波乱万丈! 魯山人の人生(前編)
明治16(1883)年3月23日、魯山人(本名・房次郎)は京都・上賀茂神社の社家(世襲の神官の家柄)・北大路家の次男として生まれます。しかしながら、生まれて間もなく農家へ里子に出され、以後は転々と養家がかわり、恵まれた幼少期ではありませんでした。
辛い境遇にあった魯山人は、養家でよりよい待遇を得るため、自ら食事係を志願。それによって食事にありつけたうえ、食材の旬やもち味の素晴しさを知るという貴重な経験も得ることになったのです。
尋常小学校を卒業した魯山人は、3年ほど丁稚奉公をしているうち、京都画壇の竹内栖鳳(せいほう)の絵に憧れて日本画家を志すも、経済的理由で断念。
やむなく養父の木版の仕事を手伝いつつ書への興味を募らせ、当時流行っていた「一字書き」の懸賞に応募したところ、見事に入選。以後も優秀作に選出され、書の才能を自覚するようになるのです。
最初は書で頭角を現した!
20歳を過ぎたころ、魯山人は上京し本格的に書を学び始めます。
その翌年、上野で開催された日本美術協会展の書の部に出品した隷書『千字文』が褒状一等二席を受賞。弱冠21歳での受賞というのは前代未聞の快挙で、書家・岡本可亭に弟子入りし、23 歳で独立。
その後、朝鮮や満州で1年ほど石碑や篆刻の書を学び、帰国後は独自の作風を示して人気を得ます。
30代に差しかかったころ、近江長浜の紙問屋や豪商に食客として迎えられた魯山人は、竹内栖鳳らと知り合い、落款印を彫るようになります。
また、京都の豪商・内貴家の書生となり、速水御舟(ぎょしゅう)ら気鋭の日本画家たちや文人、数寄者、趣味人たちと親交を深め、芸術的才能を伸ばしていきました。
そんなころ、金沢の粋人・細野燕台(えんだい)と出会った魯山人は食客として自宅に招かれ、細野家の食器がすべて燕台作のものだと知って驚愕します。
それらは燕台が親交のあった、山代温泉に窯をもつ須田菁華(せいか)に焼かせていたもので、同じことを試した魯山人は、轆轤(ろくろ)師に成形させ、釉をかけ、絵付けをすれば、自作と呼べる陶磁器が出来上がることを知ったのです。
春と秋の名景をひとつに融合!
その後、37歳になった魯山人は友人の中村竹四郎と共同で東京・京橋に古美術を商う「大雅堂」を開店。
魯山人が店で扱う器に手料理を盛り付けてなじみの客にふるまうと、これが大評判となり、会員制の〝美食倶楽部〟を始めることになります。
当初の器は古陶磁が用いられていましたが、会員数が200名に膨れ上がると間に合わなくなり、解決のため、魯山人自ら須田菁華窯へ出向いて食器づくりに取り組むようになっていきます。
(後編)へ続く
構成/山本毅、吉川純(本誌)※本記事は雑誌『和樂(2020年4・5月号)』の転載です。
シリーズ「魯山人の魅力」
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