身分や立場、季節や儀式によって、衣服に細かい約束事が定められていた江戸時代。武家階級では大名の格によって着用できる装束の色や形にも指定があったそうです。しかしただルールに縛られていただけではありません。細やかな配色や袷によるコーディネート、透かし文様や刺繍の美しさなど、衣服は当時の人たちの美のこだわりに溢れていました。現在、徳川美術館で開催中の「よそおいの美学」では、尾張徳川家に受け継がれてきた貴重な装束などを紹介。煌びやかな最高級の装束から日常着に至るまで、その特徴や由来などについて徳川美術館学芸員の安藤香織さんに伺いました。
武家の装いは、フォーマルからカジュアルまで実に多彩だった
―江戸時代の衣服がこれほど残されていることに驚きましたが、尾張徳川家にとって、これらの衣服にはどのような価値があったのでしょうか。
安藤:尾張徳川家は御三家筆頭であったため、装束は大変格式の高いもので、当主やその家族のために仕立てられた品は、大切に受け継がれてきました。驚くのは一部の装束ですが、身に付けるのに必要な冠、下着類、沓(くつ)などが1セット、全部揃った状態で残されていることです。展示は十四代徳川慶勝(とくがわよしかつ)と正室である矩姫(かねひめ)の装束が中心ですが、その他、羽織や火事装束、陣中着や装飾品まで、歴史の資料となり得るような貴重なものが残されています。今回の展示では、フォーマル、セミフォーマル、カジュアルというように格の高い順で展示しているので、当時のTPOに合わせたトータルコーディネートがどんなものだったのかが、わかっていただけると思います。
1000年以上の時を経て伝わる平安美学を模した装束の数々
―武家の装いとしては、江戸時代だけでなく、平安・鎌倉時代などの公家の装束も同時に知ることができ、雅な世界に浸れました。今回の装束に関しては、どのような資料が残されていたのでしょうか。
安藤:江戸幕府の服制については、「武家諸法度(ぶけしょはっと)」などの当時の法令にも簡潔に記載されています。さらに、徳川幕府の典礼や儀式についての詳細が明治時代に執筆された福井藩主・松平春嶽(慶永、1828~90)による随筆『幕儀参考(ばぐぎさんこう)』や市岡正一著『徳川盛世録(とくがわせいせいろく)』、着用方法や部分名称の解説も書かれた伊勢貞丈著『武家装束着装之図』などによっても明らかにされています。今回は、尾張徳川家伝来の品々をそうした記録に照らし合わせながら、展示しています。
―尾張徳川家には膨大な文献資料が残されていますが、生活文化においてもたくさんの記録が残されていたんですね。着用方法まで書かれているとは現代のハウツー本のようです。こうやって揃えで装束や刀などの装飾品と合わせて見ると、よりリアルに武士たちの当時の様子が蘇ってきました。最初に展示されている礼装は、どのような時に着用されたものでしょうか。
安藤:こちらは束帯(そくたい)といって、平安時代、朝廷で用いられていた最上級の礼装でした。下着として、単(ひとえ)や下襲(したがさね)を着用し、この白い下襲の上に黒い生地を用いた袍(ほう)をまとい、革に石飾りのついた石帯を締めます。この束帯は、尾張徳川家十六代徳川義宣(とくがわよしのり)が幼年の時に用いたもので、単は濃色(赤紫色)、下襲・表袴・裾には細かい文様があり、表袴には立体的な浮織物の文様になっています。下襲と同じ生地で仕立てた裾(きょ)と呼ばれる長い裾(すそ)を引いているのが特徴です。最後に冠を着け、細太刀(ほそたち)を佩(は)き、笏を持つというのが通例のスタイルになっています。冠も甲(ひたい)の先端に半月状の櫛形の透かしを設けるのが若年用とされていました。
―幼年時からもこのような立派な儀式の礼服が作られていたんですね。純白で光沢のある浮織物は華やいだ感じもあり、若い人だけに着用が限られていたというのもわかります。これらは本当に状態が良いので、今でも着られそうですね。
安藤:束帯は江戸時代、将軍の任命式である将軍宣下(せんげ)や歴代将軍の百回忌以上の法会など、特別な儀式の時だけに用いられていたので、あまり着る機会がなかったようです。
―確かに百回忌というのはめったにない儀式ですから、着る機会のなかった人もいたんですね。これ以外にも公家の装束を着用されていたんでしょうか。
安藤:はい、束帯を簡略化した礼装が衣冠(いかん)です。歴代将軍の五十回忌以下の法要や、朝廷の勅使を迎える際に、諸大名が着用していました。袍に付属する小紐を石帯の代わりとし、裾を括った指貫(さしぬき)と呼ばれる幅広の袴を履くのが特徴です。衛府の太刀(えふのたち)をつけ、檜扇(ひおうぎ)を持ちました。下着の単・下袴は赤色です。
―男性も赤い色を着るというのは、今でいう差し色のようなものでしょうか。
安藤:そうですね。壮年になると、指貫の色も浅葱(薄い藍色)となり、若年用の濃い色とは違います。展示しているのは、慶勝が用いた冬用の衣冠で、指貫の裾を短く切った指袴(さしこ)と呼ばれる形のものです。
男性の装束にも色彩を重視。雅というのは男性女性に関係なく使用された
―この黒い装束は、現代でも見かけますね。大相撲の行司が着ているような衣服ですね。
安藤:衣冠に次ぐ礼装である直垂(ひたたれ)は、平安時代は庶民が身に付けていた実用着でした。武家が台頭した鎌倉時代以降、格が上がった直垂は、江戸時代には一年のうちで最も格の高い場面にあたる正月に将軍へ御祝を言上するため登城する際に、有力大名が着用していました。襟をV字に前で合わせるスタイルの礼装で、尾張徳川家を含む高位の大名は、薄手の生地で仕立てた直垂を身に着け、立烏帽子(たちえぼし)をかぶり、中啓(ちゅうけい)を持ち、腰に差す短い刀、小サ刀を帯びます。刀の種類も装束の格によって決められていました。
装束のこだわりは細部に。差し色や色合わせは現代以上にお洒落度が高い
―江戸時代に公家の装束を着用していたのは、公家文化に対する憧れがあったのでしょうか。
安藤:憧れというより、武家も天皇を頂点とする身分制の中に位置づけられていたため、朝廷の正装が必要でした。狩衣も平安時代の貴族文化の中で、文字通り狩りに適した服として成立したものです。
―現代よりも男性の服装の方が決めごとが多く、バリエーションも多い気がします。それだけ衣服での位がはっきりしていたといういことなんですね。服装を見れば、地位がわかるというように。男性の装束の生地の美しさや色合わせもおしゃれで、袴の文様もとても凝っていますね。
安藤:江戸時代の男性の装いは、例えば、狩衣では表裏の色の取り合わせにより、美を表現する重ね色目を表しています。重ね色目には、平安時代以来の長い歴史があり、着こなしには色合わせの知識も必要でした。この狩衣は表地が青味がかった紫、裏地は萌黄の「青丹(あおに)」※1と名づけられた色目で、四季を通じて着用することができました。袖口の括り紐は中年用の厚細と呼ばれるやや厚く細めの組み方で、指袴も中年用の浅葱色で、落ち着いた色の上下に朽葉色と白を段替わりにした紐が明るさを添えるなど、おしゃれな大人に相応しい着こなしといえます。
かさね色目-自然界のようにいくつもの色を重ねることで中間色を創り出すこと。複数の重ね着による色合わせを「襲色目」、表裏の配色を楽しむことを「重ね色目」と呼んでいました。平安の人々の風情あふれる暮らしが伝わります。
―「青丹よし」は和歌にもよく出てくる奈良にかかる枕詞ですね。四季を通じて着ることができたということは、それぐらい日本人にとって大切な色だったんですね。
徳川家康の羽織を復元。羽織にも神々しさが宿る
―ところで、もう一つ、今回の目玉として、徳川家康が着用していた「辻ケ花」の羽織が展示されています。これはどのようなものなのでしょうか。
安藤:家康が着ていた衣服は、ボロボロになっても大切にされていました。この羽織は、遺されていた裂地により、平成に入ってから復元されました。これも日常着として着ていたと思われます。高貴な黄金色にうさぎの文様が染め抜かれています。尾張徳川家には、他にも家康が亡くなった時に、初代当主の義直(よしなお)に財産分与として与えられた家康の衣服がたくさんあり、家宝として守られてきました。染織品は弱い素材で長期間の保存は大変難しいことからしますと、家康の時代から様々な品がよく保存されてきたことは、本当に奇跡的だと思います。
―大河ドラマ「どうする家康」で、織田信長に「白うさぎ」とあだ名で呼ばれていた家康が着ていた羽織が、白うさぎの文様とはかわいらしく、ドラマの中の家康のイメージと重なりました。
安藤:ドラマのエピソードはフィクションで、本当にうさぎが好きだったかはわかっていません。うさぎ自体は吉祥模様なので、男性の装束にも使用されていましたし、珍しいことではないんです。刀の鐔にもうさぎの文様はあります。
―羽織でいうと、尾張藩二代目藩主徳川光友(とくがわみつとも)の着用していた茶宇縞(ちゃうしま)袷羽織も縞模様が現代風で、すごくおしゃれですね。
安藤:これは輸入品で、茶宇縞という名はインド西部の地名チャウルに拠るものです。日本の伝統にはない色・柄で人気があり、これを模したものがたくさん作られていたそうです。
―なんだか江戸時代の大名たちが、おしゃれにこだわったイケオジに思えてきます。
江戸時代の武士のイメージといえば裃。現代でいえばビジネススーツ!
―武士の礼装に話を戻して、私たちがよく歌舞伎や時代劇などで見る裃(かみしも)はどのような場面で使用されていたのでしょうか。
安藤:裃は礼装でもあり、また現代でいえば普段の仕事着、ビジネススーツのようなものです。肩衣と呼ばれる袖のない上着と袴のセットで、着用する場面によって素材や形が異なりました。年中行事などの儀式で、着用する準礼装には袴の裾が長い長袴、通常の登城時に着用するのは裾が短い袴で、大名から家来に至るまでの日常着や訪問着としては、種類の異なる肩衣と袴を組み合わせる継裃(つぎかみしも)が定着していました。冬季は絹製の熨斗目(のしめ)※2、夏季は麻製の帷子(かたびら)※3などの上に着用しました。
豪華絢爛~一枚の絵画のような美しさを誇る姫の装束
―今回展示されちる姫たちの装いもまた煌びやかですね。矩姫の小袖は今でいうと婚礼衣装のようなものでしょうか。
安藤:これは正月三が日や冬季の年中行事に着用した打掛です。綸子(りんず)という織模様のある絹の織物に刺繍を散らしている最上級のものとなっています。行事の際は、袴も着用しました。正礼装の打掛(冬用)や単衣・帷子(夏用)は、地色が白黒赤のいずれかで、季節の草花と幾何学模様が互の目に配されています。
―まさに着る芸術品と思えるほど、色も鮮やかで美しいですね。
安藤:この準礼装の小袖は、御所解模様(ごしょどきもよう)と呼ばれる江戸時代に流行った風景模様の品です。縮緬地に染や刺繍で模様を表しています。上部は『源氏物語』の「花宴」、下部は「賢木(さかき)」に基づいたモチーフになっています。当時は1日のうちに何度も着替えており、準礼装は、午前中の行事の後の着替え用とされていました。
―袖の長さが随分違っていますし、現代の着物と形状も少し異なりますが、これは振袖ですか? 現代の女性と同じように、婚前の女性が着用していたのでしょうか。
安藤:これは夏の礼装で、江戸時代には、基本的に妊娠すると袖を短くしていましたが、若いうちは振袖を着用していたようです。この他に日常着としては、縞や絣などを今と同じようなカジュアルな着物を着ていました。
―このあたりになってくると現代と違いがなく、親近感が湧いてきます。装飾品も現代でも使うものがありますね。
安藤:今回の展示では、筥迫(はこせこ)という現代の化粧ポーチにあたるような装飾品や、化粧に使われていた豪華な道具類も紹介しています。江戸時代から大正時代まで流行った『新風俗化粧伝』という化粧のハウツー本も展示しています。こういったものを見ると、女性の美意識は今と変わらず、みんなかなり熱心に「美」に取り組んでいたんだなと感じるところもあります。今回の展示を通して、江戸時代の武家の暮らし、それぞれのよそおいに込められた想いを身近に感じていただければ嬉しいです。
取材を終えて
復元ではなく、江戸時代に着用されていたものが、フォーマルからカジュアルまで一堂に展示され、大河ドラマ「どうする家康」がリアルに目の前に広がっていくようでした。今は衣服の変化も著しく、和装に触れる機会も少なくなりましたが、平安時代からの装束のスタイルを1000年近くにわたって江戸時代に受け継がれてきたことを思うと、日本の伝統としての装束の大切さを改めて考え直しました。もしかすると、江戸時代の人々、特に家康が大事にしていたのは平安の美だけではなく、そこに宿る人々の心の美しさだったのではと思います。長年にわたり、大切に受け継がれてきた装束。歴史を振り返りながら、古の人々の思いに馳せる時間となりました。
参考資料:有職装束大全 八條忠基著 平凡社
よそおいの美学
会期:令和5(2023)年6月3日(土)~7月17日(月・祝)
開館時間:10:00~17:00(入場は16:30まで)
観覧料:一般1,600円/高大生800円/小中生500円
主催:徳川美術館・名古屋市蓬左文庫
協力:名古屋市交通局
特別展よそおいの美学公式ホームページ
夏季特別展 徳川家康-天下人への歩み―
会期:令和5(2023)7月23日(日)~9月18日(月・祝)
開館時間:10:00~17:00(入場は16:30まで)
観覧料:一般1,600円/高大生800円/小中生500円
主催:徳川美術館・名古屋市蓬左文庫・読売新聞社
後援:NHK名古屋放送局
協力:名古屋市交通局