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2022.05.12

華麗でダイナミック!そしてハンサム!日本画家・山元春挙の魅力に迫る【滋賀県立美術館】

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2022年6月19日まで滋賀県立美術館で、「生誕150年 山元春挙」が開催中です。日本画の大明神と評される、偉大な画家ですが、ぼんやりとした知識しかない私。学芸員のギャラリートークがあると知り、お邪魔させて頂くことにしました。展示の見どころなど、説明を聞きながら、一緒に回れる有り難い企画です。美術館で、このような催しがあるのは知っていましたが、今まで参加したことはありませんでした。

ロビー受付に到着すると、幅広い年齢の参加者が。いつもは、1人でふら~っと美術館に入ることが多いので、ちょっとどきどきしながら、展示会場へ向いました!

山元春挙とは?

入口の写真パネルが目を引きます。「ご覧のようなハンサムな方だったんですよ」と、ジョークを交えて話して下さるのは、学芸課主任学芸員の山口真有香さんです。確かに、大河ドラマに出て来てもおかしくないような、端正なお顔立ち。

山元春挙は現在の滋賀県大津市に生まれました。「幼い頃に近江商人の家へ養子に出されますが、元々好きだった絵の道への思いが強く、生家へ戻ります。そして11歳の時に京都の四条派※①の画家・野村文挙に師事し、「春挙」と言う号を授かり、画家への道を歩み始めます」と山口さん。

※①日本画の流派。開祖の呉春は円山応挙に学び、その後叙情的な四条派を開いた。円山四条派と合わせて呼ぶこともある。

山元春挙

2人の師匠のもとで磨いた古典的作風

春挙が13歳の時、突如文挙が東京へ移住してしまいます。京都に残った春挙は、円山派※②の森寛斎に師事することに。寛斎は京都画壇の大家で、当時すでに70代。春挙は師匠に代わって献身的に家事など身の回りの世話をしました。「絵の指導は厳しかったそうですが、とても温厚な師匠で、京都の町へ連れだって、よく出かけていたそうですよ」

元の師匠とも仲違いした訳ではなく、手紙をやりとりするなど、交流が続きました。絵のアドバイスも受けていたようです。春挙は周囲の人から愛される才能にも、恵まれていたのでしょう。

この時期の京都画壇は、明治13(1880)年に全国初の公立美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)を開校するなど、新しい展望を模索している時期でした。春挙は中国の故事や伝承を題材にした作品を発表し始めます。14歳にして、京都青年絵画研究会展に出品して一等褒条を受けるなど、若くして周囲から注目を集める存在でした。

※②日本画の一派。円山応挙を祖として写実的様式を展開。日本画の近代化に貢献した。

山元春挙『西王母之図』明治28(1895)年頃 滋賀県立美術館蔵 展示期間4月23日~5月22日

初期には、『西王母之図』のような古典的な作風の絵も描いていました。西王母とは仙女を表しています。人物と同じぐらい太湖石(たいこせき)からも、迫力を感じる絵です。

独立後、京都画壇で大活躍!

22歳の時に寛斎が亡くなると、春挙は独立します。そして精力的に作品を発表し、ますます評価は高まっていきます。春挙が活躍の場としていた京都画壇は、古くから写実的に描くことを重要視してきました。春挙は名声を得ても、変わらずに写生を熱心に行ったそうです。山口さんは写生帖を説明しながら、「筆が立つなあと感心しますね。残っているスケッチ画を見ても、画力の素晴らしさがわかりますね」

伝統的な手法を大切にしつつ、春挙は新しいことも貪欲に取り入れていきました。当時は大変高額だったカメラを購入して、写真を撮って風景画を描く時に利用していたようです。また、風景をパノラマ的に写生できるようにと、巻き取り式の写生機を考えて制作に役立てるなど、中々のアイデアマンの一面が感じられます。その写生機も展示されていて、とても興味深く感じました。

◎こちらの記事では、京都画壇について触れています。是非、お読み下さい。

桜真っ盛りの六本木で東京・京都・大阪の日本画を見比べる【泉屋博古館東京】

切磋琢磨した永遠のライバル、竹内栖鳳

春挙と同時代に活躍した画家と言うと、横山大観や竹内栖鳳(たけうちせいほう)が知られています。「栖鳳は春挙にとって、生涯のライバルでした。当時の京都画壇では若い画家がしのぎを削っていて、その中でも人気を二分していたようです」

春挙は明治37(1904)年に、京都府からセントルイス万博の視察を命じられ、渡米することになります。「アメリカ視察の時に、恐らくロッキー山脈について知る機会があったのでしょう。染織品の下絵として生み出されたのが、『ロッキーの雪』です」

山元春挙『ロッキーの雪』明治38(1905)年頃 髙島屋史料館蔵 展示期間4月23日~5月22日

当時、世界の博覧会に日本の伝統工芸作品を出品するのが流行していて、下絵を有名な日本画家に頼んで仕上げることが多かったようです。「この作品は、髙島屋が染織品を出品した時の下絵です。染織品は大英博物館に収蔵されています」

ちなみに、3部作となっていて、栖鳳が『ベニスの月』、都路華香(つじかこう)※③が『吉野の桜』を担当しました。「この作品から、後の作品に繋がる雄大さが出てきていますね」。確かに、日本画という枠を超えるダイナミックさを感じます。

※③四条派の流れをくむ画家。竹内栖鳳と同門。

◎竹内栖鳳についての記事です。こちらも、是非お読み下さい。

横山大観や竹内栖鳳の大作も!!近代日本画が楽しめる美術館4選!

帝室技芸員として、ますます豊かになる作品

弟子たちと登山に出かけて写生をしては、ダイナミックな作品を多く世に送り出していた春挙。代表作と言われているのが、『山上楽園』です。「上の方は、もやがかかった山を描いていますが、うっすらと虹が描かれているのがわかりますか?」

説明の後、参加者からは、「あー!」という感嘆の声が。1人だと見過ごしていたような細かい箇所も教えてもらえるのが、ギャラリートークの良さですね。大勢で絵画を見るのは、どこかエンターテイメントを楽しむ観客のような気分で、新鮮に感じました。

「画面左下には、小さく人物が描き込まれていますね。春挙自身と弟子かもしれません」。実際に登山をしているからこそ描けるリアルな表現と、遊び心を感じます。

山元春挙『山上楽園』大正11(1922)年 京都市美術館蔵 展示期間4月23日~5月22日

大正6(1917)年、春挙は帝室技芸員※④任命の栄誉にあずかります。皇室による美術工芸家の保護奨励が目的で定められた制度で、技量と人格とも優れた者が任命されるとされ、当時は、美術工芸界の最高の名誉でした。

山元春挙『春の海』昭和3(1928)年 愛媛県美術館蔵 展示期間4月23日~5月22日

『春の海』は、高松宮殿下成年式のために、祝賀の意を込めて描かれた作品です。「波の表現が細やかですね。六曲一双の横長の画面を使って、春の海を格調高く表現していると思います」。春挙の華麗な作品は、皇室にも愛されました。昭和天皇即位の時、大嘗祭(だいじょうさい)に用いられる悠紀主基地方風俗歌屏風(ゆきすきちほうふぞくうたびょうぶ)※⑤の制作を命じられます。一世一代の大仕事を、春挙は命がけで仕上げたそうです。

※④明治23(1890)年に定められた帝室技芸員制度によって任命。第2次世界大戦後、この制度は廃止された。
※⑤東西を代表する画家2名の制作が慣習で、川合玉堂と担当。春挙と川合は親しい友人でもあった。

伝統と新しさを併せ持つ春挙の魅力

山口さんがギャラリートークの最後に紹介して下さったのは、左右に並んだ屏風絵の『瑞祥(ずいしょう)』。「亡くなる2年前に描かれた作品です。春挙の技のエッセンスが詰まっていて、離れて引いて見ても、近づいて見ても楽しめますね。吉兆の前触れを表していて、空想の国のような、美しい世界が広がっています」。作品発表当時、大変な人気となって、大勢の人が観覧に詰めかけたそうです。

山元春挙『瑞祥』左隻 昭和6(1931)年 足立美術館蔵

「水の中に岩が映り込んで、水が澄んでいるのを表しています。水の透明感を日本画でここまで表現している画家はあまり見ないので、素晴らしいですね」

山元春挙『瑞祥』右隻 昭和6(1931)年 足立美術館蔵

昭和8(1933)年、春挙は61歳で亡くなります。ますますの活躍が期待されていただけに、人々に強い衝撃と悲しみを与えました。

多才で、にじみでる人間的魅力

ギャラリートーク終了後、山口さんに春挙の魅力について改めて聞いてみました。「技術の素晴らしさはもちろんなのですが、それだけではない魅力があると思います。とても一言では言い表せないですね。やはり実際に見てもらうのが一番だと思います」

ダイナミックな山や崖を多く描いた春挙。それだけではなく、禅への理解がうかがえる高僧を描いた作品や、油絵の技法をヒントにして描いた可憐な薔薇の作品など、バリエーションの豊かさも、展示から伺われます。

現在は、春挙について知る人が少ないのが残念だと、山口さんは話します。これから、ますます活躍という矢先に亡くなってしまったからでしょうか。初めて生の春挙の絵を見て、どの作品からも、なんというか温かい感じが伝わってきました。スケールの大きな温かみというか……。

私が作品から受けた印象を話すと、山口さんは春挙の人柄が伝わるエピソードを、教えて下さいました。「20代の頃から弟子が大勢いたんですが、とても慕われていたみたいです。人望も厚くて、京都画壇を代表するスター画家だったのだと思いますね」。自分が師から受けた温かい教えを、受け継いでいたようです。

絵の指導は厳しかったようですが、ユーモアも持ち合わせていたようで、「弟子たちと宿に宿泊すると、弟子のことを春挙と紹介して、自分は弟子だと言ったりしたみたいですよ」。ある時は、旅先で屏風に絵を描くことを頼まれると、足袋と肌着のぱっちを描いたのだとか。「おまけに『タビのぱっちははきずて』と書き入れて。旅の恥はかき捨てのしゃれですね」

山元春挙・玉舎春輝・植中直斎・三宅鳳白『果物図』昭和3(1928)年 滋賀県立美術館蔵

  
弟子たちと寄せ書きした珍しい作品も、展示されていました。取材旅行の宿泊先で描かれたようで、食後に出されたデザートだったのかもしれません。弟子たちとの微笑ましい関係性が伝わってきます。雄大で華麗な作品と共に、素顔が感じられる一面も見られて、すっかり春挙のとりこになってしまいました。

生誕150年 山元春挙

会期:2022年6月19日(日)まで
休館日:毎週月曜日
開館時間:9時半~17時(入館は16時半まで)
会場:滋賀県立美術館展示室3(滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1)
観覧料:一般1200円、高・大生800円、小・中学生600円
滋賀県立美術館公式ウェブサイトhttps://www.shigamuseum.jp/

※会期途中に展示替えあり
※滋賀県立美術館、笠岡市竹喬美術館、富山県水墨美術館を巡回します

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。