藤原道綱(ふじわらのみちつな)は、平安時代に摂関政治で栄華を極めた藤原道長(みちなが)の異母兄。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、上地雄輔さんが演じています。
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父は摂政・藤原兼家、母は『蜻蛉日記』の作者
道綱の父は、一条天皇の摂政をつとめた藤原兼家(かねいえ)、母は『蜻蛉(かげろう)日記』の作者で、道綱母と呼ばれている女性です。
天暦9(955)年生まれの道綱は兼家にとっての次男で、嫡妻(ちゃくさい/正式な妻のこと)の時姫との間に生まれた道長にとっては、11歳年上の異母兄にあたります。
母が有名すぎて、息子はちょっと影が薄い
道長の兄ということは、彼だって平安時代に栄華を極めた一族のひとりです。それなのに、道綱という人はなんだかちょっと影が薄い。
江戸時代に描かれた『百人一首 右大将道綱母』の浮世絵をみて、「道綱って右大将(右近衛大将〈うこんえのだいしょう〉)まで出世をしたのね」と知るなど、母親の存在感が大きすぎるといえば、それまでなのですが……。
「大臣にはなれなかった」といわれるけれど
道綱は、父・兼家が亡くなった後の、摂関家の後継者争いの候補にはなっていません。「弟の道長に官位を追い越されて、大臣の位には生涯、手が届かなかった」といわれます。
それでも一条天皇の御代においては、大納言と右大将を兼任するまでに出世をし、のちに三条天皇として即位する東宮(居貞〈おきさだ〉親王)の教育係である、東宮傅(ふ)という役もつとめるなど、重臣の一人に名を連ねていたのも、また確か。
藤原道綱は、仕事のできない放言男だった?
しかし仕事のできる男だったかといえば微妙なところで、道綱について調べてみると、あまりいい評判が出てきません。
ライバル藤原実資の批判「一文不通の人」
道綱と官位を巡ってライバル関係にあった藤原実資(さねすけ)は自らの日記『小右記』に、道綱のことを「一文不通(いちもんふつう/文字が書けないという意味)の人」、「あいつは自分の名前を書くのがやっと」と書き残しています。
実資は有能な官吏でしたが人に厳しく、彼の日記に「一文不通」と書かれたのは、道綱だけではありません。本当に読み書きができなかったというよりは、「仕事のできないやつ」という程度の意味だったのでしょうが……。
右大臣・藤原顕光にむかって「寝取られ男が」
また、鎌倉時代に編纂された説話集『古事談』には、宴席での道綱の放言(ほうげん/節度のない言葉を放つこと)が収録されています。
それは一条天皇の御代の、宮中の宴席においてのこと。料理が出され、盃が数巡し、やがて管弦の演奏がはじまりました。道綱は席を立って舞を披露しますが、うっかり冠を落としてしまいます。周囲から笑われ、右大臣の藤原顕光(あきみつ)から馬鹿にされると、道綱は「妻を人に寝取られているくせに」と言い放ってしまいました。
つまり道綱は上席である右大臣の妻と不倫をしていて、それをネタに相手を馬鹿にし返したのです。節度のない発言で行事を妨げたとして、道綱は周囲からかなり批判されてしまったもよう。
実資が言うように、道綱は無能な男だったのでしょうか。
道綱母が残した『蜻蛉日記』には、少年時代の気になるエピソードが収録されています。
道綱16歳の栄光と絶望
天禄元(970)年、道綱は数え年で16歳。まもなく元服(げんぷく/成人の儀)を迎えようという頃のできごとです。
賭弓で活躍し天皇から褒美を賜る
宮中でひらかれる賭弓(のりゆみ/賞品を賭けて弓を射る行事)に、道綱も射手として参加することになりました。試合に勝ったら、舞を披露する役目も担っているというので、その練習にも明け暮れる日々です。
本番の数日前には、父・兼家の屋敷で総練習が行われました。「この子がいじらしく舞う姿を見て、みんな感動の涙を流していたよ」と父がわざわざ母の元に顔を出していうほど、できばえは上々です。
そして当日。兼家がやってきて衣装などを大騒ぎして整え、道綱を内裏に連れていきました。前評判では勝ち目はないといわれていましたが、道綱の活躍で勝負は引き分けになったと聞き、母は胸をなでおろします。舞も無事に披露して、天皇からは褒美の御衣(ぎょい/天皇のお召しもの)を賜りました。道綱母の屋敷には、お祝いにと訪れる人が引きも切らずにやってきます……。
道綱は少なくとも、弓と舞では優れた能力を持っていたようですね。
出家を覚悟し、鷹を放つ
しかしその後、兼家の足は道綱母の家から遠ざかってしまいました。父にはまた、新しく通う女性ができたようです。
道綱母は「いっそ死んでしまえたら」と嘆き暮らしていますが、やはり息子のことを思えば、死ぬことなどできません。「尼になって、世を捨てられるか試してみたいと思うのよ」と道綱に苦しい思いを打ち明けます。
道綱は声をあげて泣きながら「僕も法師(ほうし/僧のこと)になります」と答えました。道綱母はその思いつめた様子を見て「法師になったら、かわいがっている鷹は飼えませんよ」と冗談めかしました。
しかし道綱はおもむろに立ち上がると、飼っている鷹のところに行き、空へと放してしまったのです。そばで見ていた女房(にょうぼう/貴族に仕える女性のこと)たちは、涙をこらえることができません。
もし道綱に野心があれば……
道綱が成人しようというちょうどこの頃、兼家は屋敷を新築し、道長の生母である時姫と同居をはじめています。道長と仲のよい姉の詮子が円融天皇の女御となって、のちに一条天皇として即位する皇子を出産するのは、10年後の天元3(980)年。兼家と、詮子と同腹の息子たちの大躍進がはじまるのは、それからです。
一方で、一人前になるかならぬかという道綱は父に捨てられかけた母に寄り添い、ともに出家をしようと思い詰めているのですから、父の他には頼りにできるような親族もいなかったのでしょう。
だからこそ、父の兼家が亡くなったあとも、彼は野心など抱きませんでした。11歳も年下の道長を氏長者(うじのちょうじゃ)として敬い、権力者の兄という難しい立場で、朝廷での立場を維持し続けたのです。道長もまた、自らの敵にはならないこの兄を引き立て、プライベートでも仲良くしていたようです。
もしも道綱が無能な男であったなら、道長から邪魔にされるか、あるいは道長を邪魔に思う者たちに利用されるかして、早々に表舞台から姿を消していたのではないでしょうか。
アイキャッチ:『紅梅 (源氏香の図)』画:豊国 出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング
参考書籍:
『日本古典文学全集 蜻蛉日記』(小学館)
『古事談』(角川書店)
『小右記』(吉川弘文館)
『その後の道綱』著者:久下裕利(学苑)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)