どの角度から見ても。
物の見事に真っ二つ。
断面のキレっぷりが鮮やかすぎて、言葉が出ない。
意図的か、もしくは自然発生的なのか。
その名も「神石(かみいし)」。
まさにイメージ通りの呼び名である。
苔生(こけむ)した様子から、かなりの時間が経過したことが分かる。
それがまた新緑の季節と相まって、なお一層、美しい。

それにしても、なぜ今までその存在を知らなかったのかと首を傾げるばかり。
だが、見渡せば。
日本各地には数多の寺社が存在する。
そのうち、海外にまで名が知れ渡り、観光客でごった返すところはほんの一握り。知る人ぞ知る隠れた古刹や古社も中にはあるが、大半は地元の人に支えられ存続している寺社である。多方面から関心を呼ぶには限界があるのだろう。
ただ、そのような神社仏閣には。
大抵、不思議な伝説や遺物が伝えられていて。
そんな貴重な情報を発見する喜びは。甘美で、クセになるほどの恍惚感。この発見を1人でも多くの人に伝えたい。そう思うのは至極当然のコト。
ということで。
今回は、ダイソンの静かなる野望を形にした新企画。
日本各地、特に移住先である「九州」を中心に、点在する神社仏閣を訪ねその魅力を大いに語り尽くす「ダイソンの寺社探訪」シリーズである。
その記念すべき第一弾となるのがコチラ。
宮崎県都城市にある「東霧島(つまきりしま)神社」である。

もう、名前からして。
なんで「つまきりしま」という読み方なんだと、興味津々。
一体、どのような魅力を発見できるのか。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※本記事の写真は、すべて「東霧島神社」に許可を得て撮影しています
東霧島神社の由来
宮崎市内から車で1時間弱の距離にある東霧島神社。
最寄りのJR東高崎駅からだと徒歩で10分ちょっと。線路沿いを歩くと見えてきたのが、大きな赤い鳥居である。

大木の間を抜けてまっすぐ進んでいくと。
真正面に境内の案内図を発見。
意外と境内は広い。
御神殿へ辿り着くには、相当長い階段を上る必要があるようだ。
それにしても、なかなか多くの神様がいらっしゃるようで、至るところに末社がある。

うん?
とある部分に目が留まる。
神社なのに、なぜか「鬼」の姿が。
長い階段の前にドカッと座っている。
なんだか、怪しいぞ。早くも伝説の匂いがプンプンするではないか。
期待が高まる中、案内図に従って右手に進む。
早朝だからか、辺りは静かで薄暗い。周りにあるのは、見上げるほどのご立派な大木ばかりである。森特有のひんやり感が心地よく、マイナスイオンに身体中の細胞が目覚めるような気がした。
はて。
白い煙が立ち上がってるのか?
途中に屋根が六角形の不思議な建物を発見。

近付くと「古神符焼納所」という文字が。
どうやら古いお札のお焚き上げをしているようだ。これまで古いお札を納める場所は何度も見てきたが、「焼納所」は初めてだったので興味津々。見るもの触るものが珍しく、たまらず辺りをキョロキョロ。
最初からこの調子である。
さすがに神域には似つかわしくないと反省し、高揚感を落ち着かせるべく社務所へ。
ご対応いただいたのは、今年の4月にお父様から代替わりされたばかりという、宮司の稲丸博文氏だ。
まずは、東霧島神社についてお話をうかがった。

「御祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)から始まりまして、神武天皇に至る七柱の神々を祀っております」
創建は『古事記』や『日本書紀』で第5代天皇とされる「孝昭天皇」の時代。
多くの神様をお祀りし「神々が集まる」という意味で「あづまきりしま」と呼ばれていたとか。また、一方で、霧島山の東の端に位置することから、「つま(はし)」とも呼ばれるようになったという。
「御神殿の上にある岩……というか石ですね。あちらがこの神社の元、始まりと言われています。御神殿が建つ前に、こちらの石を神様として古来より信仰してきたんです」

そもそも、ここら一帯は、霧島山そのものを御神体とする「霧島御山(おやま)信仰」の地であったという。
最近、珍しく7年ぶりに噴火のニュースが飛び込んできたが。当時の霧島山は、あの桜島よりも火山活動が活発で、噴火が起きて被害を受けることもしばしばだったとか。人々は「噴火」という事象を「山の怒り」として捉え、霧島山に畏怖の念すら抱いていたようだ。
そんな霧島山を囲むように建てられたのが「霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)」だ。
かの有名な「霧島神宮」をはじめとし、「霧島東神社」、「狭野(さの)神社」、「霧島岑(みね)神社」、「夷守(ひなもり)神社」、そして今回訪れた「東霧島神社」の六社を指す。6つの神社とも山の入口付近に位置することから、一説には、入山する前に穢れを落とす役割があったとも。
なお、明治時代に夷守神社は霧島岑神社と合祀され、現在は五社として数えられている。
江戸時代の書物にも、東霧島神社は「東霧島権現社」として登場する。
天保14(1843)年に完成した鹿児島藩の総合地誌『三国名勝図会(さんごくめいしょずえ)』。三国とは、薩摩国、大隅国、日向国で、現在の鹿児島県、宮崎県を指す。
コチラを見る限り、当時の境内は現在と大きく変わらず、「神石」や「伽藍石」の存在も確認できる。

さて、この霧島六社権現だが。
霧島山に近いこともあり、幾度か噴火の被害があったという。
そんな六社を再興、整備したのが、天台宗の僧である「性空上人(しょうくうしょうにん)」だ。
応和3(963)年、京都より来られた性空上人は、修験者の修行の場である霧島山で4年間修業。その際に噴火で埋没した東霧島神社の御神殿を再興されたとか。
「だから、うちは神仏混合なんです。元々、お社があって。性空上人が来られて神仏混合になって。江戸時代中期以降になって島津のお殿様が本殿を建てられたと。それが今の御神殿です。もちろん、あれから何回か改修工事をしてまして。平成に入ってからは、屋根とかも瓦から全部銅板にしました」

つまり、これまでの歴史を辿っていくと。
東霧島神社は神社なのだが、天台宗の僧である性空上人の影響も色濃く、加えて島津藩関連の遺物もあるというコトか。
それ故「見どころが多い」と評されるのだろう。
じつは真っ二つではない「神石」
そんな様々な歴史がある東霧島神社だが。
そもそもの始まりはというと、石から始まったご信仰である。そのせいか、境内にはしめ縄のされた石が多い。
御神殿の横にある「伽藍石」はご紹介したが。
それだけではない。裏参道の途中にある御池にも。

そして、忘れてはならないのが、冒頭に触れた「神石」だ。
なぜ真っ二つなのかと気になっていたが。
世間は違う意味で関心を持ったらしい。
「コロナ禍にもかかわらず、当社の『神石』が漫画『鬼滅の刃』に登場する石のモデルではないかと、参拝者が結構来られたんです」と稲丸宮司。
なんでも『鬼滅の刃』の作中で、主人公が自身の技を鍛錬するために岩を刀で斬るシーンがあるという。全国にはそのモデルと推測される石が幾つかあるのだが、東霧島神社の「神石」も、そのうちの1つではないかと噂が広まったという。
いわれてみれば。
確かに、刀でスパッと斬られたと言わんばかりの断面だ。
当時も珍しかったのか、先ほどご紹介した『三国名勝図会』にも、しっかりとその存在が記されている。
「神石」に手を合す民衆の姿。ご信仰の一端が垣間見える。

再び「神石」に目をやると。
古びた石の鳥居の向こう側。
静かだが、何か迫りくるものがある。その神秘的なたたずまいから目が離せない。
これほどまでに鮮やかな切り口は、そうそうないだろう。
やはり、人為的なのか。
もしそうであれば、また違う謎が出てくる。
一体、「誰が」この石を斬ったかというコトだ。

宮司に尋ねると。
予想外の言葉が返ってきた。
「宮崎市の大島町にある霧島神社。シーガイアとかの近くにある神社ですね。そちらに飛んでった石がございますので」
うん?
飛んでいったとは、どういうコトだ?
「『神石』は真っ二つではなくてですね、3段に斬られてまして、その1個が飛んでいったっていう……」
おっと。
それは、あまりにも見落とし過ぎだろう。ダイソンよ。
少し巻き戻して、再度、違う方向から確認すると。

あああああああ。
確かに、真っ二つではない。
よく見ると「神石」の後の部分、つまり、鳥居とは反対側の部分が欠けているではないか。ということは、3つに分かれて。その1つが行方不明、いや、行方は分かっているから、それも違う神社に飛んで行ったというコトか。
では、誰が斬ったというのだ。
「伊弉諾尊(イザナギノミコト)が妻を亡くして、悲しんでですね。二度とこのようなことがないようにと石を切り裂いた。『十握(とつか)の剣』って、うちのご神宝でと言い伝えられております」
東霧島神社に伝わる話だと。
天地創造の神である「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」。夫婦となった二神は、あらゆる神々を生み出していく。その途中、「火の神」を生み出す際に難産で、この世を去られたとされるのが、妻の「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」。
その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、『神石』(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)であるといいます。…(中略)…今後再びこのような災難に世人が遭わないように…と、深き祈りの心を込めて三段に切ったといいます。
(東霧島神社のホームページより一部抜粋)
なるほど。
だから、「神石」の近くに安産の神様を祀った社があったのかと納得した。
それにしても「神石」が「涙」の塊だったとは。
想像すらできなかった。
その意味を知った途端、神秘的だと思っていた「神石」が全く別のモノに見える。
森の中で苔が生えたのは、湿気の多い場所だから。
だが、その湿気は、気候のせいではない。
愛する人を失った悲しみ、果てぬ「涙」から来るのだろう。
絶対に振り返ってはならぬ「鬼磐階段」
さて、気持ちを切り替えて。
今度は、境内の案内図にあった「鬼」についての質問だ。
神社なのにどうしてと、ずっと気になっていたのである。
「鬼磐(おにいわ)階段ですね。昔から言われてますね」
神社に伝わる話では、なんでも鬼たちが一夜で積んだとか。振り向かずに一心に願いを込めて石段を上り切ると、願いが叶うといわれている。

ただ、内容をよく吟味すると。
この地方を治めていた豪族で鬼といわれるほど恐れられ、善良なる土民に悪の限りを尽くしていたという。ところで、この善良なる土民の一人に、気品ある娘がおったという。悪しき豪族、その娘を嫁にせんがため、再三口説くもその願いかなわず、ついには田畑を荒らし、土民を困らせたという。
(東霧島神社のホームページより一部抜粋)
厳密には「鬼」と恐れられた豪族のようだ。
とある娘を嫁にと迫ったが断られ、悪事三昧。困った人々はコチラの「霧島の神様」に、どうにか助けてほしいと願ったとか。

そこで、霧島の神様は「鬼」たちを集めて、1つの約束をしたという。
この時点で、豪族ではなく「鬼」となっている。ひょっとすると、悪い心とその所業が、人間の姿を「鬼」に変えてしまったのかもしれない。
『この神殿に通ずる階段を一夜にして一千個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ』と契約をなされたのであります。
(東霧島神社のホームページより一部抜粋)
よくある話だ。
鬼があと少しのところで、積めなかったという結末なのだろう。まあ、最後は正義が勝つ……?
うん?
えっ。
予想に反して、全部積めそうなの?
なんでも、想像以上に、石を積むペースが早かったという。
そりゃ、嫁欲しさに鬼だって頑張るもので。

ただ、それだと「悪」が勝つという結果になってしまうではないか。まあ、約束した手前、鬼が石を積み上げてしまえばなかったことにはできないだろう。積む前に阻止せねばと、霧島の神様も考えたという。
そして、取った行動がコチラ。
霧島の神ハタと困り、このままでは悪がはびこり、善はすたるの御心にましまして、東の空、しらじと明るくし、長鳴き鳥を集めて鳴かしめ、鬼どもは夜明けと思い、九百九十九個の石を積み上げたところでそうそうに退散したという。…(中略)…今でも霧島の神には鶏を殺し、御供えすることを禁じています。
(東霧島神社のホームページより一部抜粋)
あと1個って。
ちょっと、鬼が可哀そうな気もするが。
このようないわれから「鬼磐階段」と呼ばれるようになったという。
そんな「鬼磐階段」の先にあるのが御神殿だ。
つまり、通常ルートで進むなら、御神殿でお参りするには、この石段を上る必要があるワケで。
えっちらおっちら、この長い石段を上るしかないと覚悟する。
さあ、行くぞと足を踏み出す寸前のところで、石段の横に立札を発見。

おっと。そうだった。
ここは「振り向かずの坂」なのだ。
鬼が積んだから振り向いてはいけないのか、その理由はいまいち分からないのだが。
振り向かずに上り切ると願いが叶うとなれば。そりゃ、振り向いたらあかんわな。絶対に。
まるで演歌の歌詞のような状況でも、こちらは至って真剣だ。焦らず、何があってもうしろを見ないと固く心に誓い、準備運動を開始。最近、足腰がきているダイソン。鼻息荒く、自分自身にありったけの「念」を注入した。
念のため、隣のカメラマンにも事前に忠告。
何かあっても、後方にいる場合は、振り向けないから助けられんぞと。
それを聞いてカメラマン曰く。そりゃお互いなと。
うん。確かに、そうだ。結局、自分の身は自分で守るしかないのである。
こうして、御神殿へと続く石段を静かに見上げた。
まずは、一歩。
続けて足を上げ、上の段へと移動する。
そうこうしているうちに。あっという間に、一番所に到着。

願い事はというと。
何を願おうかと、散々迷った挙句。
結局、「LOVE&PEACE」と同じようなニュアンスで、「健康と平和」という願いに落ち着いた。
やはり、こういう時は。
自分勝手な欲望を最優先にはできないのだと、改めて思い知った。
己の良心を再認識しながら、家族の健康と平和を願って呪文のように唱え、ひたすら石段を上がる。

正直、意外だったのは。
本当に、鬼が積んだような、大きくてゴツゴツした石が多かったというコト。
石が大きいため、次の段へと足を上げるのも一苦労である。
嫁欲しさに頑張ったんだなあと、妙にしんみりする。
いかん。いかん。集中せねばならん。

三番所付近で、左右に小さなお社を発見。
猿田彦神社など他の神様の末社である。
ここまでは、順調である。
振り向くなといわれれば妙に後ろが気になるものだが、一度も振り返らず。前方にいるカメラマンも問題なさそうだ。

ようやくここに来て。
先の方が見えてきた。恐らく「鬼磐階段」の終点だろう。
御神殿へと続く「神門」である。
近付くにつれ、神門の扁額の部分に、長い形状のモノが見える。
龍神様だろうか。
なんだか光り輝いて見えるのだが、気のせいか。

だが、いかんいかん。
こういう時こそ、油断は禁物である。
これまでの経験を踏まえると。大体、終わりが見えた時点で、緊張が緩み失敗することが多い。
「家族の健康と平和、家族の健康と平和、健康と家族の平和……」
あれ?
なんか願い事が違わないか?
繰り返し唱えていると、順番が……違って。意味も違って……。
その時。
黄色い小さな蝶がひらひらと。
右から左に目の前を通過。
願い事を間違えないように繰り返し、石段を踏み外さないように足元を確認し……これまでの集中力がプツンと切れた。
一瞬、意識が逸れて。
そのまま行き過ぎる蝶を目で追って。
危うく後ろを振り向きかけたところで。
四番所の立札が目に入った。

マジ、あぶねと。
一気に汗が噴き出す。
両手で顔をパンパンと挟み、再度、気を引き締めて前を見る。
あと、数段で神門である。

やっとこさ「鬼磐階段」を上り切る。
上がる前は、積まれた石が999個なのかと数えようとも思っていたのだが。
実際はそんな余裕などあるワケもなく、今はただ安堵の気持ちのみである。
途中、危ない場面もあったが。
一度も振り返ることはなく、無事に到着。
ちなみに、稲丸宮司曰く、本当に石の数は999個なのだとか。
それでは、一礼して、神門へ。
くぐると、真正面に五番所の立札を発見。

確かに、振り向いてはいけないという緊張が解けたからか。
ある意味「無」の境地。
こうして御神殿へと辿り着くことができたのである。
龍神様が宿る見事な柱
さて、ようやくのお参りである。
御神殿へと一歩踏み出す前に。
今更ながら、深々と息を吸った。
ちなみに、「鬼磐階段」で息が上がったからではない。
ここに来て、少し緊張しているのだ。
今回の新企画、寺社探訪シリーズの第一弾を東霧島神社へと決めた理由が、この場所にあるからだ。
ホームページでその存在を知り、どうしても直接この目で見たいと熱望した。
それが、御神殿の奥にある2本の柱。
今からご対面する雌雄一対の木彫りの「龍」である。
「彫られたのは御神殿が建てられた時ですね」
つまり、江戸時代中期頃ということになる。
御神殿の中へと入り、恐る恐る近付く。
遠目からでも、その存在感は圧倒的だ。

稲丸宮司の話では「霧島六社権現」の神社には、同じく雌雄1対の龍の柱があるという。
声も出さずに、しばし見上げる。
いや、ホントに、何が見事って。
金色の目から、鱗1つ1つまで。
精工な木彫りの技術はもちろん言うまでもないが。
そういう技術云々の話ではなくて。なんと表現すればいいのか。
──生きている
そう、まさにこの龍は「生きている」のだ。

これは、直接目にした人でないと共感を得られない話だろう。
だから書いても仕方ないのだが、それでもあえて書きたい。
間違いなく。
「昇り龍」と「下り龍」には、それぞれ魂が入っているように思う。
なんだか、夜になったら、もう、それぞれが勝手気ままに動き回りそうな勢いのお姿だ。
目を合わせ、心を込めてお参りする。
そういえば。
東霧島神社の境内には、龍神様の姿が多かったことに気付く。
「鬼磐階段」を上がってくる途中に見えた、神門の扁額の中の龍神様。

それに、神門近くには「龍神太鼓」があったはずだ。
こちらは、ちょっと愛嬌のある龍神様である。

いや、巻き戻すと。
確か「鬼磐階段」の前に、金色の龍神様が……。
「龍王神水」の立札のある場所だ。
竜王神は洗心浄代の霊験あらたかで吉祥を授け人々を守護する神秘性をもっている。特に商業の人は銭を洗い身に納め、病の人は霊水をいただくとよい。
(東霧島神社のホームページより一部抜粋)

稲丸宮司の話では、東霧島神社には、元々、龍神様の信仰があったという。
だから「石」だけでなく、「龍神様」も多いのだと納得する。
そして、「龍神様」関連でもう1つ。
この神社にも、やはり信じられないような話があった。
「何年か前に参拝者の方が『あれっ?』て言われて。それがきっかけなんですけど。本当にもう自然に現れたんです」
じつは、神門の近くに大杉があったのだが。
その木の枝の部分に「龍神様」のお姿が現れたのだという。
だが、平成30(2018)年9月30日。
台風24号の影響で、無残にも倒木。
「倒れたんですよ。台風で。(樹齢)400年ぐらいの大杉が。そのまま裏参道に全部倒れまして。その龍神様のお姿に似た部分だけは上を向いて壊れてなかったので。御神殿の神門横にお飾りしてるんですけど」
それが、コチラの枝である。

「ちょっと間違えたら、本殿の方にね(来る可能性もあったから)。だから、こっちに倒れなくてよかったと。裏参道の方にバーンって倒れたんですよね」
なぜ、龍神様が現れたのか。
それは、稲丸宮司にも分からないという。
ただ、1つはっきりしているのは。
大杉がお社を守る様にして倒れたというコト。
そのため、御神殿に被害が及ばなかったとか。
これこそ、龍神様のご加護なのかもしれない。
静かに手を合わせて、取材を終えた。
取材後記
「石」「鬼」「龍神様」
見どころが多過ぎて、またもや予定の字数を大幅に超えてしまった。
これで「ダイソンの寺社探訪」も終わりかと思いきや。
最後に、戦国時代ファンにとっておきの情報をポイントだけお伝えしよう。
じつは、東霧島神社は、戦国時代に名を馳せた「島津四兄弟」との関わりが深いことでも有名だ。
「この辺り、都城市は島津さんなんで。まあ、(人気は)鹿児島県ほどではないと思うんですけど。でも、鹿児島県は『島津斉彬(なりあきら)』さんで、『島津四兄弟』っていったら、こっちですよね」と稲丸宮司。
島津斉彬とは島津家28代当主で、幕末期の薩摩藩主である。
これに対して、島津四兄弟とは、戦国時代から江戸時代にかけての武将らで、長男の「義久(16代当主)」を筆頭に「義弘(17代当主)」「歳久」、「家久」の4人のコト。豊臣秀吉に屈したものの、勇猛果敢な島津家の名を全国に広めた兄弟として有名である。
そんな島津家との関わりの1つ目がコチラ。
戦勝祈願の「大杉」だ。
「大杉は島津義弘公が家臣に命じて、慶長5(1600)年に植栽させたと言われております。戦勝祈願ですね」

幹が太いだけではない。
空に向かって伸びる力強い枝が、非常に印象的だ。
2つ目が「神輿(みこし)」。
「令和元(2019)年にお御輿を改修したんですよね。島津家久公が御奉納されて、古かったもんですから。コロナで何年か担げなくて。一昨年に久しぶりに階段をおりて担ぎました」

改修されたからか、見た目は新しい。
そのため、奉納された話を聞くまでは、年代モノとは思いもしなかった。今思えば、歴史的に意味のある貴重な神輿である。
なお、この島津家久とは、島津四兄弟の1人ではなく、島津家18代当主の「家久」である。
さらにさらに。
3つ目が「梵鐘」。
冒頭でご紹介した境内の案内図。その背後、少し高台の場所に安置されているのが、不思議な「梵鐘(ぼんしょう)」だ。

宮崎県の有形文化財に指定されているほど貴重なもので、青銅製で高さは約1m。梵鐘の表面には、幾つか銘文が刻まれている。
その銘文の1つが「大壇主藤原家久朝臣(あそん)」。
これは、島津家18代当主の「家久」を指しているという。
つまり、神輿と同様、梵鐘も家久が東霧島神社へ奉納したようだ。

それにしても、どうして「不思議」な梵鐘といえるのか。
じつは、一時期、行方知れずになっていたとか。
明治時代初期に、東霧島神社から鹿児島県の細工奉行所に移されたところまでははっきりしているのだが。その後はさっぱり。一体どこへ行ったのやら、かなり長い間、その行方がわからなかったという。
そして、時は流れて。
昭和50(1975)年。ちょうど今から50年前に、とうとう梵鐘を発見。
詳細は不明だが。
発見された場所は宮崎県とはほど遠い、長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡の宝性寺。コチラの寺で安置されていたそうだ。東霧島神社のある高崎町の町民らの交渉で、ようやくこの地へ帰還できたという。
駆け足でご紹介したが、島津四兄弟に関連する様々な遺物。
コチラも、大注目マストである。
最後に。
これまで様々な記事を書いてきたが。
ここまで記事の見出しの画像を1つに絞り切れなかった記事も、そうそうない。
どの画像も魅力的で。
目を引くインパクトがある。
それほど、見どころが多い神社といえるのかもしれない。
ただ、この記事では当然ながら、すべての魅力を語り尽くせはしない。
だからこそ、声を大にして言いたい。
「寺社探訪シリーズ」は、あくまできっかけであるのだと。
是非とも、実際に足を運んでいただきたい。
目で、心で、五感で。
現地でしか分からない、その空気をしっかりと感じ取っていただきたい。
そして、願わくば。
あなただけの「寺社探訪」を綴ってもらえたら。
写真撮影/大村健太
参考文献
五代秀尭、橋口兼柄 共編 『三国名勝図会 : 60巻 19(巻之55-57)』 山本盛秀 1905年
基本情報
名称:東霧島神社
住所:宮崎県都城市高崎町東霧島1560
公式webサイト:https://tsumakirishimajinjya.com/

