平家の栄枯盛衰を描いた全12巻の平家物語。その『平家物語』の前半の中心人物が平清盛(たいらの きよもり)です。
歴史にあまり詳しくない人だと、清盛は「権力を盾にやりたい放題しまくり、驕り高ぶる悪い政治家」というイメージがあるでしょうが、それは『平家物語』の清盛のイメージです。実際にどんな風に書かれているのか、読んでみましょう!
巻第1
そもそも『平家物語』とは? という方は、まずはこちらの記事からどうぞ。
無数の死を描いた『平家物語』ってどんな話?3分でわかりやすく解説!
禿髪
清盛は仁安3(1168)年、清盛51歳。清盛は病気にかかってしまい、回復を願って出家をしました。その甲斐あってか全快します。そして平家の栄華は極まって、清盛の妻の兄である平時忠(たいらの ただつな)は「平家にあらずんば人にあらず」などと言うしまつ。
そして清盛は平家の悪口を言う者がいないか厳しく取り締まっていました。14歳~16歳の子どもを300人集め、髪を禿(かむろ=おかっぱ)に切りそろえ、赤い直垂(ひたたれ)を着せて京都中に放ちます。平家の悪口を聞きつけると、家に押し入って家財を没収し、家主を縛って清盛の屋敷へ連れて行きました。
祇王
清盛はお気に入りの白拍子たちにも、酷い仕打ちをします。詳細は前回の記事を参照。
東宮立
仁安2(1170)年、6歳の憲仁(のりひと)親王が皇太子となり、翌年に高倉(たかくら)天皇として即位しました。新しい天皇の母は平家一門なので、平家はますます勢いを増します。
殿下乗合
平重盛(たいらの しげもり)の回でも紹介したエピソードです。
清盛の孫が摂関家ともめ事を起こし、清盛はその仕返しに、自分の部下の武士を使って相手を襲いました。「これが世の乱れの始まり」と書かれています。
鹿谷
嘉応3(1171)年、高倉天皇は7歳で元服し、17歳になる清盛の娘・徳子(のりこ/とくし)が嫁ぎます。
そして左大将・右大将の座が空き、貴族たちはこぞってこの座を狙いました。しかしその座に着いたのは清盛の息子たちです。
藤原成親(ふじわらの なりちか)はこれを恨み、鹿谷(ししがたに)山荘で打倒清盛の計画を立てました。その場に呼ばれた人物の中には、後白河法皇もいました。
巻第2
2巻は鹿谷の陰謀に加わった人の顛末を描きます。
西光被斬
貴族たちの打倒平家の計画に不安を抱いた武士・多田行綱(ただ ゆきつな)は清盛に密告しました。そして首謀者だった藤原成親と、天台宗のトップに立つ西光(さいこう)という僧が捕らえられます。西光は激怒する清盛に向かってさらに罵声を浴びせ、斬殺されてしまいました。
小教訓
清盛は藤原成親を監禁しますが、息子の重盛に説得されて解放します。
教訓状
さらに清盛は後白河法皇も軟禁しようとしますが、これも駆けつけた重盛によって諫められます。
烽火之沙汰
重盛はさらに言葉を重ね、後白河法皇と清盛の板挟みに苦しんでいる状況を明かしました。それを聞き清盛も強行することはできませんでした。
巻第3
鹿谷の陰謀の他の首謀者、藤原成経(ふじわらの なりつね)・平康頼(たいらの やすより)・僧の俊寛(しゅんかん)は、鬼界島(きかいがしま)に島流しにされました。
ちなみに、鬼界島とは南の島を指す一般名詞で、現在の鹿児島県の薩摩硫黄島(さつまいおうじま)もしくは喜界島(きかいじま)とされています。
赦文
鹿谷の陰謀から2年経った、治承2(1178)年、清盛の娘・徳子が高倉天皇の子を懐妊しました。その恩赦として清盛は成経と康頼を赦す事にしましたが、俊寛は赦しませんでした。
御産
徳子は無事、男児を出産します。清盛の喜びようは尋常ではありませんでした。
公卿揃
しかし、人々は「今回のお産は不吉だ」と噂しています。そんな中、清盛の屋敷には多くの貴族がお祝いに訪れました。
大塔供養
平家出身の皇子の誕生は、清盛の厳島(いつくしま)信仰のおかげです。昔、清盛がお告げを受けて厳島神社の大塔を修理したご利益でしょう。
医師問答
重盛が重い病となってしまい、清盛は名医を差し向けます。しかし重盛は治療を拒み亡くなってしまいました。
大臣流罪
平家唯一の良心と言われていた重盛を亡くし、清盛の暴挙を止める人はもういません。政治ライバルの大臣や貴族を次々に流罪にします。
行隆之沙汰
一方で、自分の思い通りに動く者は積極的に取り立てて大臣にし、その恩恵に預かりました。
法皇被流
さらに清盛は、後白河法皇を捕らえて監禁してしまいました。
城南之離宮
そんなこんなで好き放題して、清盛は福原へ帰って行きます。後白河法皇は離宮で寂しく年を越し、治承4(1180)年を迎えました。
巻第4
治承4(1180)年、何が起こったかと言えば……そう、源頼朝が打倒平家の旗を掲げた年です!
同年2月、高倉天皇は、徳子との皇子・安徳(あんとく)天皇に譲位し、平家は外戚として権威の絶頂に達します。4月になると以仁王(もちひとおう)も挙兵しました。
鼬之沙汰
重盛が亡くなって、代わりに嫡男となったのが宗盛(むねもり)です。宗盛のとりなしで、清盛はようやく後白河法皇の幽閉を解きました。そして以仁王が挙兵した知らせが届きます。
巻第5
以仁王の挙兵は失敗に終わります。以仁王は討死し、協力者だった源頼政(みなもとの よりまさ)も自害しました。
そして清盛は安徳天皇を福原に移住させ、福原を新しい都とし、後白河法皇も福原に監禁しました。
早馬
相模国の住人、大庭景親(おおば かげちか)から8月17日に頼朝が挙兵し、石橋山で敗北したことが報じられました。これに対し清盛は大激怒します。
五節之沙汰
挙兵した頼朝を倒すために、清盛は東国へ向けて兵を送り出します。ところが平家軍は水鳥の羽音を源氏軍の夜襲と勘違いして逃げかえって来ました。清盛は激怒します。
都帰
清盛の福原遷都は批判が多かったため、結局平家一門は京の都へと帰って来ました。これは、南都(奈良県)北部の寺社からの圧力を避けるためでもあり、清盛は奈良へ兵を差し向けます。
巻第6
いよいよ、清盛の最期の時がせまります。
奈良を攻めた平家軍は、うっかり大仏までも焼いてしまいました。年が明けた治承5(1181)年、高倉上皇も病に伏し、そのまま亡くなってしまいます。
小督
亡くなった高倉上皇は、徳子以外にも可愛がっていた少女がいました。しかしその少女が世間からの心無い噂話や非難を浴び、病で亡くなると大いに嘆き悲しみます。
それを見かねて、小督(こごう)という女性が高倉上皇の側に侍り、寵愛を受けました。
しかし小督は元々は藤原隆房(ふじわらの たかふさ)の愛人でした。そして隆房の妻は清盛の娘です。
清盛は「高倉上皇と隆房、2人の婿を小督に盗られた!!」と憤慨します。これを知った小督は失踪してしまいました。高倉上皇はなんとか小督を探し出しましたが、清盛の怒りに触れて尼にされてしまいました。
廻文
高倉上皇が亡くなって間もないのに、清盛は息子を亡くした後白河法皇を慰めようと、18歳になる自分の娘を差し出しました。これはとてもよくないと人々は噂します。
入道死去
信濃で木曽義仲が挙兵し、そこから一気に平家に対する反発が全国へと広がりました。朝廷が重んじる寺社の一つ、熊野大社も源氏側についてしまいます。嫡男の宗盛が東国へ挙兵しようとした前夜、清盛が重い熱病にかかりました、その様子がこのように書かれています。
水さえも飲めず、体内から火を焚いているかのように熱い。休んでいる部屋に入った者も熱くてたまりません。清盛は「熱い……熱い……」とうわごとを繰り返すばかり。水風呂に入れたらお湯が沸き、水を掛けてもすぐに蒸発してしまう。まれに体にあたった水が燃えたので、黒煙が屋敷中に広まって、炎が渦巻いていた。その様子はまるで焦熱地獄の描写そのものだった。
さすがに一瞬で水が蒸発したり、発火するのは盛りすぎでしょうけれど、すさまじい発熱だったのでしょうね。当時を生きていた公家の日記にも「清盛、頭風(ずふう=頭痛の発作)を病む」「動熱悶絶の由という噂がある」と書かれています。
さらに、清盛の妻は清盛が無間地獄に落ちてしまうという夢を見ました。
そんな絶望的な状況の中、清盛は苦しそうに最後の言葉を伝えました。
「ただ一つ思い残す事は、頼朝の首を見る事ができなかったことだ。私が死んでも供養をしてはならない。そんな暇があれば、すぐに討ち手を伊豆に向かわせて、頼朝の首を私の墓前に供えよ。それこそが何よりの供養だ」
そしてその2日後、清盛は悶え苦しみながら亡くなりました。
本当に因果応報だったの?
『平家物語』では悪行の限りを尽くし、その報いのように悶え苦しむ最期を迎えた清盛。それは一見、因果応報・自業自得のように思えます。
しかし、これはあくまで物語です。『平家物語』の描写をもって、清盛を極悪人とするのは慎重になった方が良いでしょう。もしかしたら、「こんな地獄の苦しみを味わうような最期を迎えるからには、それ相応の悪行をしたに違いない」という、因果が逆になっている可能性もあります。
現に、当時の公家の日記には義理堅く人情に篤い清盛の姿も描かれていて、その政治手腕を高く評価しているものもあります。『平家物語』でも清盛の存在がいかに大きなものだったかが描かれています。
そんな強大な存在でもいつかは死んでしまう。清盛の人生や存在は、『平家物語』のテーマである諸行無常の「あはれ」そのものかもしれませんね。
関連人物
主君: 崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇
父:平忠盛 母:後白河法皇の女房
兄弟:家盛、頼盛、忠度、他
妻:高階基章の娘、平時子、他
子:重盛、宗盛、知盛、重衡、徳子、他