「タカヂアスターゼ」(消化剤)、「アドレナリン」(止血剤)、「アスピリン」(鎮痛剤)。これらの医薬品の共通点は、発明から100年以上経っても利用されていること。そして、このうちの「タカヂアスターゼ」「アドレナリン」を発明したのが、科学実業家の高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854~1922)。科学実業家と書きましたが、彼の活躍はそれだけではありません。そんな彼の生涯をお伝えします。
医学に進むはずが、化学の道へ
医師であり化学者であった父
1854(嘉永7)年、越中国高岡(現、富山県高岡市)に、代々続く町医者の長男として生まれた高峰譲吉。父精一は蘭学(※1)にも優れた内科医。医学だけでなく化学の知識も備えていました。
譲吉が1歳になる前に、家族は加賀国金沢(現、石川県金沢市)に移住。精一が加賀藩の舎密方(せいみがた)という、化学技術の研究・開発をする部署に招かれたためです。これを機に武士身分を得て、のちに御典医(将軍や大名などに仕える医師)になりました。
※1 オランダを通じて伝わった、西洋の文化・学術を研究した学問。
11歳で長崎へ留学
藩校「明倫堂」に入学した譲吉は、1865(慶應元)年、11歳で長崎に留学。メンバーの中では最年少だったので、いかに成績優秀だったかわかります。
長崎を皮切りに、京都と大阪でも学んだ譲吉。大阪で化学に興味を持ちました。自分は長男だから「家業を継がないと」と迷いもありましたが、最終的に化学を選択。1872(明治5)年、工部省工部大学校(現、東京大学工学部)に官費修技生(政府から学費が支給される学生)として入学。譲吉が学んだのは、「応用化学」。基礎理論の「化学」ではなく、社会に役立つ新しい物質の研究・開発を行うものでした。6年間しっかり学び首席で卒業。本当に、優秀ですね。
英国留学~農商務省の役人へ
1880(明治13)年、26歳の譲吉は政府の派遣留学生となり、3年間の予定でスコットランドの大学に留学。工業化学や応用化学を学びました。それ以外に、ロンドン、マンチェスター、リバプールなどの工場を実地修業(実際に働いていた)。
このとき、発明したものは「特許制度」により、権利が守られていることを知りました。
1883(明治16)年、帰国後は農商務省(現、農林水産省、経済産業省)工務局に入省。和紙の製造や、製藍(植物の藍を染料加工する)、清酒醸造などの改良指導を行いました。合わせて特許行政にも関わりました。
これまで学んだ最先端の化学を日本の伝統産業に取り入れて、改良しようとしたのです。また高橋是清(後の内閣総理大臣)が、「特許法」を施行し、初代特許局長だったため「特許の父」と言われていますが、その下で働いた譲吉の協力があったと思います。譲吉も「特許の父」と言えるのではないでしょうか。(高岡市立博物館 主幹・仁ヶ竹<にがたけ>亮介さん)
運命を決めた、初めての渡米
1884(明治17)年、譲吉はアメリカルイジアナ州ニューオリンズで開催された万国博覧会に、事務官として参加。この初めての渡米が、運命を変えます。
日本で人造肥料を作りたい
万国博覧会の会場で、燐鉱石(りんこうせき)を目にした譲吉。イギリス留学中、これを元に人造肥料を作る工場を見学したことがありました。当時の日本の肥料は、糞尿や干鰯(ほしか)だったので、よく覚えていたのです。「人造肥料を使えば、農業の生産性が各段に上がる」と、産出地のサウスカロライナ州に立ち寄り、膨大な燐鉱石や燐酸肥料を私費で買い付け日本に送り帰国しました。
将来の妻キャロラインとの出会い
アメリカ滞在中、譲吉はニューオリンズのヒッチ家に下宿をしました。そこでヒッチ夫妻の長女キャロラインと恋に落ち! 婚約。1885(明治18)年、万国博覧会の終了で譲吉は帰国しますが、「必ず迎えに行きます」と伝えました。譲吉30歳、キャロラインは18歳でした。
日本初、人造肥料会社設立を目指す
帰国後、譲吉は人造肥料会社設立に向けて動きます(当時は、役人の副業には寛容)。協力を仰いだのが、第一国立銀行頭取の渋沢栄一(しぶさわえいいち)と、旧三井物産創設者の益田孝(ますだたかし)。農家出身の渋沢は、譲吉の話に賛同。後に「高峰は学者ではあるが、事業を処理する能力がある」と評しています。益田も譲吉の良い理解者となりました。
他の経済界の重鎮からの賛同も得られ、会社は設立に向けて前進。1887(明治20)年、視察や機械の輸入のために欧米に出張します。
国際結婚第一号夫婦に
人造肥料会社設立に向けて、東奔西走していた譲吉ですが、キャロラインのことはずっと想い続けていました。
欧州視察に同行した益田は、「アメリカ人の女性と婚約していて……」と打ち明けられ、驚いたそうです。
視察終了後、譲吉とキャロラインは結婚。日本での国際結婚第一号と言われています。インターネットどころか電話もない時代。キャロラインはたまに来る手紙を支えに、健気に譲吉を待ち続けました。
人造肥料会社の設立と、日本での新婚生活
譲吉はキャロラインを連れて帰国。そして、1887(明治20)年の12月に東京深川(現、東京都江東区)に「東京人造肥料会社」(現、日産化学株式会社)を設立し、譲吉は技術長に就任(社長は渋沢)。
1888(明治21)年、譲吉は農商務省を退官。農村を回り、人造肥料の普及に努めます。その一方で、工場近くに私設の研究所を作り、日本酒に使う米麹をウイスキー造りに応用する研究を始めます。ここで技術を確立し、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカで「高峰式元麹法」の特許を得ます。益田から「研究は欧米で特許を取った方がいい」とのアドバイスを受けましたが、それを実行する機敏さが譲吉にはありました。
そんなとき、イリノイ州ピオリアにあるウイスキー・トラスト社が譲吉の発明に興味を持ち、ここの社長が譲吉をアメリカに招こうとします。
キャロラインが日本での生活に苦労していたこともあり、この依頼を受けようとしますが、問題は設立したばかりの、東京人造肥料会社。
渋沢は当初反対しますが、益田がそれを説得し渡米を決意。
譲吉は、人造肥料は軌道に乗ってきたので、経営者になる人に任せればいいと思っていました。自分が去った後も発展できることを、確信していたのです。
日本の酒造技術を活かし、アメリカでウイスキー作りに挑戦
発酵素会社の設立
1890(明治23)年、譲吉はキャロラインと日本で生まれた長男・次男、杜氏の藤木幸助(ふじきこうすけ)とともにアメリカへ(麹の扱いは難しいので、専門家の助けが必要)。イリノイ州シカゴのウイスキー・トラスト社が用意した実験所で、研究に励みます。
1年後、良い試験結果が出たのを機にピオリアに「高峰発酵素会社」を設立。特許を保有し、特許保有料で運営する研究開発会社です(ウイスキー・トラスト社が醸造し、その特許料をもらう契約)。このころ、工部大学校と農商務省の後輩だった清水鐡吉(しみずてつきち)を研究助手として呼び寄せます。
譲吉が発明したウイスキー造りとは
これまでのウイスキー造りは、モルト(大麦麦芽)に含まれるジアスターゼ(酵素成分)を使い、発酵させていました。しかし、大麦を育てるには広大な土地が必要で、成長するには約6カ月かかります。
一方、日本酒に使う米麹菌は、モルトと同じようにジアスターゼを分泌しますが、でんぷんを糖化する力がモルトよりも強力。
しかし、米麹菌だけを使えば日本酒と変わりません。そこで譲吉が目を付けたのが、小麦のふすま(穀皮)。今は、食物繊維が豊富で評価されていますが、当時はほぼ廃棄物。これを安価で仕入れて、米麹菌を植え付けて培養し、ジアスターゼを生産させました。所要時間わずか48時間。場所もとりません。時短な上にコスパも最高でした。
ウイスキー造りの頓挫
しかし、譲吉の方法での原酒生産が増えるにつれ、地元のモルト製造業者は自分たちが職を失う危機感から猛反発。
そして、1893(明治26)年、工場が原因不明の火災事故に。さらに、渡米の際に患った肝臓病が再発し、譲吉は生死をさまよいます。キャロラインの尽力で、手術を受け一命を取り止めました。悪いことは続くもので、ウイスキー・トラスト社が解散して、ウイスキー造りは頓挫。
体調が落ち着いた譲吉は、あきらめることなく、酒造りで得たジアスターゼの知識を製薬に活かそうとするのです。
雇われるのではなく、自分で会社を起こす。ベンチャー企業の先駆けです。また、廃棄される小麦ふすまを活用するなど、SDGsに通じます。さらに、人造肥料と醸造の研究を平行したり、醸造の失敗を製薬に活かしたりする、マルチタスク能力がありました (同上)
起死回生、タカヂアスターゼの発明
「米麹菌の強力なジアスターゼは胃袋の中でも働くはず。食べ物と服用すれば、でんぷんの消化を助ける薬ができるかもしれない」長年の研究から、譲吉はこのように考えました。
ジアスターゼ自体は、すでに「でんぷん消化薬」として販売されていました。しかし、水あめ状だったり、時間とともに劣化したりと扱いにくかったのです。
1894(明治27)年に特許をアメリカで取得した後、サンプルをいろいろな製薬会社に送ったところ、パーク・デイビス社が商品化に名乗りを上げました。1895(明治28)年、世界に販売網を持つ同社から粉末胃腸薬「タカヂアスターゼ」発売。その効果と粉末ゆえの扱いやすさで、世界で評判になりました。
この成功を見届けたかのように、1896(明治29)年、療養中の譲吉の研究をサポートした清水が肺結核で、34歳で死亡。藤木も家庭の事情で帰国しなくてはならず、藤木が清水の遺骨を抱いて帰国しました。
販売に関し、譲吉は「日本での販売は日本人に任せたい」と、条件を出しました。そして、アメリカで出会った塩原又策(しおばらまたさく)という若い起業家に、販売を一任。1899(明治32)年、塩原らが設立した三共商店(現、第一三共株式会社)で販売開始。譲吉には、日本の製薬会社を育てたいという、想いがありました。アメリカにいても、日本に尽くすことを常に考えていたのです。
タカヂアスターゼの業績に対し、1899(明治32)年、45歳のときに東京帝国大学で工学博士を授与されました。その後1906(明治39)年には薬学博士に。以下、譲吉博士と記します。
アドレナリンの抽出・結晶化
1897(明治30)年頃、譲吉一家はニューヨークに移り住みます。アパートの半地下を借りて実験室にし、タカヂアスターゼの改良を続けていました。
技術顧問をしていたパーク・デイビス社から、ある研究依頼を受けます。
「副腎(腎臓の上部)に含まれる物質が、止血などの効果があることがわかった。しかしエキスのままでは不純物が多く腐敗するため、薬としては使えない。何人もの研究者が、これを結晶として取り出すことに挑戦したが、40年以上経っても実現できていない。当社はこの結晶を抽出するプロジェクトを作るので、協力してほしい」
譲吉博士は依頼を受けたものの、結晶精製の専門家ではないので、なかなか成果は出ません。そこで、1900(明治33)年、東京帝国大学医学部薬学科で学んだ、24歳の上中啓三(うえなかけいぞう)を実験助手として私費で雇い入れます。
なんと、上中は研究を始めて半年で結晶を抽出。この効果はすぐに認められ、「アドレナリン」と命名。パーク・デイビス社で販売されました。そして、譲吉博士は特許を出願。
少し後になりますが、こちらも、日本での販売権利は三共株式会社(旧、三共商店)に一任。
譲吉博士は、アドレナリンの発明を伝えるために、世界を回りました。1902(明治35)年、帰国して凱旋講演。タカヂアスターゼとアドレナリンの成功までの苦労を熱く語り、清水鐵吉と上中啓三への感謝を述べました。
アドレナリンは現在でも、止血や血圧低下への措置など、外科手術には不可欠な医薬品として多くの生命を救っています。
また、譲吉博士の死後、ホルモンの史上初の純粋抽出であったことがわかり、ノーベル賞級の大発見と言われています。
民間の日米親善大使として、尽力
日米をつなぐサロンを作る
タカヂアスターゼとアドレナリンの特許料で、巨額の富を得た譲吉博士。財産は、日米親善のために惜しみなく使いました。
1904(明治37)年、日露戦争中の日本は、財政難の中アメリカのセントルイス万国博覧会に、「日本館」という日本式の立派な建物を出展しました。しかし終了後、解体して日本に送り返す資金はありません。それを譲吉博士が譲り受け、ニューヨーク近郊の別荘地メリーウォルド・パークに移築。その際、日本から洋画家牧野克次(まきのかつじ)を招き、室内装飾を依頼しました。これは後に「松楓殿(しょうふうでん)」(※2)と名付けられ、日米の政界・財界の要人のサロンになりました。譲吉博士には、この場を通じて日本文化をそして日本人を知ってほしいという想いがありました。
※2 譲吉博士の出世地高岡市に、2019年に一部が寄贈され一般公開されている。
日露戦争終結の陰の立役者
アメリカ人の多くは、日本はロシアとの戦争に負けると思っていました。高峰博士は、自分の専門分野を活かして、「日本の科学分野での発達」をテーマに執筆し、私費で新聞に掲載を依頼。この中には、細菌学者北里柴三郎の名前もあります。
日本政府は、戦争が長引くと戦費がかさむので、アメリカに仲裁に入ってもらい終わらせたいと考えていました。アメリカはイギリスとともに日本の外債募集を引き受けてましたが、このまま日本が勝利することは望んでいませんでした。日本とアメリカそれぞれの思惑がある中、当時のルーズベルト米大統領とハーバード大学で同級生だった金子堅太郎(かねこけんたろう)男爵が、直接交渉と戦費調達のために渡米。そこに力を貸したのが譲吉博士。金子に政界・財界の重鎮を紹介し、資金の援助を得ることに成功。
1905(明治38)年にポーツマス条約が結ばれ、終戦。譲吉博士は、日露戦争終結の陰の立役者と言えるでしょう。
このほかにも、ワシントン市などへ日本の桜の木の寄贈に尽力しました。
譲吉博士は、人種差別を受けたこともあり、アメリカ人に日本のことをよく知ってもらい、日米双方が理解深めてもらいたい。そのような想いが常にありました。公式の場には、紋付き袴姿で現れたのも(キャロラインも和服)、その表れでしょう。
理化学研究所の設立
当時の日本の工業関係の研究施設は国立で、役人でないと研究に関わることはできませんでした。譲吉博士は、民間にも優秀な化学者は大勢いる。国民誰もが利用できる研究所が必要だと、帰国の際に説きました。これに賛同したうちの1人が渋沢栄一。構想から5年後の1917(大正6)年、設立されたのが理化学研究所でした。
生まれ故郷高岡に、アルミ二ウム産業を
譲吉博士は1歳になる前に、出生地の高岡を離れました。でも、親戚は多く住んでおり、墓参りにもこまめに訪れていたので、生まれ故郷への想いは常にありました。
「富山県の神通川に発電所を作りこの電気を鋳物産業が盛んな高岡に送れば、アルミニウムの製造ができる」と提案。譲吉博士の死去により頓挫しますが、後の関西電力へとつながり、高岡は国内有数のアルミ二ウム工業地域となっています。
アメリカの土に眠る
科学のため、日米親善のために尽力した譲吉博士でしたが、1919(大正8)年、65歳のときから体調を崩していました。
1921(大正10)年、第一次世界大戦後の軍縮会議ワシントン会議が開催。日本代表団と渋沢を団長とする経済視察団を、アメリカの要人に合わせるために会議に無理をして参加。その後病床につき、1922(大正11)年7月、67歳で死去。新聞にも取り上げられました。日本では、同年10月に東京帝国ホテルで追悼会が開催。このときの委員長は、渋沢でした。譲吉博士は、ニューヨークの墓地に家族と共に眠っています。
高岡市立博物館に伺う、高峰譲吉の魅力
高岡市立博物館は、常設展に高峰譲吉博士ゆかりの品を展示しています。また、2022(令和4)年は没後100年にあたり、7月30日~10月10日まで特別展「没後100年記念 高峰譲吉記念展」が開催されます。
こちらの主幹・仁ヶ竹亮介さんに、高峰譲吉についてお話いただきました。
―― 高峰譲吉は、どのような人だと思われますか?
仁ヶ竹さん:明治の偉人に多いマルチな人ですね。日々の努力が日本の未来へつながると信じ、気力に溢れていました。
―― 渋沢栄一を始め、多くの人とのつながりがあることに、驚かされます。
仁ヶ竹さん:その道の専門家を探して、一任することが得意だったようです。でも、行動を起こしても人徳がなければ、人は集まって来ません。信頼され愛される人柄だったのでしょう。
長崎では、佐賀藩の藩校「致遠館」(ちえんかん)で学びました。内閣総理大臣大隈重信が、今の副校長に相当する立場で教えていました。後年「高峰譲吉に英語を教えたのは、私だ! 」と言っていたそうです(笑)。
―― 地元、高岡の人にとって高峰譲吉はどのような存在ですか?
仁ヶ竹さん:郷土教育として、高峰譲吉の紹介には力を入れています。高岡市教育委員会が事務局の高峰譲吉博士顕彰会では、高峰科学賞や小中学校での移動展示、記念フォーラムなどを開催しています。年配の方で、顕彰会の鉛筆をお持ちで、今でも大切にされている方もおられます。
―― 特別展の見どころを教えてください。
仁ヶ竹さん:顕彰会から寄託されている資料だけでなく、2019年に高岡市に寄贈された「松楓殿」に関わる調度品や工芸品も紹介する予定です。寄贈された資料を有効活用して、高峰譲吉の功績を幅広く伝えたいです。
―― 最後に、高岡市立博物館の見どころを教えてください。
仁ヶ竹さん:2006(平成18)年、「日本100名城」に富山県で唯一選定された国指定史跡「高岡城跡」(高岡古城公園)。その中に当館はあります。100名城スタンプラリーに参加しているので、お城ファンが多く訪れます。そのような方にも高岡市の魅力を伝えられるように、常設展示は数年前にリニューアル。
高岡城は、織田信長にも使えた加賀前田家初代当主前田利家の嫡男・利長が、1609(慶長14)年に何もない原野に築城。城下町もすべて利長がゼロから造ったベンチャーな町でした。しかし、1615(元和元)年の一国一城令により廃城。このような場合、武士がいなくなるため衰退することが多いのですが、高岡は商工業の町として発展を続けた、全国でも珍しい例。ゼロから発展遂げた姿は、高峰譲吉のベンチャー精神に似ています。
高岡市にお越しの際は、当館にもお立ち寄りください。
仁ヶ竹さん、ありがとうございました。
おわりに
富山県富山市出身の私は、子どものころ郷土の偉人として高峰譲吉について学びました。でも当時は、「お薬を作った人」という認識。今回記事にして、その業績に驚くばかりでした。
このようなすばらしい人を、誇りに思っていきたいです。
※アイキャッチ画像 高峰譲吉博士顕彰会蔵(高岡市立博物館提供)
<協力>
高岡市立博物館 主幹・仁ヶ竹亮介さん
<参考資料>
・石原藤男『発明特許の日本史 礎石を置いた高橋是清と高峰譲吉の人生』(栄光出版社、2008年)
・NPO高峰譲吉博士研究会『科学実業家 高峰譲吉物語-科学伝記マンガ』(2015年)
・山嶋哲盛『日本科学の先駆者 高峰譲吉 アドレナリン発見物語 岩波ジュニア新書375』(岩波書店、2001年)