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美人大首絵で一世を風靡
浮世絵の祖とされる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の代表作が『見返り美人図』であるように、浮世絵には美人画というジャンルが最初から確立されていました。
初期の美人画はいずれも全身が描かれていたのですが、歌麿は役者絵などに用いられていた大首絵(おおくびえ)の手法を取り入れ、上半身アップで顔に目が行く美人大首絵を考案。このアイディアが浮世絵の支持層であった江戸町民に大受けして、歌麿は瞬く間に人気絵師のトップに躍り出ます。
歌麿は単に構図を変えただけでなく、髪の毛の一本一本を丁寧に描き、地色の背景に雲母摺(きらずり)を用いたほかにも、空摺(からずり エンボス加工)や無地の地潰しなどの技法を駆使して、作品としての美しさを追求。まさに一世を風靡(ふうび)するほどの人気を獲得しました。
美人画や役者絵は、江戸時代のブロマイドだった!
浮世絵が江戸時代に大人気を博した理由は、悪所(あくしょ)と呼ばれた遊里や芝居町が主に描かれていたことがあげられます。悪所は庶民にとって簡単に足を踏み入れることができない世界で、そこで活躍する遊女や役者の絵は、まさに庶民にとって憧れの的。現代のアイドルのブロマイドやポスターとまったく同じ感覚だったのです。
美人画のモデルは遊女のほかに、寺社の境内や道ばたに店を構えていた水茶屋(みずぢゃや)の看板娘にまで広がり、プロモーション的な意味合いももつようになります。そこに登場した歌麿の美人大首絵は、なかなかお目にかかることができない評判の美人が、艶っぽい様子で描かれていたことから男たちは熱狂し、モデルにも好評だったといいます。
浮世絵は流行の発信地
浮世絵制作に携わっていた者たちにとって、錦絵の販売数は最も気になるところ。少しでも多く売れることを狙って、それぞれが常に工夫を凝らし、それによって浮世絵の技法は長足の進歩を遂げました。
歌麿も浮世絵の技法を極めたひとりで、髪の毛の流れを繊細に描いた「毛割(けわり)」や雲母摺を取り入れ、独自の美を追求したのです。さらに、流行という、今も昔も変わらない女性の興味を満たすため、髪型からきものの柄、組み合わせ方などを研究するだけでなく、ポッピンという最新のインポート・グッズをいち早く絵に導入。女性向けのファッション・メディアという役割も果たしていました。そんな背景を知ると、浮世絵がもっと身近に感じられるのでは?
喜多川歌麿作品集
カリスマ絵師08 喜多川歌麿プロフィール
きたがわ うたまろ
宝暦3(1753)年ごろ~文化3(1806)年。狩野派の門人や俳諧師に師事した町絵師から絵を習い、狂歌絵本で浮世絵師として名を成す。版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)と出会い、美人大首絵を確立したことで第一人者となる。しかし活躍した期間は短く、晩年は寂しいものだった。
※本記事は雑誌『和樂(2018年4・5月号)』の転載です。