江戸時代の人気力士と横綱の条件とは
神話の時代の力くらべから、農作物の収穫を占う神事として定着した相撲。織田信長など戦国大名も、鍛錬のために相撲を取っていました。江戸時代に入ると、浪人や力自慢の男たちから相撲を生業(なりわい)とする「力士」が登場。寺社の造営・修復の費用を集める勧進相撲(かんじんずもう)が各地で行われ、江戸中期には興行が定期的に開催されるようになっていました。
当初、相撲人気を盛り上げたのが、初代の明石(あかし)から数えて4代の横綱・谷風、5代の小野川、そして雷電(らいでん)の3人でした。中でも特筆すべき存在が、身長189㎝、体重161㎏の大型力士であった谷風です。強いだけでなく人としても抜群の品格を備えていたことから、歴代横綱の筆頭と称される谷風は、今も横綱の理想像として語り継がれています。ちなみに当時の最高位は大関。横綱は優れた力士に贈られる称号でした。小野川は体格が劣っていたものの、スピードで谷風に対抗しえた力士。雷電はふたりの横綱より高い勝率を残しましたが、横綱になるタイミングを逸した悲運の力士でした。
一対一で闘い、勝ち負けが明確でわかりやすい相撲は、名力士の登場によって人気沸騰。将軍の上覧(じょうらん)相撲も行われ、歌舞伎と双璧をなす娯楽となります。江戸庶民にとって最新メディアであった浮世絵でも「相撲絵」と呼ばれる、力士の浮世絵が大ヒット。取組(とりくみ)を見た人も見てない人も、〝推し〟力士の浮世絵をわれ先にと買い求め、今のポスターのような感覚の相撲絵は、相撲はもとより、浮世絵の隆盛にも一役買っていました。
その人気を率いていたのは、やはり横綱。9代秀ノ山、10代雲龍、11代不知火、13代鬼面山。以上4人の横綱は、谷風の人気を受け継ぎ、相撲を発展させた名横綱。その姿を写した浮世絵は、筋肉隆々でいながらも神々しさを伴っていて、まさに美丈夫(びじょうふ)。江戸庶民の興奮が伝わってくるようです。
伝説として語られる江戸の名横綱
4代横綱・谷風(たにかぜ)
谷風は、相撲史上屈指の強豪と語り継がれる偉大な力士です。陸奥国(宮城県仙台市)の豪農に生まれ、幼少期から怪力だった逸話をもちます。全盛期には4年間負けなし、63連勝を記録する偉大な成績を残し、江戸時代の相撲人気を大いに盛り上げました。
小柄ながら気迫と怪力で頂点に立つ
9代横綱・秀ノ山(ひでのやま)
秀ノ山は陸奥国(宮城県気仙沼市)出身の9代横綱です。海上運輸を担う家の長男で、元力士の荷揚げ人に相撲を習いました。力士を目ざして江戸へ上るも、背の低さから相撲部屋に入門できず、努力を重ねて力士となります。怪力と闘志で頭角を現し、横綱となりました。
雲龍型の名はこの横綱に由来する
10代横綱・雲龍(うんりゅう)
雲龍は筑後国(福岡県柳川)出身。土地相撲から大坂相撲を経て、江戸相撲へ進出、新入幕から4場所連続で優勝相当の成績を残しました。その土俵入りの姿の見事なことから、雲龍型という名称が残っています。引退後の明治時代には、相撲復興に尽力しました。
横綱土俵入りの型に名を残す名横綱
11代横綱・不知火(しらぬい)
不知火は身長177㎝、技に優れた力士。江戸時代に不知火と名乗った横綱が複数いましたが、不知火型という横綱土俵入りの型の元となったのは、11代横綱の不知火光右衛門。その土俵入りの姿は、白鶴が翼を広げたようだと評されるほどでした。
幕末に活躍した明治時代最初の横綱
13代横綱・鬼面山(きめんざん)
鬼面山は身長188㎝、体重140㎏の巨漢力士。鬼面山とは怖そうな四股名(しこな)ですが、武士のような風格をたたえ、人柄は温厚で人気を集めたといいます。明治時代に横綱になったのは43歳のころ。横綱の最高齢記録は以後も破られていません。
【番外】身長229㎝の大人気力士!
生月(いきつき)
男性の平均身長が160㎝未満だった江戸時代、巨漢力士は神々しい存在でした。なかでも最長身が生月。親が肥前国松浦郡(長崎県平戸市)の鯨漁師だったことから、平戸藩主より与えられた名が鯨太左衛門。多数残る相撲絵が、人気を物語っています。
※本記事は雑誌『和樂(2023年6・7月号)』の転載です。