経由艦尾へ掲揚したもの)を実施し、イギリス軍艦にあっては、礼砲60発を発射したと記録されています。国家元首に対する礼砲は21発なのですが、このときは随分派手にやったものです。
重要な儀式のとき、イギリスでは62発の礼砲を撃つとされていますが、このときは60周年を祝った60発だったようです。
24日威仁親王は、各国の王族等を訪問し、夜には舞踏会が催され、ロンドンでの行事は終りました。25日午前8時、ポーツマスに移動した威仁親王は、小汽船に乗ってスピットヘッドに向かい、「富士」に乗艦、その将官旗を前部マストに掲揚しました。そして「富士」は、イギリス艦隊司令長官を始め、オーストリア、イタリア、ロシア、フランス、ドイツ、スペイン、デンマーク、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、アメリカ、オランダの各外国軍艦と礼砲を交わしました。
翌26日ウエールズ親王(後のエドワード7世)を観閲官として観艦式が挙行されます。観艦式は、観閲官が乗艦するお召艦(Royal yacht)「ヴィクトリア&アルバ-ト」が、5列に並んだ各艦船の間を航過し、その際に各艦はウエールズ親王に対して最敬礼を表すというスタイルでした。当初威仁親王は、将旗を掲げた「富士」艦上で受閲の予定でしたが、イギリス王室の意向により、日本皇室からの貴賓としてウエールズ親王の乗艦する「ヴィクトリア&アルバ-ト」に共に乗艦して、観閲する側にいました。イギリス王室の日本皇室に対する親密な配慮が感じられます。そして夜は、電灯艦飾(イルミネーション)を実施しました。28日が女王の戴冠式記念日であり、正午に21発の礼砲を撃ち、夜間は再び電灯艦飾を実施し、これにより一連の行事は終了しました。
そして、「富士」は7月1日に出航し、ポートランドに投錨して、残りの工事を施した後、日本へ回航となりました。その後「富士」は、日本海軍の主力戦艦として日露戦争(1904-1905年)に従軍し、東郷平八郎連合艦隊司令長官の指揮の下、日本海海戦をはじめとして数々の海戦に参加しました。
日本でも盛大に!60発の花火が挙げられた
さて、この在位60年を祝う行事は、日本国内でも催されました。海軍の拠点となる鎮守府等(横須賀、舞鶴、佐世保、大湊、呉、そして台湾にも置かれていた)では、朝から満艦飾と21発の礼砲が発射されることになっていました。加えて、イギリス主催による祝典が日本に碇泊している諸外国軍艦を集めて長崎、神戸、横浜で行われることになり、日本海軍からも軍艦数隻が参加しました。
長崎では、イギリス、アメリカ、ロシア、フランスそして日本の5か国、8隻の軍艦(日本からは巡洋艦「済遠」)が参加しました。式典前日の21日にイギリスの士官が「済遠」に訪れ、翌22日は午前8時から満艦飾、そして正午に(在位60年ということで)礼砲60発を撃ってもらいたいという要望が伝えられました。通常の礼式では国家元首に対しては21発となっており、海軍の規則上も60発を発射することはできません。この要望は、ほぼ同じタイミングでイギリス東洋艦隊司令官から海軍省に、また横浜港、神戸港に集まった各国艦船に対しても同じように出されました。
現場では、イギリスだけでなく他の外国の軍艦も60発を発射すると云っており、日本だけがそれをしないのは不自然であるので、60発を撃つと決定しました。相前後して、海軍省も方針を決定し、イギリス側から要望があれば60発を撃つ、要望がなければ、たとえ同じところに碇泊しているイギリス軍艦が60発を発射したとしても、通常の21発にせよという指示が各鎮守府等に出されました。
さて、長崎では、22日正午、イギリス軍艦からの最初の一発を合図に、8隻が一斉に60発の礼砲を撃ち、さらに60発の花火が挙げられました。その様子は「あたかも万雷が一時に落ちたが如く焔煙は天を覆い港内は暗澹とした雲に埋まった」と記録されています。そのあとは、陸上の野球場を借りてイギリス人主催の祝宴、軍楽隊の演奏などを参加各国の軍艦乗組員らと楽しんだようです。
神戸でも60発の礼砲が発射されました。当時の新聞に「列国海軍の慣行する皇帝祝典賀砲の数は21発を以て成規と為せるも、今回は英国海軍より知照して60発を発射せられたしとあり、大祝典なるに付、異例の砲数60発を発射した」(朝日新聞6月24日)と記載されています。
横浜では、イギリス東洋艦隊司令官から事前にプログラムが示されました。
フランス軍艦2隻(Turemine、Primanguef) 60発
1分間を開けて
アメリカ軍艦2隻(Brooklyn、Omaha)60発
1分間を開けて
イギリス軍艦3隻(Audacious、Constance、Leander)60発
1分間を開けて
日本軍艦4隻(扶桑、高千穂、海門、筑紫)60発
1分間を開けて
ロシアの軍艦1隻(Vestuich)60発
つまり60発撃って1分間休んでまた60発が5回繰り返されるというもので延々と礼砲発射が続いたのです。現在では礼砲の発射間隔は5秒とされているので、それで計算すると約30分以上もの間礼砲が発射され続けたことになります。
さて、記録にはありませんが、イギリスで観艦式に臨んだ「富士」は何発撃ったのでしょうか。本国にお伺いを立てる遑(いとま)はなかったでしょうし、威仁親王一行はまだロンドンにいたので、撃つか撃たないは現場の艦長の判断です。操艦の神様と云われた三浦大佐、堅物のようで非常に柔軟なところもあり、その人物像からすると、何食わぬ顔でイギリス軍艦に倣って60発を撃ち、報告書には書かなかったと筆者は推測しています。
これ以後、イギリスでの観艦式に日本の軍艦が派遣されたのは、前国王が崩御し、新たな国王、すなわちエドワード7世(1902年)、ジョージ5世(1911年)、ジョージ6世(1937年)が即位した際の戴冠式に伴う観艦式です。このときのエピソードも機会があれば紹介したいと思います。日本海軍とイギリス王室は、男子たる王族・皇族が軍隊に入るという共通点により、関係が深かったのです。
参考文献:
広瀬彦太『近世帝国海軍史要』
威仁親王行実編纂会 編『威仁親王行実. 卷下』
宮内庁『明治天皇紀 第9』
大井昌靖「明治海軍『運用の神様』三浦功」『歴史群像 2021年2月号』
「朝日新聞(復刻版)明治編51」(日本図書センター)
「明治30年 公文備考」(アジア歴史資料センターよりダウンロード)