茶葉屋を経営している友人が、お店のアルバイトの子たちに茶道に興味はないのかと聞いたところ、一人がこう答えたそうだ。
「なんか裏とか表とか怖いです」と。
思いも寄らないその返答を聞いて、「なるほど…」と言ったまましばらく固まってしまった。子どもの頃からその名称には慣れ親しんできたから、そんな印象を持ったことは一度もなかったけれど、言われてみるとなんとなくわかるような気もする。特に「裏」という漢字には「裏口入学」「裏社会」「裏切り」など、あまりよくないイメージが付きまとう。全く茶道の知識がない若い人たちにとっては、こうしたイメージが一歩踏み出すのを躊躇させる理由になり得るのだと、考えさせられるできごとだった。
非日常のものとなってしまう「お茶」
ただ「裏や表が怖い」とは思わないけれど、「お茶(茶道)ってなんか怖い」と思っている方は多いのではないだろうか。「先生が厳しそう」「正座がつらい」「着物を着られない」「ルールが細かくて覚えられない」などなど。「うんうん、わかる」と、私も思う。「お茶会」と言われて、「うっ」と思ってしまうことがよくあるし、他の御流儀であれば、より緊張感は増す。でも、お茶は元々、千利休がお客様をおもてなしする方法の一つとして確立させたもの。もう少し気軽に楽しめるものだと思うのである。
お茶を習っておられる方は国内外にたくさんおられるが、そういう方たちに「お家でお茶を点てていらっしゃいますか?」と聞いてみると、点てているという方は実はほんの一握りだったりする。お稽古やお茶会でしかお茶を点てる機会がないということは、それが非日常であるということに他ならない。
「目覚めの一服はいつもお抹茶です」「夕食後にお薄とお菓子を頂くのが楽しみで」という方であれば、お茶のお稽古を辞められても、お茶を点てて飲むという文化は日常生活の中に残っていくけれど、お稽古やお茶会だけという方は、お稽古を辞めた時点で完全に生活の中からお茶が一掃されてしまう。それはとても残念なことだと思うのである。
生活の中で「お茶」を楽しむ幸せ
面倒くさがりの私だが、実は時々お抹茶は点てて飲む。なんといっても簡単だからである。ポットにお湯を沸かし、茶碗を温める。お湯をざっと捨て、缶から直接茶杓でお抹茶を二すくい。お湯を注いで、茶筅でシャカシャカ。できあがりである。茶巾でお茶碗も拭かないし、お抹茶も茶漉しで振るわない。キッチンで流しの横に立ったまま全部済ませてしまう。急須でお茶を淹れるときに面倒な茶葉の後処理や、お湯が冷めるまで待つ時間も必要ない。面倒くさがりに大変適した飲み物であると思う。
ちょっと気分を換えたい日、ゆっくり過ごしたい週末の朝、気合を入れて臨みたい日、おいしい和菓子がある日など、「今日はお抹茶かな?」と思う日にお茶を点てる。お抹茶を頂くと、いつも気持ちがすっとする。「今日はいい一日になりそう」と思わせてくれる、魔法の飲み物だと私は思っている。
私の友人にはお茶の心得がある人が何人かいるが、彼らは自宅に招いたときも、旅先にも、簡易な茶箱を持ってきて、お茶を点ててくれることがある。「お湯だけ下さい」と言われるので、お湯をポットごと渡す。食後やちょっとしたすきま時間、おしゃべりしている間にいつの間にかてきぱきと箱を広げ、さっとお茶を点ててくれる。小ぶりでちょうど手の中に収まるかわいらしいサイズのお茶碗から伝わってくるぬくもりは、心をゆっくりとほどいてくれる。一口頂いて、「あー、おいし」といつもつぶやいてしまう。
たしなみとしてではなく、お茶が本当に好きで続けている彼らが点ててくれるお茶は、相手への思いが込められたやさしい味がする。そんなお茶を囲んでのひとときは会話が弾む。お茶が人と人とを結び付けてくれていることを感じるし、これが日常生活の中でお茶を楽しむということなのだろうと改めて思う。
忘れられない、大宗匠の笑顔
以前心游舎で、裏千家の千玄室大宗匠に講演をお願いしたことがある。その際、大宗匠の御心入れで、会場外のお庭で野点を催してくださった。当初は私と大宗匠が並んでお茶をいただく予定だったのだが、大宗匠が突然「わしが御点前するわ~」と、業躰さんと席を代わって私にお茶を点ててくださった。「大宗匠が御点前されるんだって!」と、裏方におられた御社中の方たちがざわざわと集まってこられ、徐々に場にピンとした緊張感が満ちる。
でも、そんな空気を意に介されず、大宗匠は穏やかなお顔で、粛々と手を動かされる。その御点前は流れるように美しく、何とも言えない艶があり、一つ一つの動きに意味があるのがわかる。まるでものがたりを紡がれているようで、すっかりとその動きに魅入られてしまった。
大宗匠の「どうぞ」の一言で我に返り、点ててくださったお薄を頂く。それは今まで頂いたお薄の中で間違いなく一番おいしかった。「おいしっ」ぽろりとこぼれた私の声を聞き、満足そうに笑っておられた大宗匠のお顔が忘れられない。
大宗匠の御点前を遠くから見ていた友人の娘さんが、「私、お茶習ってみたい」と言っていたそうだ。帰国子女で、日本文化とは離れて育ってきた彼女の心も引き付ける大宗匠のお茶。そう、お茶はきっと怖くない。