1975年に放送が始まったスーパー戦隊シリーズ第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』は、当時の九州地方の子どもたちにとって衝撃だった。キレンジャー・大岩大太(おおいわ だいた)のキャラクターに、東京から見た九州人のステレオタイプなイメージが投影されているように感じられたからだ。
『ゴレンジャー』は、正義の組織イーグルの全国各支部から集められた5人の戦士が悪と戦う物語だが、九州支部出身のキレンジャー・大岩大太の風貌は丸顔でポッチャリ体形。日本人を縄文人タイプと弥生人タイプに分けるとするなら、縄文顔だ。
5人の戦士の中で唯一、方言を使っているのも特徴。関東出身のアカレンジャーだけでなく、東北出身のアオレンジャーも関西出身のミドレンジャーも標準語なのに、キレンジャーだけは生まれ育った土地の言葉を貫いている。「俺は阿蘇山たい。大噴火たい」と独り言を言うので熊本出身かもしれない。あるいは自分のことを「おいどん」と呼ぶので鹿児島出身だろうか。
『ゴレンジャー』の挿入歌「おいどん大喰いキレンジャー」では「オイドン兄弟十人いるぞ」と歌われており、大家族の中で育った苦労人であることも想像できる。この点は、『巨人の星』に登場する左門豊作(熊本出身)が両親を早くになくし、幼い5人の弟・妹たちを養うため過酷な農作業をしながら学校に通ったエピソードをほうふつさせる。
そしてキレンジャーといえばカレーライス。変身前の大岩大太の姿の時は、いつも行きつけのスナックゴンでカレーを食べている。大盛り4皿も一気に平らげる大食漢で、マスター(その正体はゴレンジャーの上官の江戸川総司令)から「そんなに食うと黄色くなっちゃうぞ」と言われるほど。敵・黒十字軍のゴレンジャーに関する分析でも「カレーライスの大好きな少々にぶい男」と散々な評価をされている。敵のアジトに潜入した際も、テーブルにカレーライスが置いてあるのを見つけるや「こりゃうまそうなカレーたい。いただきまーす」と任務も忘れて食べ始める始末。
その性格は、とにかく明るくて、開けっぴろげでお人よし。黒十字軍との戦いのさなかにも敵の戦闘員に気安く話しかけ、自分が解けないなぞなぞの答えを尋ねたりする。敵の戦闘員も思わず「それは簡単…」と答えを教えてやったりする。誰に対しても自分をさらけ出し、いきなり相手との距離感を縮めてくるので、つい敵も油断してしまうのだ。
放送当時、九州在住の子どもだった私は、キレンジャーがあまり好きではなかった。あか抜けない田舎者の三枚目じゃないか、東京からは九州人はこんなふうに見られているのか…。そう思っていた。
だが、今改めて見返してみて、キレンジャーにたまらない魅力を感じるようになった。自分を飾らない木訥(ぼくとつ)とした性格。場を和ませるムードメーカーで、「大ちゃん」と親しみを込めて呼ばれている。半世紀近い歴史を持つ東映スーパー戦隊シリーズの中でも屈指の愛されキャラなのだ。制作陣がキレンジャーに愛着を持って描いていたことが画面からも伝わってくる。ちなみに脚本のメインライターは、ウルトラシリーズなどで知られる沖縄出身の上原正三氏。
なお、初代キレンジャー・大岩大太は第55話で、九州支部に転勤したというそっけない説明があっただけで突然姿を消し、2代目キレンジャーとして熊野大五郎が登場する。2代目はよりメタボ度が増し、上野の西郷さんを思わせる力士体形だったが、第67話で戦死。初代の大岩がゴレンジャーに復帰している。
キレンジャー的九州人像はどこから生まれたか
巨漢で豪快ないし朴訥、丸っこくて縄文系の濃い顔で、いつも九州弁でしゃべり、毛深かったりする。そのような九州人は、『秘密戦隊ゴレンジャー』や『巨人の星』に限らず、漫画やテレビ、映画の世界にはたびたび登場してきた。
だが、実際の九州の人々は、とりたててメタボ率が高いわけでもないし、誰もが濃い顔をしているわけでもない。また、たとえば関西の人が東京でも関西弁を堂々と使うのに比べれば、他の地方の人と話すときに九州弁を多用することもない。どこか現実と微妙にずれた九州人のパブリックイメージが広まっているのだ。
キレンジャー的な九州人のイメージはどこから生まれたのだろうか。その大本をたどれば、「古事記」や「日本書紀」に登場するクマソ(熊曽、熊襲)やハヤト(隼人)にまで行き着きそうだ。それから、幕末・維新期の国民的ヒーロー、西郷隆盛の影響も見逃せない。
クマソの幻影と九州人
クマソは古代、南九州地方を中心に勢力を振るい、ヤマト政権に服属せずにたびたび反乱を起こした(逆の立場から言えば、ヤマト政権の侵略に抵抗した)とされる人々のことだ。ハヤトも南九州にいた人々で、クマソのうち早くからヤマト政権に服属したグループを指すとの見方もある。
クマソの語源については、熊本県の球磨地方と鹿児島県の曽於地方に居住した人々を合わせた呼び名とも言われている。だが、「古事記」では「熊曽」、「日本書紀」では「熊襲」と表記されており、その字面からは、熊のように剛毛で大柄でどう猛そうなイメージが浮かぶ。
「古事記」「日本書紀」にはヤマトタケルがクマソの首領を征伐する話が出てくるが、その様子を描いた浮世絵のクマソも毛深そうだ。このあたりから九州人=クマソ=毛深いというイメージが生まれたのだろうか。ちなみに福岡県生まれの私も、関西出身の人から「やっぱりクマソの子孫は毛深いんだな」と言われたことがある。
西郷さんはなぜ人気者なのか
キレンジャー的九州人像を決定的なものにしたのは、何と言っても西郷隆盛ではないだろうか。「維新三傑」とされる西郷、大久保利通、木戸孝允の3人の中でも、西郷の人気は飛び抜けている。鹿児島県歴史・美術センター黎明館の崎山建文学芸専門員は「西郷のものだとする偽物の書幅とか手紙とかが圧倒的に多いんです。その一つをとっても人気があったことが分かります」と説明する。
人気の理由について、崎山さんは「やっぱり、英雄でありながら悲劇的な最期を迎えたことが一つ。それから人柄ですね。たとえば長州系の人々が明治になるとお金もうけに走ったり、豪華な暮らし、華やかな格好をしたりする中、西郷は質素な生活を続けていた。清廉で、全く私利私欲が見えないんです。私は個人的には、西郷の魅力は私利私欲が見えないことじゃないかと思っています」と話す。
明治6年の政変で下野して鹿児島に帰ってからは、家に近所の子供たちがたくさん遊びに来ていたという。「その人たちの残したエピソードでも、すごく気さくに接してくれたとか、いつも相撲を取ってくれたという話が残っています」と崎山さん。
西郷は見た目のインパクトも強烈だ。本人のものと確認された写真は1枚も残っていないが、肖像画に描かれた西郷は、太い眉に大きな目。着ていた軍服から、身長約180センチ、体重約110キロの巨漢だったことが分かっている。こうした風貌が、東京の人の思い描く九州人像に影響を与えたことも想像がつく。
東京・上野公園の銅像は犬連れで着流し姿。まるで近所を散歩しているかのようにみえる。本当はウサギ狩りをしている姿だとされており、そう言われてみると、たしかに帯には狩猟用のわなが挟まれている。だが、浴衣姿に草履履きという軽装で野山ややぶの中を走り回ったとはとても思えない。狩猟姿にしては何か不自然なのだ。
1898(明治31)年に銅像の除幕式が行われたとき、臨席した西郷夫人の糸子が「夫はこのような人ではなかった」という意味のことを鹿児島弁で言ったというエピソードがある。その真意を巡っては、銅像の顔が実物に似ていないとする説と、西郷がこのような軽装で出歩く人ではなかったという意味に解釈する説とに分かれている。ともあれ、この着流し姿で犬連れの銅像が、西郷の庶民的イメージを広めるのに一役買ったのは間違いない。
キレンジャーと西郷隆盛を並べてみて気づくのは、どちらも風貌が縄文人タイプだということ。そして、西郷とクマソに共通するのは、どちらも強大な中央政権に立ち向かって敗北した側だということだ。縄文顔、弥生顔と言えば、昭和時代の漫画では、正義漢や熱血漢や素直な人間は、たいてい丸顔で太い眉。逆に敵キャラや冷酷な人物、ずる賢い人間は、うりざね顔で三白眼で細い眉に描かれることが多かった。ひょっとしたら私たち日本人のDNAには、征服された側や敗者への共感が刻み込まれているのかもしれない。