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蔦重AtoZ
K=狂歌を通して作家とネットワークを築いた

蔦重が日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出し、「耕書堂(こうしょどう)」をオープンしたころ、江戸の知識層の間では、狂歌がブームになっていました。狂歌とは、和歌と同じ五七五七七の字数で、冗談や滑稽(こっけい)を詠んだのが狂歌。武士や学者らが狂名で参加し、披露会が盛んに行われるようになっていたのです。
流行に敏感な蔦重がこの好機を逃すはずはなく「蔦唐丸(つたのからまる)」の狂名(きょうめい=狂歌師としての号)で参加。さらに、狂歌師を集めた吉原での宴会や、舟遊びなども催していました。
ですが、蔦唐丸の狂歌の評価は決して芳(かんば)しいものではなく、蔦重はいずれ劣らぬ才知をもった狂歌師たちと知り合い、版元としてのネットワークを広げるために狂歌を利用していたという説も・・・。
実際に、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)や恋川春町(こいかわはるまち)と組んでヒット作を連発。
宿屋飯盛(やどやのめしもり)選の狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』などの絵を、「筆綾丸(ふでのあやまる)」の狂名をもっていた喜多川歌麿に描かせていたのですから、その説は的を射ているのかもしれません。

ちなみに、蔦屋で執筆していた戯作者たちの狂名は、恋川春町が酒上不埒(さけのうえのふらち)、朋誠堂喜三二が手柄岡持(てがらのおかもち)、大田南畝(おおたなんぽ)が四方赤良(よものあから)。
宿屋飯盛は狂名で、名前は石川雅望(まさもち)。

江戸狩野派(えどかのうは)の絵師・酒井抱一(さかいほういつ)も尻焼猿人(しりやけのさるんど)という狂名をもっていて、蔦重が狂歌を通じて知り合った文化人のひとりでした。
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あの酒井抱一が、ペンネーム「尻焼猿人」でセクシーな狂歌を詠んでいた?
狂歌名人がそろった席に蔦重も!


