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蔦重AtoZ
Z=財産を半分没収されてもめげることなく突進!
蔦重が出版統制令に反し、身代半減(しんだいはんげん=財産の半分を没収)とされたのは42歳のころ。
山東京伝は当時の蔦重について、「肝の据わった男で、幕府のお咎(とが)めなどさほど気にしていないようだった」と語っています。
蔦重のアイディアは尽きることなし
実際に蔦重は、洒落本(しゃれぼん)や黄表紙(きびょうし)などの出版は断念したものの、出版物としての浮世絵制作にシフト。歌麿や写楽のヒットにより、以前にも増して有名になっていました。
こうして反転攻勢に成功した蔦重も、写楽が約10か月で姿を消したころから消息(しょうそく)も途絶え気味に・・・。その原因は脚気(かっけ)。贅沢病(ぜいたくびょう)、江戸患いと称された病も、いかにも〝らしい〟ところです。
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蔦重は終生、吉原の繁栄を願っていた!
病の床についていた蔦重は自らの死期を悟り、寛政9(1797)年5月6日正午に亡くなることを宣言。
当日の正午にまだ息があった蔦重は、「芝居は終わったのに、まだ拍子木(ひょうしぎ)が鳴らないな~」と言って笑わせ、夕方に息を引き取ったとか。
最後の最後まで、粋な男だったのです。
蔦重の没後も存続していた「耕書堂」
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