アニメ『平家物語』では主人公である「びわ」と喧嘩友達だった平資盛(たいらの すけもり)。コメディリリーフ的な役割を担いながらも、父と祖父の死に打ちのめされた兄の姿を見て覚悟を決めた彼にグッと惹かれた人も多かったでしょう。
では原作ではどのように描かれているのでしょうか。
巻第一
資盛は清盛(きよもり)の孫で、重盛(しげもり)の次男にあたります。生まれた頃にはすでに源氏の棟梁は討ち取られていて、物心つく頃には祖父が政治の中心でした。
元服するのも早く、8歳(あるいは5歳)の時には兄の維盛(これもり)よりも先に従五位下(じゅごいのげ)という官位と、越前守(えちぜんのかみ)という官職を貰っています。
殿下乗合
嘉応2(1170)年、摂政の松殿基房(まつどの もとふさ)は牛車に乗って内裏(だいり=天皇の住まい)に向かっていました。そこに鷹狩から帰って来た資盛の牛車がバッタリと出会います。
松殿の付き人たちは、「お前は何者だ。摂政のお出ましなのだから、乗り物から降りなさい。無礼であるぞ!」と攻め立てました。しかし資盛は平家の威光を鼻にかけていて、御供の者たちもみんな二十歳にもならない若造ばかりだったので、「下馬の礼」をしないどころかそのまますれ違おうとしました。
そこで松殿の付き人は資盛たちの牛車を無理矢理止めて、ボッコボコにしてしまいました。辺りは暗くなっていたので相手が資盛である事がわからなかったのです。
資盛はやっとのことで清盛の所に行きます。孫に酷い仕打ちをした松殿に、清盛は激怒しました。重盛は「それは資盛が悪い」といさめたのですが、清盛は松殿に仕返しをしました。
巻第九
父・重盛の死、祖父・清盛の死により、平家の立場はどんどん悪くなっていき、とうとう木曽義仲(きそ よしなか)によって京都から追い出されてしまいました。
しかしその木曽義仲も、朝廷との折り合いが良くありません。朝廷は鎌倉幕府に「木曽義仲を討ち取れ」と命令します。
鎌倉幕府は木曽義仲を討ち取って京都に入り、今度は「平家を討ち取れ」という命令を受け取りました。
三草合戦
一方その頃平家は、清盛の法要のため、福原(現・兵庫県神戸市)にいました。鎌倉軍が攻めて来ることを知った平家は、資盛を総大将として三草山に陣を張って待ち受けます。
あたりはすっかり暗くなっていたので、資盛は戦は明日になるだろうと判断し、合戦に備えて眠ることにしました。ところが、鎌倉軍は夜のうちに攻めて来たのでした。
巻第十
三草山、そして一ノ谷で大敗した平家は多くの犠牲を出しながらどうにか逃げ延びます。しかし資盛の兄維盛は、世を儚んでひっそりと入水しました。
三日平氏
維盛の最期を見届けた家人は、資盛に報告しました。
「ああ、情けない。私は兄上を頼りにしていたのに、兄上は私を頼ってはくださらなかったのか」 そう呟き、資盛は家人に「兄上は私に何か言っていなかったか?」と尋ねます。
家人は維盛の最期の言葉を伝えました。
「私をとても頼りなく思うだろう。それだけを心苦しく思う」
そして後に残された資盛に託すように、平家の家宝である鎧や太刀の事を細々と伝えます。それを聞きながら資盛は「私も生き残れる気はしないよ」と言って泣き出してしまいました。
巻第十一
平家が拠点とした八島が攻められ、資盛たちは再び西へ西へと逃げます。そしていよいよ壇ノ浦の戦いが始まりました。
平家は追い詰められ、三種の神器と安徳天皇が壇ノ浦の底へと沈んでいきます。
能登殿最期
そして平家は次々と壇ノ浦へ身投げしました。資盛は弟の有盛(ありもり)と、従兄弟の行盛(ゆきもり)と手を繋ぎ、一緒に海中へと沈んでいきました。
実際の資盛
『平家物語』では、最初は平家である事を鼻にかけておごっていた資盛。しかし父の死・祖父の死・兄の死を経たことで、平家の一員としての誇りを得て、その生涯をしっかりと踏みしめて生きていたように思います。
では実際の資盛はどんな人物かというと、和歌が上手く、同年代の女流歌人である「建礼門院右京大夫(けんれいもんいん うきょうの たいふ)」との恋愛が有名でした。
彼女は資盛の叔母である徳子に仕える女官で、自身の恋を歌った『建礼門院右京大夫集』という歌集を作っていました。資盛の死後は供養の旅に出たそうです。
『平家物語』と一緒に『建礼門院右京大夫集』を読むと、より資盛の事がわかってくるでしょう。