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2022.10.29

実の父や息子にも会えない?厳しすぎる「大奥法度」からのぞく真実

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大奥といえば、男子禁制の女の園。将軍の後継ぎを育むための後宮ですから、他の男に出入りされては困ります……ということで、男性は立ち入り禁止ときちんと法で定められていたそうです。
その法というのが大奥法度(はっと)。
法度というのは法で定められた禁止事項のことです。大奥法度は「~をしてはならぬ」というスタイルの大奥のルール集。その中には、現代ならブラックといわれるような厳しい規則もありました。

大奥って謎が多そう! どんなルールがあったんだろう?

大奥法度のはじまり

大奥法度が最初に定められたのは元和4(1618)年、第2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の時代です。秀忠は公には側室を持たなかったので、大奥もまだまだコンパクトな組織だったときのこと。「男性の立ち入りは禁止」「夜6時以降の奥女中の出入り禁止」などの規則が定められたのは、将軍の妻子が生活する場に不審者が侵入することを防ぐためのものでした。

その後、あまり女性に興味を示さなかった第3代将軍家光(いえみつ)のために、乳母の春日局(かすがのつぼね)が大奥に美女を集めます。側室同士のつばぜり合いや有力な奥女中の台頭といった、いわゆる大奥らしいドラマはこの頃から。

大奥法度も、時代に合わせて何度か改訂を重ねていきます。追加された規則のなかには「内部事情の漏洩禁止」や「賄賂のやり取りを禁止する」といった項目もありました。

ちょっと今の時代の企業ルールにも通じるような?

禁止されたのはなぜ?

〇〇は禁止というスタイルのルールといえば、身近なものに学校の校則があります。たとえば最近なら「スマホの持ち込み禁止」あるいは「校内での操作は禁止」など。でも、携帯電話を誰もが持つようになる前は、当然ながらそんな校則はなかったわけです。

そもそもスマホが存在しなければ、持ち込み禁止、なんてルールができないですもんね(その時代を生きていた人間です!)

その昔、足首まで届くような長いスカートが流行した時代には「制服のスカート丈はここまで」と長さの指定があったものです。ところがその後、短いスカートが流行すると今度は「膝上何センチまで」と短さを指定する規則に変わりました。

実はこんなふうに、大奥で禁止されていた事柄からも、当時のリアルな事情を推測することができます。
江戸城の本丸に大奥ができた当時は、政治の場である「表」と将軍の妻子が暮らす「奥」の区別は厳密でなく、男性が出入りすることもあったのでしょう。
また、将軍のプライベートや政治にまつわる機密が奥女中を通じて外に漏れたり、奥女中と表の役人とが賄賂をやりとりして、優遇を頼んだりするようなことがあったのではないでしょうか。

『奥奉公出世双六』著者:国貞(国立国会図書館デジタルコレクションより)

決定版!大奥法度10ヵ条

第8代将軍に就任した徳川吉宗(よしむね)が、享保6(1721)年に定めた「女中条目」は、大奥法度の決定版といわれます。吉宗といえば、享保の改革を行って幕府の財政を再建しようとしたことで有名な人物。

『暴れん坊将軍』主人公のモデルになったお方が、吉宗公ですね!

そんな吉宗が定めたという大奥法度10ヵ条がこちらです。
大奥法度の内容を読みときながら、当時の大奥の様子をもう少しのぞいていきましょう。

一、女中文通之儀 祖父 祖母 父母 兄弟 姉妹 おぢおば 甥姪 子 孫迄にかきるへく候(中略)宿さかりの節 親類出合之儀、同様たるへし……

「女中が文通できる相手は祖父母、親兄弟、叔父叔母、甥姪、子、孫までに限る。宿下がりのときに面会できる相手も同じ」

華やかに見える大奥ですが、実は側室候補も含めて、大奥の女性たちのほとんどは奉公人の奥女中という立場でした。奥女中はみな住み込みで、文通ができる相手は近しい親族だけ。宿下がり(帰省)のときの面会も同様と書いてありますが、そもそも奥女中のなかで宿下がりができたのは、御目見(おめみえ)以下といわれる下級の奥女中のみです。宿下がりそのものも3年に1回という厳しさでした。

一 宿さかりいたされ候女中ハ 親子を始 長局へよひよせ申ましき事

「宿下がりのできる女中は、親子であっても長局へ呼び寄せてはならない」

長局(ながつぼね)というのは、大奥の中にある小さな部屋が連なっている場所のこと。住み込みで働く奥女中たちが寝起きするエリアです。
3年に1回の宿下がりができる女中は、大奥に家族を呼び寄せて面会をすることはできませんでした。

一 宿さかりこれなき衆ハ 祖母 母 娘 姉妹 おば 姪 男子ハ九歳迄の子 兄弟 甥 孫此分ハよひ寄せ申へく候

「宿下がりのない女中は、祖母、母、娘、姉妹、姪、男子は9歳までの子、兄弟、甥、孫までは、大奥に呼び寄せて面会をしてもよい」

御目見(おめみえ)以上といわれる上級の奥女中は、将軍のプライベートを知ることのできる立場です。一生奉公が原則で、基本的に宿下がりはできません。
面会ができるのは親族の女性に限られ、10歳以上の男性とは実の父や息子でも会うことができませんでした。随分と厳しいルールのように思えますが……。

一 長局へつかいの女、宿つかまつらせ申すましき候

「用事で長局を訪れた女を泊めないこと」

大奥を訪ねてきた女性が、帰りそびれて勝手に泊っていったりしたのでしょうか?
なんだか一転してルーズな雰囲気。

一 衣服諸道具音信振舞事に至迄 随分おごりかましき儀これなく そうじて分限過ぎたるしなにせ申まじき事

「着物、身の回りの道具、贈り物、振る舞いなどは豪華にしすぎず、身分相応にすること」

将軍の側室同士、あるいは有力な奥女中同士が競い合って、身なりやふるまいが派手になっていったのかもしれませんね。

一 部屋部屋にて振舞事いたし寄合候とも、夜をふかし申ましき候

「部屋に人を集めてもてなすことがあったとしても、夜遅くまでは行わないこと」

いい大人なんだから夜ふかしくらい見逃してよという気もしますが、電気のない時代のこと、夜は行燈が必要でした。明暦3(1657)年に起きた明暦の大火では江戸城も焼けたので、夜ふかしの禁止は火の用心のため。

一 御紋付きの御道具類 一切私用にかし申ましき事

「徳川家の紋がついた道具は、私用で人に貸してはならない」

三つ葉葵の印籠をおもむろに取り出して「控えおろう」とするのは、時代劇『水戸黄門』のハイライトシーン。どんなトラブルもそれで解決したものです。徳川家の御威光を私的に利用するなんてもってのほか。

一 長局へ出入候 按摩*は 二人きわめおき申べき事

「長局へ出入りする按摩は、二人に決めておくこと」

按摩というのはマッサージ師のことです。大奥に出入りする人が増えることを警戒しているようですね。

*出典の『徳川禁令考』では按摩という言葉の部分に、目の不自由な人を指す言葉が使われています。

一 自分用として 御下男一切つかひ申ましく候

「下働きの男性に、個人的な用事を頼まないこと」

男子禁制の大奥ではありますが、御広敷番(おひろしきばん)といって大奥の警護をする役職があり、一角には男性の役人たちも詰めていました。
「ちょっと重い荷物を運んでちょうだい」とか、頼みたくなる気持ちも分からなくはありません。

うん、分からなくなはい。分からなくはないけれど、そこを許してしまうと、ということだったんでしょうね。

一 めしつかいの女のうち もし見届さるやうすのものハ 早々おきかへ申へく候

「使用人のうち、怪しいようすのものはすぐに辞めさせること」

上級の奥女中は部屋子(へやこ)といって個人的に使用人を雇うことができました。また部屋子は正式に大奥に雇われた奥女中とは違って、里帰りなども比較的たやすくできたそうです。

ご法度から見えてくる大奥のリアル

ご法度の内容をそのまま読むと、大奥の女性たちは外出も自由にはできず、面会も厳しく制限され、同僚とのちょっとした夜更かしさえ禁止されて、ずいぶんと厳しく管理されていたことになります。

でもうがった見方をすれば、おそらく大奥には、禁止したくなるような人の出入りがあったに違いありません。その正体は次の将軍候補をさぐるスパイかもしれないし、奥女中に会いたくて忍び込んだ男だったのかも。

奥女中が男と密通?

「大奥に入れる男子は9歳まで」と厳しく制限されていたのは、大奥で生まれた子どもが実は将軍の子どもではなかったという事態を防ぐためです。しかし実際には「女装をしたり長持に隠れたりして大奥に忍び込み、奥女中と逢引をした男がいたらしい」といったたぐいの噂が、引きも切らずにありました。
「大奥を訪れた女を長局に泊めないこと」というルールは、そんな噂にかえって信ぴょう性を与えます。

衣装代がかかりすぎて、幕府の財政が悪化

「着物や道具類は身の丈にあったものを」と釘をさしていることからは、大奥の女性たちの暮らしぶりがどんどん華やかになっていったことがうかがえます。膨大な衣装代はやがて幕府の財政を逼迫させる一因にもなったのだとか。
実は吉宗より前の将軍たちも大奥に対する倹約令を出していますが、あまり効果はなかったようです。

政治に権力を振るう女性も登場

「葵の御紋が入った道具を人に貸すな」「下働きの男性を私用で使うな」というルールから、大奥には力のある女性もいたことが分かります。
寝室で将軍に100万石の領地をおねだりしたという女性の噂があったり、わずか8歳で亡くなった第7代将軍家継(いえつぐ)を生母として支えた月光院のように、政治にまで権力を振るうようになった例もありました。

禁止されても大奥の勢いは止まらない!

第11代将軍の徳川家斉(いえなり)は名前が伝えられているだけでも正室のほかに16人の側室を持ち、50人以上の子どもをもうけたことで有名です。歴代で最大の規模となった大奥では、僧侶と奥女中が密通したスキャンダルや、家斉から寵愛された側室のお美代(みよ)の方が栄華をほしいままにするといった事態も起こりました。

また第12代将軍徳川家慶(いえよし)の時代には、老中の水野忠邦(みずのただくに)が出した大奥倹約令を、御年寄の姉小路(あねこうじ)がはねのけるというできごとも。
厳しいご法度をもってしても、大奥の勢いを抑えるのは難しかったということでしょう。強かで、でも生き生きとした女性たちの姿が目に浮かんでくるようです。

アイキャッチ:『繪本時丗粧 2巻. [1]』著者:歌川一陽齋豐國(国立国会図書館デジタルコレクションより)

参考書籍:
『徳川禁令考. 第三帙』
『大奥列伝』(世界文化社)
『図説 大奥の世界』(河出書房新社)
『武家の夫人たち』著:稲垣史生(新人物往来社)

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昔は口が堅いと褒められましたが、座右の銘は「壁に耳あり障子に目あり」。大奥のあれやこれやを語ります。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。