承久の乱に負けてしまった後鳥羽院は、出家して隠岐に流されることになりました。その時の様子を『慈光寺本承久記』では、こう書いています。
後鳥羽上皇の移送ルート
後鳥羽上皇は罪人のように、逆向きで輿に乗せられた。
当時、罪人は後ろ向きに輿に乗せられて移送されていたんですね。酔っちゃいそうです。
2週間ほどかけて出雲国まで行き、船で隠岐島に渡りました。『慈光寺本』に書かれているルートを見ると、なんか中国山地を越えてるんですよね。
なんでこのルートを取ったのでしょうか。輿を担ぐ人大変そう……。
後鳥羽上皇と藤原能茂、そして藤原殖子の和歌
隠岐に向けて船を出すのに、風が収まるのを待っていました。実際にこの海域は荒れ易いそうです。
その時、海の波風の音が凄まじく、後鳥羽上皇の心はさらに乱れ、ついにシクシクと泣き出してしまいました。そして後鳥羽上皇は歌を詠み、藤原能茂(ふじわらの よしもち)が返歌します。この時の歌の内容は藤原能茂の記事で紹介しましたが、心が大きく動くと歌を詠むのはさすがやんごとなき身分の人といった感じがします。
後鳥羽上皇と藤原能茂の和歌のやりとりは、後鳥羽上皇の母である藤原殖子(ふじわらの しょくし/たねこ)に伝えられます。そこで殖子さんが詠んだ歌がこちら。
神風や 今ひと度は 吹き返せ みもすそ河の 流れ絶えずは
まず「みもすそ河」と言うのは、伊勢神宮を流れる五十鈴(いすず)川の別名です。そして伊勢神宮は、天皇家の先祖と言われる天照(あまてらす)大神を祀る神社です。だからみもすそ河には、単に川という意味ではなく、代々流れてきた天皇の血筋を指す言葉でもあります。
ちなみに「神風」というと、元寇の時に吹いたという神風を思い出す人もいるでしょうが、承久の乱はそれよりも前の事なので、「伊勢神宮の神様が吹かせる風」という意味です。
その事を踏まえて現代語訳をしてみると……。
五十鈴川の流れが絶えないように、天皇家の血筋がこの先も絶えないというのなら、神風が吹いてお前を押し返してくれればよいのに……。
と、いう感じですね! 高貴~!
順徳上皇の和歌
後鳥羽上皇の息子である、土御門(つちみかど)上皇は土佐へ、順徳(じゅんとく)上皇は佐渡へと流されます。土御門上皇は覚悟を決めて行ったためか、さらりと書いてあるだけですが、順徳上皇はその心情がたっぷりと描かれています。
順徳上皇のお世話をするためについてきた2人のお伴のうち、1人が病気に罹ってしまい、京へと帰る事になりました。その支度をしているお伴の横で、順徳上皇はぼーっと空を眺めていると、都の方へ飛んでいく雁の群れが見えます。順徳上皇は「これに返歌してみせてよ」とお伴に歌を詠みました。
逢坂(おうさか)と 聞くも恨めし なかなかに 道知らずとて 帰りきねこん
逢坂というのは、京がある山城国と隣の近江国の県境にある関所で、旅人を読む歌によく出てきます。つまり、現代語訳するとこんな感じです。
あの雁の群れはどこに飛んでいくのだろう。逢坂の関を通り越して京へ帰るなんて、羨ましいを通り越して恨めしいや。道が解らなくなってここに帰ってくればいいのに……。
ヒェッ! 順徳上皇、しっかり!
順徳上皇と九条道家の長歌
順徳上皇は、自分の補佐役だった左大臣・九条道家(くじょう みちいえ)に手紙を書きます。長いのでまとめると。
ここは寂しい。早く帰りたい。
でも、みんな私の事嫌ってるんでしょ? そんな都に帰っても辛いだけ。
もう死にたい……。ぴえん。
いわゆる病みメール!! この手紙を見た人もドン引きしました。
そして九条道家さんの返事も、長いのでまとめてみると……。
わかる~。私も順徳ちゃんに会えなくて超さびしい~。
でももう左大臣じゃないから、いつ順徳ちゃんが許されて帰ってこられるのか、見当すらつかないんだ。
死にたいぐらい悲しいけど、また順徳ちゃんに会える日を夢見て生きてみるね!
この返事、何が凄いって「病みメールへの返事の模範解答」なんですよ。相手の内容を否定もせず、肯定もせず、自分ができること、できないことを明確に線引きをして、自分の気持ちのみを伝える。
しかも長歌自体も数々の技巧を凝らしていて、和歌に詳しい人にこの長歌の解説記事を書いてもらいたいぐらいなんですよ!! 巧みすぎて私ごときの古典知識と和歌への造詣じゃ無理!! 誰か! お願い!
ほんとスゴイんで原文読んでみてください。これが……和歌が政治の一部だった時代に左大臣まで上り詰めた男の和歌力とメンタル・マネジメント……。勝てない。令和の一般人じゃ一生勝てない……。
打ちひしがれながら、次回に続きます。
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