浮世絵の開祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「見返り美人図」は、教科書にも載る肉筆浮世絵の代表作です。実は、このモデルは、師宣の馴染みの遊女で、後妻となった22歳年下の「おはる」だと伝えられています。この絵を描いた時、師宣はすでに晩年であり、集大成といえる1枚でした。絵師としての活動は20年ほどですが、その間に多くの浮世絵を描き、菱川流門人を数多く輩出するまでになります。時代の先駆者として浮世絵を世に送り出し、稀代のクリエーターとなった菱川師宣の人生を追いました。
縫箔師の家業を継ぎながら絵師を目指す
菱川師宣は、寛永8(1631)年頃に、安房国平北郡保田村(現在の千葉県安房郡鋸南町保田)に、菱川道茂(ひしかわみちしげ)の長男(第4子)として誕生します。通称は吉兵衛。実家は縫箔師(ぬいはくし)で、金糸や銀糸を使った刺繍や金箔銀箔で着物地を装飾するなど、高価な衣装を仕上げていました。師宣も後を継ぐべく、16歳頃に下絵修行として、江戸に出向きます。その後、家業を手伝いながら、狩野派や土佐派に学んだと言われています。縫箔師の長男ではありましたが、幼い頃から絵を描くことが好きだった師宣は、家業より、絵師への憧れが強かったのではないでしょうか。
庶民の間でも読物が人気となり、挿絵画家として人気に
泰平の世となり、生活が豊かになっていくにつれ、武士だけでなく、町人たちにも娯楽が広がっていきました。そのきっかけの一つとなったのが出版文化です。町に書店が増え、庶民も気軽に本を手に取ることができるようになります。師宣は江戸で縫箔師の仕事をしていましたが、絵のうまさが評判となり、版元(板元)に目をかけられ、挿絵を依頼されるようになります。
当時、古典をもとにした御伽草子(おとぎぞうし)や浮世草子(うきよぞうし)、仮名草子(かなぞうし)などの読本が人気を呼びます。師宣もこれらの本に挿絵を描く中で、寛文12(1672)年、歌詠みの武人を描いた『武家百人一首』で、本格なデビューを果たします。この時の画名は菱川吉兵衛で、延宝5(1677)年あたりまでは、この名で活動していたようです。
風俗画を描く絵師として注目を集める
師宣の時代は、まだ浮世絵は肉筆でした。その頃の作品が、吉原を描いた『吉原風俗図巻』で、これらが庶民にも受け、一躍師宣の名が知られることとなります。
遊廓に売られる女性たちは、不幸な身の上でしたが、吉原は金満家が集う華やかな場所として、庶民にとっては憧れの場所となっていきます。武士や僧侶、金持ちの町人のように遊女を買うことはできないけれど、その様子を見物する庶民も出てきたほどです。師宣は、もともと男女の秘儀を描いた枕絵でお金を得ていたため、吉原にも出入りしており、そこで見た情景や客との様子を描いていました。愛らしい遊女たちを描いた絵図を手にした庶民は、ますます師宣の絵に惹き込まれていきます。さらに師宣のすごいところは、自分の絵師としての仕事をアピールするため、絵に落款(らっかん)を入れたのです。それまで、絵師が自分の名を記すことはありませんでしたが、これにより師宣の名が一気に世間に広がっていったのです。
四十八手を生み出した師宣は、生涯枕絵を描き続けた
師宣のもう一つの画業として評判を呼んだのが男女の秘め事を描いた枕絵、いわゆる春画でした。延宝6(1678)年、男女の和合をテーマにした描写に没頭していきます。今でいうライフワークです。当時、男女の和合の体位については、平安時代の『医心方(いしんほう)房内』や室町時代の『黄素妙論(こうそみょうろん)』などで解説されていましたが、それを知っているのは一部の上流階級だけでした。これを一般大衆にも広めたいと考えた師宣は、吉原の妓楼に通い、遊女と客の戯れを覗かせてもらいながら素描しました。さらには、知人に頼んで体位を試す様子を写生させてもらうなど、情熱を注ぎ込み、のめり込んでいきます。その甲斐あって、延宝7(1679)年、『表四十八手』は初版推定300部を製本し、江戸で大ヒットを飛ばします。その後、再販時には副題を『恋のむつごと四十八手』としました。相撲の決まり手の四十八手も、師宣の『表四十八手』にヒントを得たと言われています。この発想といい、ネーミングセンスといい、現代に生まれていても間違いなくヒットメーカーとなっていたことでしょう。
『好色一代男』の江戸本に挿絵を描く
師宣は、次々と発表する版本や版画集の作品で、江戸だけでなく、その名は上方にも広まっていきました。器用な師宣は、「物語絵」や「江戸名所風俗」「春画」に加え、多彩な美人画も描き、自らの絵で師宣ブランドを確立していきます。こうした人気に目を付けたのが版元でした。当時上方で大ヒットとなっていた井原西鶴の『好色一代男』を江戸で出版しようと、挿絵を師宣に依頼したのです。
師宣の挿絵があると本が売れるため、絵を大きくし、ビジュアルが文章とほぼ同じ、あるいは紙面の半分以上を占めるものまで登場します。これも師宣によって生み出された新たなジャンルの本でした。
浮世絵という1枚絵を生み出し、江戸の風俗画の地位を確立
この頃の版画は、今でいう一枚摺りではなく、組物と呼ばれる12図で1組となったセットものでした。それを1枚刷りの版画として売り出そうと提案したのも師宣でした。絵描きに向けた絵手本を数多く出版していた師宣は、それが庶民にも売れていることを知ります。絵を欲しがる庶民が増えているなら、版画を1枚絵にしたら、もっと売れるのではないか、というアイディアから、今の浮世絵が誕生しました。師宣が浮世絵の開祖といわれる所以です。絵を描くだけでなく、どんな人達が絵を求めているのかを考察した師宣は、現代でいえばマーケッターやプロデューサーの役目も果たしていたのでしょう。江戸の風俗画の地位を確立した師宣の下には、多くの師弟や門人が集まり、菱川派が誕生。晩年期には、一門による集団での絵画制作も行われていたといいます。
生涯現役を通し、浮世絵師の先駆者となった
現代において、多くの浮世絵師の名前を知ることができるのも、師宣のおかげと言えるのかもしれません。自ら、絵師としての誇りと、ものづくりへの熱情を持ち続けた師宣。晩年、手の神経痛に悩まされながらも、最後まで絵を描き続け、生涯現役を貫きました。元禄7(1694)年、菱川師宣は、家族や多くの弟子に見守られながら、その生涯を閉じたのです。
参考文献:江戸の人気浮世絵師 内藤正人著 幻冬舎新書、見返り美人の絵師 府馬清著 講談社、菱川師宣と浮世絵の黎明 浅野秀剛著 東京大学出版会
アイキャッチ画像:『低唱の後』 ボストン美術館より