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2022.08.15

石川数正とは?家康・秀吉に仕えた知将、生涯や出奔事件も3分で解説

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天下人といえば織田信長、豊臣秀吉や徳川家康などの名が挙がりますが、秀吉と家康、この二人に仕え、将来を期待された男がいます。それが石川数正(いしかわかずまさ)です。

彼は戦国の世では考えられないような転身を遂げます。家康の重臣から、秀吉のもとへと出奔し、後に大名となるのです。真意は未だ謎に包まれたまま、歴史ミステリーの一つと伝えられる石川数正とは、どんな男だったのでしょう。彼のドラマチックな人生を簡単にご紹介します。

松本潤演じる徳川家康が主人公の大河ドラマ『どうする家康』では、あの名バイプレイヤー、松重豊が演じます。冷静沈着に時代を読み、周りからも一目置かれる男を好演してくれそうです。現在59歳の彼が20代の役として登場するのも見どころです。果たして、どんな数正が見られるのか。今からワクワクしますね!

おお~!連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』の虚無蔵役も、存在感ありました!

幼き家康に付き、徳川家を支え続けた石川家

数正の父・石川康正(やすまさ)は、徳川家のルーツである松平家の重臣的地位にあった石川清兼(きよかね)の嫡男、母も能見松平家・松平重吉の娘で、家康の祖父・松平清康、父・広忠、そして家康と3代にわたり仕えていました。康正の異母兄弟で、数正の叔父にあたる石川家成(いえなり)は、徳川家康の母方の従兄弟にあたるなど、松平家と深いつながりのある家柄でした。数正は、家康が今川家の人質となって駿府に赴く際、同行した側近の一人といわれています。

代々、仕えていたんですね。

織田信長との和議を媒介し、同盟へと助言した数正

永禄3(1560)年5月19日、織田信長と今川義元(いまがわよしもと)との桶狭間の戦いで、数正は家康の下で参戦します。大軍を率いた今川氏は着実に織田氏の陣地を攻め落としていきました。しかし、わずかな兵力を結集させた織田軍が奇襲攻撃により、義元を討ち取ります。今川軍は敗走し、大逆転劇が起こりました。

続く、今川氏と織田氏の尾張石瀬 (いしがせ) 合戦でも、数正は先鋒隊として参戦。しかし、信長の強さを感じ取り、家康に信長との和議を進言。同盟を結ぶための調整役として重要な役割を務めます。この頃から知将としての才覚を発揮しはじめました。

岡崎城主へと返り咲いた家康の下、永禄5(1562)年2月には、数正が駿府に人質のままとなっていた家康の嫡子・信康 (のぶやす) と正室築山殿(つきやまどの)の奪還に成功します。

数正やる~!グッジョブ!頼りになりますね!

父と決別し、家康の家臣としてゆるぎない地位を築く

しかし、悲劇は突然やってきます。家康からの信頼も厚かった康正・数正親子でしたが、永禄6(1563)年に起きた三河一向一揆で状況は一変します。こともあろうか康正が、家康に造反する本願寺の一向宗の総大将となったのです。

家成は家康側についたため、数正もそれに従い、父とは敵対関係となります。結果、叔父の家成が石川家を継ぎ、以後、数正は父とは決別し、叔父である家成について家康の重臣となります。こうして数正はゆるぎない地位を築いていきました。

うーん。ちょっと複雑ですね。親子で仲違いは、悲しい。

酒井忠次と数正が両翼を担い、徳川家康は戦国大名へ

徳川四天王のような武功に長けた家臣の中において、数正は懐柔策を提案したり、調整を図ったりするなど穏健派として家康をサポートしました。これは幼い頃の身内での争い、父との関係が影響しているのかもしれません。永禄12(1569)年には、叔父の家成から西三河の旗頭(はたがしら)を継承します。そして元亀元(1970)年に、家康の嫡子・信康が岡崎城主となると、信康付きの家老となり、徳川家臣団の中心的存在となっていきました。この時、東三河の旗頭は、徳川四天王の最年長者、酒井忠次です。この二人が家康の両翼となり、家康を海道一の弓取りへと押し上げていきました。

徳川家臣団にとって、無くてはならない存在に!

家老として支えた信康の自害。家康との不協和音が起こり始める

天正7(1579)年、またもや数正を悲劇が襲います。信康の正室であった徳姫が、築山殿との関係悪化から、父である信長に、信康が武田勝頼と通じていると密告します。その結果、信長は家康に命じ、築山殿を殺害、信康を自害に追い込んでしまいました。その後、数正は岡崎城代を命じられますが、幼い頃から側近として仕えた信康の死は、数正にとっても大きな衝撃となったのではないでしょうか。自分自身が幼い頃に、父との対立で家族を失った想いと重なったのかもしれません。もしかすると、実父・家康に見放された信康を不憫に想い、この頃から家康への不信感が渦巻いていたのではと考えてしまいます。

この状況は、辛かっただろうなぁ。

小牧・長久手の戦いが、数正の転機の分かれ目に

時代は、まさに激動へ。天正10(1582)年に、今度は、織田信長が本能寺の変で自害します。その後、勢力を強める羽柴(豊臣)秀吉に対し、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)は政権を巡って熾烈な争いを続けます。

家康は、信雄と同盟を結び、9カ月にわたる戦いを繰り広げます。これが最終的に秀吉を天下人に押し上げるきっかけともなる天正12(1584)年に起こった小牧・長久手の戦いです。この合戦により、数正の運命も大きく転換させられることとなりました。

天下の人たらし秀吉に所望され、家臣となる

一時は優勢だった秀吉方でしたが、長久手の戦いで家康方に敗北を喫します。事態を重く見た秀吉は撤退し、その後、膠着状態が続きました。最終的に秀吉が、和解への道に動き出し、信雄がそれに応じたことで、講和が成立。家康は戦う目的を失います。この時に秀吉や信雄、家康との調整に奔走したのが数正であったとも伝わっています。その采配、知将ぶりに秀吉は、数正に自分の家臣となるよう、執拗に誘います。秀吉の手練手管に引き込まれたのか、徳川家の繁栄のため自ら敵方にもぐりこんだのか、真意はわかりませんが、数正は、天正13(1585)年、岡崎城を出奔してしまいます。

今で言うヘッドハンティング?秀吉は、見る目あるなぁ。

石川数正が豊臣秀吉の家臣となった理由についてはコチラ

戦国武将・石川数正とは?徳川家康から去った唯一の男、豊臣秀吉の家臣に転職する

信濃国松本城主となるも、2年後、肥後名護屋で没す

その後、秀吉の家臣として、小田原攻めでも活躍した数正は、天正18(1590)年に、8万石の信濃国松本城主に封ぜられます。しかしその2年後、文禄元(1592)年に肥前名護屋に出陣。原因不明の病で、同年没しました。松本城はその美しさで人々を魅了しています。しかし、数正の歴史と重ねて見ると、その美しさも孤高のように感じ入ってしまいました。石川数正の人生は、優秀であったがゆえの苦難多きものだったのかもしれません。

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参考文献

徳川家臣団 煎本増夫著(東京堂出版)
デジタル版 日本大百科全書
デジタル版 世界大百科事典
デジタル版 国史大辞典

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徳川家臣団の系図 (角川新書)

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。

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幼少期より祖父と共に大河ドラマを見て育つ。毎回、感情移入しすぎるので、最終回と共にロスがひどいのが悩み。『どうする家康』を盛り上げるべく、くろりんと共に、トッキー&くろりんを結成。