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2021.11.30

乗組員は各藩の寄せ集め!?どうなる、軍艦「筑波」~明治海軍初の太平洋横断編~

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清輝の欧州航海から遡ること3年、明治(1875)年に海軍の軍艦が初めて太平洋を横断しました。軍艦の名は「筑波」、イギリス海軍を引退してスクラップになるところを明治4(1871)年、日本海軍が購入し、現役復帰となった軍艦です。この航海は、実習員を教育するための初の遠洋練習航海でもありました。実習を受けたのは、明治海軍ができてから教育を受けた若者で、船を運航するとともに実習員を教育したのは、幕末に教育を受けた乗組員でした。その幕末の海軍教育の様子と、この航海でのエピソードを紹介したいと思います。

政府の軍艦はわずか3隻!その時政府がとった施策とは

明治2(1869)年5月、箱館戦争終結後、各藩から従軍した艦船はそれぞれの藩に戻り、その結果政府の軍艦はわずか3隻となりました。一国の海軍の軍艦が3隻では、およそ任務は果たせません。かと言って、軍艦を建造する予算は認められませんでした。そこで海軍は、軍艦を増やすために各藩からの献納という手段を取りました。明治2年に鹿児島(薩摩)藩が献納を願い出た記録が残っていますので、必ずしも政府からの強引な命令により召し上げたわけではないようです。

明治3年から4年にかけて鹿児島(薩摩)藩から春日・乾行、山口(長州)藩から第一丁卯・第二丁卯・雲揚・鳳翔、佐賀藩から日進・孟春、熊本藩から龍驤が献納され、広島藩に預けられていた摂津が返納されたことで軍艦は10隻増え、合計で13隻となりました。この献納は軍艦だけを政府に差し出したのではなく、それを動かす乗組員も一緒でした。つまり、政府は10隻の軍艦を乗組員付で(タダで)手にいれたのです。

『元帥加藤友三郎伝』 元帥加藤友三郎伝記編纂委員会 編 国立国会図書館デジタルコレクション

加えて、海外への長期航海が可能な船としてマラッカという船を購入しました。マラッカ(HMS Malacca)は、浦賀にペリーが来航した年にあたる嘉永6(1853)年にインドのボンベイにあるイギリス海軍の造船所で建造されました。その後、イギリス海軍によって地中海、北アメリカ、西インド、そして太平洋で運用され、明治2年に退役、スクラップとして解体のためにエドワード・バアテス(E. Bates)というイギリス人に売却されました。その2年後の明治4年8月、海軍はイギリスの仲介業者、さらには在日イギリス領事館と交渉し、このマラッカをバアテスから購入したのです。大河ドラマ『青天を衝け』で、陸海軍の予算を確保するのに渋沢栄一を怒鳴る大久保利通の姿がありましたが、大久保が怒鳴っても、軍艦を増やすための予算は中古船一隻分しかなかったということなのです。そして購入から1か月半を経てマラッカは、筑波と改称されました。当時の新聞にも改称のことが記事に載っていますので、世間の関心は高かったのでしょう。

厳しい財政状況だったんだ……!

意外!新政府の海軍の出身藩はバラバラだった!

各藩から献納された軍艦は乗組員も一緒だったことから、しばらくは、献納時のままの乗組員、つまり各藩単位で運用され、徐々に人員を交代させました。当初、艦隊司令官及び軍艦の艦長は、薩摩・長州・佐賀派閥の独占でした。筑波も購入直後は佐賀藩出身者が艦長でしたが、その後、旧幕臣が艦長となり、乗組員は士官も各艦からの寄せ集めのような状態で出身藩もバラバラでした。

そして、筑波は海軍士官の卵を養成する海軍兵学校の所属となり、練習艦として活躍し、明治8年12月北米への遠洋練習航海に出発することになりました。それは、明治海軍初の太平洋横断でもあります。過去に太平洋を横断したのは16年前の咸臨丸ですが、このときはアメリカ海軍の軍人が便乗していて、荒天下での運用作業などを助けてくれました。しかし、筑波は日本人だけでの運航でした。その運航に当たった士官とその出身藩は次のとおりです。

艦長 海軍中佐 伊藤 雋吉 舞鶴藩
副長 海軍少佐 福村 周義  棚倉藩
艦士 海軍大尉 三浦 功  静岡藩(幕臣)
艦士 海軍中尉 尾形 惟善 静岡藩(幕臣)
艦士 海軍中尉 新井 有貫  静岡藩(幕臣)
艦士 海軍中尉 町田実隆 薩摩藩
艦士 海軍中尉 山澄 直清  津軽藩 
二等艦士 海軍少尉 中溝為雄 松江藩
二等測量士 海軍少尉 柏原 長繁  津軽藩

艦士という職名は、この時代のみの呼び名で、一等航海士が5人いるようなイメージかと思います。艦士は武器、運用作業などを、それぞれ所掌していました。測量士は、天体を測量して船の位置を算出し、進むべき航路を示すのが大きな任務です。

これを見るに、出身藩は様々で、静岡藩出身すなわち旧幕臣が9名中3名で約3分の1です。そして、そのほかの士官の出身は、明治維新直後、新政府に反抗した棚倉藩(副長)、津軽藩(山澄と柏原)、新政府に恭順した舞鶴藩(艦長)、松江藩(中溝)でした。新政府の母体となった薩摩藩出身者は1名、長州藩・佐賀藩はゼロです。薩摩藩出身の町田は、龍驤(りゅうじょう)から、遠洋航海前に筑波に転入、帰国後は龍驤に戻りました。これは、初の太平洋横断の航海に薩摩藩出身者がいないので敢えて、臨時に乗艦させたと考えられます。

龍驤は「龍が天に昇るような様子」を意味するそうです。迫力ある名前!

こうしてみると、新政府の海軍は薩摩の海軍とか言われていますが、それは上層部のことであって、現場では、そのようなことはなく、出身藩構成は幕臣も含めバラバラで、薩摩藩・長州藩・佐賀藩の出身者が主要な士官を占めていたわけでもないのです。

大村益次郎に師事し、兵学・数学を学んだ艦長・伊藤

これら主要な士官は全員、幕末に海軍教育を受けていました。艦長の伊藤は、舞鶴藩の命により、海岸防衛のための砲台造りの知識を得るため、大村益次郎の鳩居堂(蘭学、兵学、医学を教授)に入塾し、ここで洋算の基礎を習いました。大村は後に明治政府に仕え、日本の近代兵制の創始者といわれています。箱館戦争が終結したのち、兵部省から舞鶴藩主経由で「海軍に係る意見を提出せよ」という命があり、これを受けて伊藤が提出した建白が認められて、その結果、明治2年3月海軍に採用され、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の教官となりました。伊藤は明治2年12月に、津藩から出仕した柳楢悦(ならよし)とともに兵部省の御用掛りとして水路測量の実務を担当し、ここで柳から多くを学びました。柳は安政4(1857)年に開所した長崎海軍伝習所でオランダ人教師に教育を受け、その後は幕府海軍による伊勢湾の測量に従事し、和算及び航海に必要な天測用六分儀の使用にも精通していました。

筑波で唯一の留学経験者・福村

副長の福村も長崎海軍伝習所で学び、その後オランダへ渡航、ここで海軍予備校に留学し、卒業後はイギリス、フランス、アメリカを回って各国の軍制を視察して帰国という、筑波で唯一の留学経験者でした。

艦士の中には戦闘経験があったものも

旧幕臣の三浦、尾形、新井の3名に加えて、津軽藩出身の山澄は、長崎海軍伝習所が開所された2年後に、ここで学んだ幕臣等を教官に据えて、幕府が江戸に開設した軍艦操練所で教育を受けました。三浦と尾形は、箱館戦争時には政府軍と戦闘を交え、とくに三浦は宮古湾海戦で回天に乗艦し、新政府の最新鋭艦である甲鉄と戦闘を交えた経験をもっていました。2人とも箱館戦争後は謹慎を経て海軍へ採用され、海軍兵学校の教官となっていました。

政府軍の甲鉄に回天が艦首から接舷した様子(宮古湾海戦、明治2年3月25日) 『近世帝国海軍史要』 海軍有終会 編 国立国会図書館デジタルコレクション

幕末は幕府だけでなく、諸藩にあっても軍艦を購入し、それぞれに学校を作って海軍教育が実施されていました。教官になったのは、長崎海軍伝習所、もしくは幕府の軍艦操練所で習った者でした。町田、中溝、柏原はそれぞれの藩が設立した学校で教育を受けました。

前回の記事で紹介した清輝(明治11年から1年3か月にわたって欧州を航海)は、明治になってから教育を受けた人材を応援士官として乗せ海外への長期航海に備えました。しかし、その3年前の筑波は、幕末に教育を受けた士官が主役だったのです。筑波には明治維新後に教育を受けた士官はいなかったのでしょうか。

海軍士官となる若者の教育は、明治2年に海軍操練所(後に兵学寮、兵学校と改称)で始まり、明治6年に2名が1期生として修業したのが最初で、2人とも筑波に一番若手の(下っ端の)士官として乗艦していました。そして2期生から4期生がこの航海の実習員で、兵学校を修業直後、もしくは在学中の生徒も含まれています。つまり、明治維新後に海軍教育を受けた士官はまだ卵の状態だったのです。

この航海で一気に殻をやぶることになるのかな〜ドキドキ

いよいよ日本人だけの太平洋航海へ出発

さて、その筑波の航海は、16年前の咸臨丸と大変似ています。太平洋を横断するのに38日(咸臨丸は37日)を要し、サンフランシスコに入港、復路はハワイを経由して帰国しました。大きな違いは日本人だけの運航であったこと。ただし、運用作業すなわち帆前の操作を指導するためにイギリス人教師(士官ではない)が3名乗っていました。これは16年前の咸臨丸の航海の際に帆前作業に難があったために念のために指導官として乗艦させたと思われます。なぜなら、このとき海軍兵学校の権頭(教頭)は「咸臨丸」で運用作業の責任者だった佐々倉桐太郎だったからです。そして明治8年11月6日に筑波は出航し、病床にあった佐々倉はこれを見届け、翌12月に息を引き取りました。

サンフランシスコの新聞に掲載された筑波と乗組士官の写真(上段の中央が艦長、その右が副長、左が三浦大尉) 『伯爵山本権兵衛伝(上)』 故伯爵山本海軍大将伝記編纂会 編 国会図書館デジタルコレクション
新聞に掲載されるくらい話題になったんだ!

航海の様子は柏原長繁が、明治16年発行の『水路雑誌第十二号』に寄稿しています。(一部を筆者要約)。

品川からサンフランシスコに至る最短コースは、アリューシャン列島の南をかすめるような円弧を描く航路であり、大圏航法といわれる(筆者注:この航法は現在の北米への航海にあっても使用される)。最短距離となるには北緯48度まで北上することとなり冬季は厳寒で暴風も多いので、北緯40度付近までとした。海の荒れたときの船体の傾斜は最大48度に達した。

明治13年、比叡のペルシャ湾航海では、38度傾いたと記録されていましたが、筑波は48度、これは壁と床が入れ替わったような傾斜です。このときの状況を副長の福村はサンフランシスコで新聞記者に対して、「2日間だけは猛烈な風に見舞われ、ここで遭難してしまうのではないかと思った」と語っています。そして、この筑波を取材した現地の新聞には次のように紹介されました。

咸臨丸は、1860年3月(筆者注:旧暦の万延元年2月)にサンフランシスコに入港したが、 これは日本の軍艦として初めて太平洋を横断した出来事であった。そのときの咸臨丸の様子は、当時の欧米海軍の軍人にとって全く恐れるものではなく、咸臨丸の乗組員の姿、諸動作を見て批判し、笑う者も多かった。それから約16年の時を経て、再び来航した日本の軍艦を見て、短い間に西洋海軍の様式を取り入れ、急激に進歩した姿に人々は大変驚いた。

ハワイへの移民のきっかけ?カラカウア国王に謁見

その後筑波は、1876(明治9)年1月20日、サンフランシスコを出航し、2月11日ハワイ(当時はサンドウィッチ諸島と呼んだ)のホノルル港に到着しました。ここで、筑波の艦長らはカラカウア(Kalakaua)国王に謁見することができました。国王の謁見は、清輝がトルコで苦労したような混乱はなかったようで、艦長をはじめとして10名もの士官が宮殿へと招かれました。そのときの様子を紹介します。

2月16日朝、王殿の近傍において火災があり、筑波は防火隊を派出し、火災の早期鎮火に貢献しました。そして、その日の正午、カラカウア(Kalakaua)国王の下へ、筑波の艦長以下10名(伊藤、福村、三浦、山澄、尾形、新井他)が宮殿に招かれました。門から宮殿までは、軍楽隊及び警護の兵おおよそ半大隊が整頓して、筑波の士官一行を迎え奏楽の演奏が行われました。

謁見においては、互いの挨拶の後、国王から日本からの移民をハワイにどうか、という勧誘がありました。ハワイへの移民の要請は、明治14(1881)年にカラカウア国王が日本を訪問したときに、明治天皇に対して、直接この移民のことについての話があったのが正式な要請とされています。しかし、その5年前の筑波によるハワイ訪問が、移民の空気を醸成する動機となったといわれています。この移民の話は、帰国後に「筑波」艦長から海軍大輔(次官)に次のような報告書が提出されています。

本艦が、アメリカへ航海した帰路のハワイ国ホノルル港在泊中、国王陛下に拝謁し、さらに陛下は本艦に来訪された。そしてハワイ政府の高官らに面会した際に話題になったことの多くは、ハワイの島民が年々減少していくことへの憂慮であった。そして日本からの移民を受け入れて、耕作に従事してもらうことで、生産量を拡大することができれば、一挙両得となるといった内容であった。そして、筑波が帰国したならば、その筋の上司に報告してそれが可能になるよう尽力してくれるように要望する旨を何度も聞かされた。その利害得失については、本職には予想できないが、ハワイ国が、これを渇望していることを報告しないわけにはいかないので、この度申し上げる次第である。
明治9年4月23日      筑波艦長
海軍大輔 川村純義閣下 殿

移民政策って結構昔からあったんだな……

筑波に外交権はありませんので、安請け合いはできないにしろ、現地の状況を的確に記した報告書といえるでしょう。この報告書は太政大臣へ上申されました。ちなみにハワイへの第1回の移民船は、この9年後、1885(明治18)年2月8日にホノルルに到着し、日本からの移民842名が上陸しました。

話しを元にもどして、筑波の艦長らが国王と謁見した後の2月25日、今度は、カラカウア国王が、筑波を訪問しました。そして、筑波では、戦闘訓練、小銃の操作訓練及び防火訓練を展示して、艦内を案内しました。国王は大変満足したようです。

ハワイでは100名近い水兵が上陸し市中を徘徊したものの、その品行が善良である事を多くの市民が目撃したとハワイ在住の領事から外務省経由で報告されました。

こうしてハワイでの碇泊行事を終え、筑波は日本へ帰還します。帰国後、実習員42名に対して、修業試験が、当時兵学校で教師として教えていたイギリス海軍のジョーンズ中佐により行われました。結果は合格者1名のみで、残りは不合格、とくに航海術の成績が悪かったようです。

ガ━━(゚Д゚;)━━ン!

不合格者は、「成績不良の者」と「成績甚だ不良の者」の二組に分けられ、成績不良の者は引き続き海軍兵学校で勉強、そして成績甚だ不良の者は、1~2名ずつに分かれて軍艦に乗艦し、実習継続となりました。無事に航海はできたものの、大きな目的である実習員の教育は所望のレベルに達していなかったのです。この教訓は次回の航海、それは西南戦争が終って間もない明治11(1878)年オーストラリアへの遠洋練習航海に繋がることとなります。機会があれば紹介したいと思います。

参考文献:
公爵島津家編輯所編纂『薩藩海軍史 下巻』(薩藩海軍史刊行會、1929年)
海軍兵学校『海軍兵学校沿革』(原書房、1968年)復刻版
水路局『水路雑誌第十二号』(1883年)
海軍教育本部編『帝国海軍教育史 第一巻』(原書房、1983年)復刻版
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(海軍有終会、1938年)
外崎克久『北の水路誌』(お茶の水書房、1982年)
大井昌靖「軍艦「筑波」明治海軍初の遠洋練習航海」『軍事史学』(2020年6月)
大井昌靖「明治十一年、『筑波』の豪州航海」『軍事史学』2021年9月)
大井昌靖「練習艦『筑波』と福村周義」『世界の艦船』(2021年2月号)

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。