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雅な秋の趣を女郎花の歌とともに
名にめでて折れるばかりぞ女郎花われおちにきと人に語るな 遍昭
女郎花涙に露や置きそふる手折ればいとど袖のしをるる 藤原公光
秋草の花に彩られた野を、春にはない味わいとして特別に「花野(はなの)」とよびならわしてきた。花野にはどんな花が咲いていたのであろう。山上憶良(やまのうえのおくら)の歌がある。
萩の花尾花(をばな)葛花(くづばな)瞿麦(なでしこ)の花女郎花(をみなへし)また藤袴(ふぢばかま)朝貌(あさがほ)の花
数えてみると七草。
なんとも豪華な花野である。
今回はその中の女郎花の歌をみてゆきたい。
何といってもこの字づらからは、誰もが美女の姿を想像せざるをえないだろう。
そこでこんな歌がうたわれている。
名にめでて折れるばかりぞ女郎花われおちにきと人に語るな 遍昭(へんじょう)
――女郎花とは何とすばらしい名。それにつられてつい手折(たお)ってしまったが、僧の私が女郎(じょろう)の美の誘惑に負けて女犯(にょぼん)の罪に堕(お)ちたなどと言ってはいけませんよ――
王朝の高僧は何と風流な歌を詠むことか。
作者遍昭の俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。
仁明(にんみょう)天皇の寵臣(ちょうしん)で蔵人頭(くろうどのとう)として側近にあったが、天皇の崩御(ほうぎょ)のあと出家。歌は独特の雅趣(がしゅ)に富んだ作風で、「われおちにき」など自在な奔放(ほんぽう)さにもはながある。
女郎花を美女の面影とともに詠むならわしが定着したのはいうまでもない。

女郎花涙に露や置きそふる手折ればいとど袖のしをるる 藤原公光(ふじわらのきんみつ)
――女郎花は涙に露を置き添えているのか。手折ればいっそう袖が濡(ぬ)れしおれたよ――
「嘆くこと侍(はべ)りける時」に詠んだという。
何を嘆いていたのであろう。
公光の姉(あるいは妹)に当たる高倉三位(たかくらのさんみ)は後白河院(ごしらかわいん)の皇子、皇女を多く儲(もう)けた女人。
殷富門院亮子(いんぷもんいんのりょうし)、式子内親王(しょくしないしんのう)、守覚法親王(しゅがくほうしんのう)、以仁王(もちひとおう)ほかである。
二条天皇崩御後、以仁王の元服(げんぷく)の儀が平家に遠慮しつつ秘めやかに行なわれたが、公光は翌年突如解官(げかん)され、権中納言従二位(ごんちゅうなごんじゅにい)のまま政界から脱落、治承(じしょう)二年(一一七八)失意のまま逝去した。
以仁王の治承の乱はその二年後に起きている。

話を王朝の最盛期に戻そう。
左大臣道長の土御門邸(つちみかどてい)の秋である。
道長の一の姫彰子(しょうし) は一条天皇に入内(じゅだい)し中宮となっていたが、出産間近で里邸に退出しており、邸内には静かな中にも花やかな活力が満ちていた。
紫式部が渡殿(わたどの)に近い局(つぼね)から早朝の庭を眺めていると、当主の道長は自ら遣(や)り水の流れに気を配ったり、細心の心づかいが見えるようだ。
その道長が一叢(ひとむら)の女郎花の辺りに近づき、一枝手折ると式部の局にやってきた。
几帳(きちょう)の上から式部の寝起き姿を眺めながら女郎花をお見せになり、「露を含んだ女郎花で一首、早く早く」と仰(おっしゃ)る。
そこで硯(すずり)のそばに寄り、眼にしたままを上句に据えて「をみなへし盛りの色を見るからに露のわきける身こそつらけれ」と詠んでさしだす。
――露の恵みに美しい女郎花に比べ、露に忘れられたわが身が悲しい――とうたったのだ。
すると道長は笑って、すぐに返歌を書き添えてくれた。
「しら露はわきてもおかじをみなへし心づからや色のそむらん」
――女郎花が美しいのは白露がひいきしているからではありませんよ。みんなそれぞれの心というものの働きから美にも醜(しゅう)にもなるのですよ――というもの。
何とも優しくあたたかな贈答歌である。

馬場あき子 歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2024年10・11月号)』の転載です。

